第3話 無償の愛を貫きましょう

  この日は、優香と一樹、3回目のデートの日だ。少なくとも、優香はそれが「3回目」であるということを、覚えている。しかし、一樹の方は、どうであろうか…。

 優香はそのことを不安に感じながら、待ち合わせ場所に向かった。

 その日の待ち合わせはちょうど昼の12時で、2人は「近くの遊園地に行きましょう!」と、メッセージでやりとりしていた。そして優香は、そのメッセージを送る際、

『レストランでデートもいいけど、遊園地はそれとは違って、歩いているカップルをたくさん見ることができるから、私たちのムードもそんなカップルみたいになればいいな。』

と思い、そのデートを楽しみにした。

 実際、優香の方が早めに着いた待ち合わせ場所には、カップルが大勢おり、中には(その日は寒かった、ということもあり)マフラーを2人で共有して巻いているカップルもいた。それを見て優香は、

『私たちも、こんな風になれるのかな?』

と、そんなカップルをうらやむ気持ちになった。

 そうして待っているうちに、一樹の方がやって来た。

「あ、お待たせしました、優香さん。」

優香は一樹にそう言われ、

「いえ、私もさっき来た所です。」

と返す。しかし一樹は、

「本当ですか?何か、さっき来た割には寒そうにしてますが…。」

と言い、さらに、

「そんなことないですよ!」

「でも、優香さんの鼻の頭、少し赤くなってますよ!」

「ちょ、ちょっと、女の人にそんなこと、普通言わないですよ!」

そう冗談っぽく言われた優香が、これまた冗談っぽく一樹に言い返す。

「す、すみません…。」

「大丈夫ですよ!さっきの冗談って、分かってますから!」

「いや実は冗談ではなく…。」

「えっ!?」

「いや、本当は冗談です。」

「何ですかそれ!」

こう言って2人は、笑った。

 しかし、その笑顔も、次の一樹の発言がきっかけで、消し飛んでしまった。

 「何か不思議だなあ…。こうして優香さんとお逢いするのって、初めてですよね?

 その割には、こんなに会話が弾むなんて…。

 よっぽど、気が合うのでしょうか?」

「えっ…!

 一樹さん、前に私と逢ったこと、覚えてないんですか?

 あの後、病院には行きましたか?」

「病院?いえ、僕は最近は病院には行っていませんが…。」

「そ、そんな…。」

これから冬になり、もっと寒くなると氷柱ができることもあるが、優香の表情は、そんな氷柱を先取りしたかのように凍りついてしまった。

 しかし、凍りついてばかりではいられないと優香は思い直し、とりあえず会話を続けることにした。

 「一樹さん、前に私と逢った時のこと、覚えてません?

 ほら、一緒にレストランに、行ったじゃないですか。」

「僕たちは、初対面ではない…!?

 ちょっと待ってくださいよ。…そういえば、以前女性の方と、フレンチのレストランに行ったような気が…。」

「そうそう、それ、私と行ったんです!」

「…いやでもそれ、優香さんではないと思います。

 僕がそのフレンチのレストランに行ったのは、別の女性とで…。」

『また、始まった…。』

優香は内心そう思い落胆したが、とりあえず話を聞くことにした。

 「じゃあその、他の女性の話、聞かせて頂けません?」

「えっ…でも…!」

「私もその話気になるので、遠慮なく話してください。」

優香は、弱っている自分の心を隠すかのように、少し大きめ、また強めの声で、一樹にそう伝えた。また、優香の心の中には、

『こうやって話を聞いているうちに、一樹さんも私とのこと、思い出すかもしれない。』

という、淡い期待があった。


 「その女性は、これは僕の勝手な思い込みかもしれませんが、聞き上手なタイプで、僕なんかのつまらない話を、よく聞いてくれました。」

『確かあの時も一樹さん、元カノのこと話しだしたんだよな…それを聞いてたから、『聞き上手』って思ってるのかな?』

優香は瞬時にそう思ったが、それを態度には出さないようにして、一樹の話を聞いた。

 「それで、彼女はよく笑う人で、それを見ているこっちまで、笑顔になるような人でした。」

「それで、その人とは…付き合っていたんですか?」

優香が、何を思ってかそんな質問をすると、一樹は、

「いえ、その人とはお付き合いはしていません。

 でも、確かその時、その人に昔付き合ってた彼女のことを話した気が…。」

『また、元カノの話…?』

優香は少しうんざりしたが、これも彼の記憶が戻る手助けになるかもしれないと思い、我慢して続きを促した。

 「彼女はサバサバした性格で、いわゆる『同性からの人気が高い。』というタイプでしたね。

 それで彼女、時々説明口調になる時がありました。例えば彼女は女性の割にプロ野球が好きで、

 『あの時のあのピッチャー、何であんな球投げたんだろう?

 私がキャッチャーなら、あの場面は一旦外に外して、インコースにストレートで勝負するのに…。』

など、僕にプロ野球のプレーの細かい所まで語ってくれました。

 僕はそんな彼女を見て、

 『この人は、本当にプロ野球が好きなんだな。』

と、微笑ましい気持ちになりました。ただ、僕は男性の割にはプロ野球には詳しくないので、ただ彼女の話を聞くことしかできなかったですが…。」

「へえ、そうなんですね。まあ私も、野球は全然詳しくないですが…。」

優香は自分の気持ちをベールに包み、相槌を打った。

 「…それで一樹さん、何か、思い出せません?」

「…えっ!?」

「すみません。じゃあ、何か気づいたこと、ありません?」

「えっ、いや、特には…。

 もしかして、最近髪を切った、とかですか?何か女性の方は、そういった『気づき』に敏感、って聞いたことがありますので…。」

「…いえ、違います。

 とりあえず、遊園地、楽しみましょっか!」

「は、はい…。」

結局一樹は、何も思い出さなかった。

『でも、こうやって話を聞き続けていれば…。』

優香は、わずかな望みでも期待するしかない、そう気持ちを強く持った。


 そして、遊園地でのデートは…、

『とても楽しかった!』

優香に言わせれば、そんな内容のものであった。また、一樹の方も、無邪気にはしゃいだ様子の優香を見て、笑顔になることが多かった。

 前にも少し述べたが、その日は寒く、そのためその遊園地に来ているカップルたちはくっついていることが多かった。(もちろん、寒くなくてもそうであるかもしれないが。)そして、マフラーの共有だけでなく、例えば彼の方のポケットに彼女の方が手を入れるなどのカップルも見られ、仲の良さそうなカップルが、大勢いた。

 しかし、優香たちはまだ付き合ってはいない。それどころか、一樹の方は、優香との過去の思い出を、「昔出会った人との思い出」と思い、優香と思い出を、全く共有できていないのだ。そのことを優香は気にし、2人の間には、(「付き合う前」以上の)微妙な距離があった…が、それも遊園地のアトラクションに乗る前までであった。

 「一樹さん、ジェットコースターは大丈夫ですか?」

「いや、僕は絶叫系は、ちょっと…。」

「なら良かった。では、一緒に乗りましょう!」

「あの、すみません。僕は絶叫系は…。」

「そんな人こそ、この遊園地のジェットコースター、乗るべきです!」

そう言って優香は、無理矢理一樹をジェットコースターに乗せた。

「うわあああああ!」

ジェットコースターに乗った一樹は、普段の落ち着いたイメージが壊れるほど、叫び声をあげる。彼は、本当にこういったアトラクションが苦手のようだ。また、優香の方も、

「きゃあああああ!」

と叫んでいたが、その叫びは完全にジェットコースターを楽しむものであった。

 「優香さん、いきなりこのマシンはダメです…。

 正直、もう疲れました…。」

ジェットコースターから降りた後、一樹はそう優香に話しかける。それを聞いて優香は、吹き出しそうになるのをこらえながら、

「何言ってるんですか!本番はこれからですよ、これから!

 では、あそこのフリーウォール、乗りましょう!」

とさらに提案する。

「えっ…また絶叫系ですか!?」

「はいもちろん!」

「いや、ちょっとあそこのベンチで休憩しましょう…。

 サンドイッチとジュース、買って来るので…。」

「仕方ないですね~!じゃあ休憩しますけど、休憩終わったら、絶対乗りますよ!」

「は、はい、分かりました…。」

親の叱責を怖がる子どもような一樹の目を見て、優香はまたも吹き出しそうになったが、何とかこらえた。

 そしてその後、2人はフリーウォールだけでなく、回転ブランコや、観覧車などにも乗った。回転ブランコの方は、一樹も大丈夫らしく、2人は笑顔になってアトラクションを楽しんだ。そして、ちょうど夕日が沈むか、沈まないかというタイミングで、2人は観覧車に乗り、そこから見える景色を楽しんだ。

 「すみません優香さん、僕実はこの後実家の方で用事があって、これで帰らないといけないんです。」

「あっ、そうなんですね。分かりました。

 でも、今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました!」

「こちらこそ、楽しかったです!ありがとうございました!」

2人はお互いに、そう言い合った。しかしそこには、その「別れ」を心の中で消化できない、優香がいた。

 『今日は本当に、楽しかった!…でも私、一樹さんと離れたくない。このまま、一樹さんと一緒にいたい。』

優香は、一樹のことを、心から好きになっていた。

 『そして、一樹さんがどこにも行かないように、このまま抱きついて、離したくない…。』

優香の頭の中にそんな考えもよぎったが、さすがにそれは迷惑と思い直し、優香は自分自身を抑えた。

 そして、2人は観覧車を降り、

 「一樹さん、今度こそ、病院に行ってくださいよ。」

「えっ病院?僕、どこも悪い所はないですが…。」

「…分かりました。では今度、2人で病院に行きましょう。」

「は、はあ…。」

「ところで、次はいつ逢えます?」

「来週の日曜日は、いかがですか?」

「了解です!では来週、楽しみにしています!」

「こちらこそ!」

こう言って2人はその日、帰路についた。そしてその頃には日が暮れ、一番星が辺りを優しく照らしていた。


 ―そっか。結局その男の人、病院には行かなかったんだね。―

次の出勤日、優香は美鈴にまたも、相談を持ちかけていた。

 

 ―「はい、先輩。というかその人、『病院に行く。』ってことも、忘れてたみたいで…。」―

―それは辛いね。でも優香ちゃん、私が前に言ったこと、覚えてる?―

―「はい。『愛とは無償』ですよね?」

―そう!繰り返しになるかもだけど、それ、私のお気に入りの言葉なんだ!

 私思うんだけど、人を好きになるのって楽しいことばっかりじゃないよね?相手のことが好きすぎて、相手を疑ってしまったり、それで余計に傷ついたり…。そういった経験、私は誰にでもあると思うんだ。―

 ―「確かに…。」―

―それはもちろん、一般的な恋愛においてもそう。でも優香ちゃんの場合は、それだけじゃないもんね。何せ、相手が優香ちゃんとの思い出を、全部「過去の人」との思い出だと思ってるんだもんね。―

―「はい、その通りです。」―

―それは絶対に辛いと思う。でも、そういう時こそ優香ちゃん、基本に立ち返って!

 「愛とは無償」!だから、今はその彼のことを思って、彼のために何をしてあげられるか、考えることだね!そうやって優香ちゃんが努力を続けてれば、彼の「病気」か何だかも治るかもしれないよ?

 そうしたら、きっとその先に楽しいことが待ってる、はず!だから優香ちゃん、今は頑張り時だね!

 ほら、スポーツでも何でも、「基本が大事」って言うでしょ?―

―「なるほど。私はスポーツにはそんなには詳しくないのですが、言いたいことはよく分かります。」―

―ゴメンゴメン。まあ、スポーツの件はなしとしても、やっぱり基本というか、初心というかを忘れないようにして、頑張ってね!―

 ―「分かりました!ありがとうございます先輩!

 私、先輩なしでは、ここまで頑張れてないと思います。先輩には、本当に、本当に感謝しています!」―

―ありがとう優香ちゃん。…とりあえず、まずはその彼に、病院に行ってもらうことだね!―

 ―「そうですね!」―


 その日も、優香は美鈴のアドバイスを聞き、そしてそれに救われた。

『よし私、恋愛も、もちろん仕事も頑張らないといけないな…!』

優香は、そう気持ちを新たにした。


 「あ、お待たせしました、優香さん。」

優香はその日、一樹と何度目かの待ち合わせをしていた。

「いえ、全然待ってないですよ。」

「ありがとうございます。でも、女の人を待たせるなんて…、ダメですね。」

「いえいえ、そんなことないです。私がたまたま、少し早く着いただけですから。」

優香はそのように答えたが、

『私、デートの時に待つのは全然平気だけど、私のことを忘れて、私の気持ちまで、『待たせ』ないで欲しいな…。』

ふと、そんなことも思った。

 「それはそうとして、一樹さん、この前私と遊園地のジェットコースター乗りましたよね?

 あの後、大丈夫でした?」

「え、確かに僕は前に、遊園地でジェットコースターに乗りましたが…。

 それは優香さんとではない、ですね。」

『やっぱり、覚えてないんだ…。』

一樹からは、優香が予想していた答えが返ってきた。

「…そうですか。

 それで、今日はどこへ行きます?」

「今日は優香さんと、色々お話をしたいと思いまして。

 この先に、きれいな夜景が見える所があるので、そこで話しませんか?

 ちょっと、寒いかもしれませんが…。」

「分かりました。今日はあったかい格好して来たので、大丈夫ですよ!」

そう言って2人は歩き出し、目的地に到着した後はそこのベンチに腰かけた。


 2人は目的地に着いた後、少しの間黙って夜景を見ていた。その場所は少し高い所にあり、そこからは街の夜景が十分に見渡せる。そして、そこから見える街の明かりは、まるで満点の星空を鏡で地上に映し出したかのように、キラキラと輝いていた。

 そして、少しの間夜景を堪能した後、優香がおもむろに一樹に話しかける。 

「そういえば一樹さん、お仕事は何をされているんですか?」

「僕は、とあるメーカーの営業をしています。

この仕事、やりがいももちろんあるのですが大変で、特に、新規の営業先を開拓しなければいけないこともあるのですが、これが1番疲れますね。」

「へえ~。新規の営業先ですか。」

「はい。新しい所にいきなり電話をかけたり、訪問に行ったりするのですが、中にはきつい言い方をする営業先の方もいらっしゃいまして、そんな時はひたすら怒られてます。」

「あらら。大変ですね…。」

「そうですね。

 ところで、優香さんは何の仕事をされているのですか?」

「私は…福祉関係で、知的障害者の施設の支援員をしています。

 私の仕事も、やりがいはあるのですが大変で、よく職場の上司に、愚痴を聞いてもらっています。」

「そうですか。お互い大変ですね。」

一樹はそう言って、優香に笑顔を見せた。その笑顔はまぶしく優香に映り、

『一樹さんの笑顔、素敵だな。

 …って、私何考えてるんだろう!』

と、優香は1人で恥ずかしくなり、それを一樹に悟られないように気をつけた。

 その後一樹がまた、優香にある話をする。

「そういえばこの場所、前に昔付き合っていた彼女とも、来たことがあります。」

『また、その話か…。

 一樹さん、その話さえなければ、もっと素敵な男性なのに…。』

優香は、何度目かの一樹のその話に、内心そう不満を持ちながらも付き合うことにした。

 「そう、なんですね…。」

「ええ。

 その彼女は、夜景が本当に好きだったんですが、なぜかこの場所には『初めて来た。知らなかった。』とのことでした。それで彼女、ここに初めて来て、

『わあ、きれい!』

って言ってくれて…。

 その日も今日みたいな寒い日だったのですが、その寒さも吹き飛んでしまうくらい、その時は嬉しかったです。」

『その彼女、ここに初めて来たなんて、本当かな…?』

優香は内心そう思ったが、顔には出さずに一樹の方を見て、次の言葉を待った。

 「それで、この場所で僕たちはいろんなことを、語り合いました。その時は2人とも学生だったので、将来の夢なんかも、語り合いましたね。結局、僕はその時語った職業とは、違う仕事をしていますが…、それはいい思い出です。」

「あ、あの…、すみません。

 遊園地の彼女の件、訊いてもいいですか?」

そのまま気分良く語りそうな一樹を優香は言葉で制した。

『私、本当に一樹さんのことが好きだ。

一樹さんは他の女の人に元カノの話をするちょっとデリカシーのない人だけど、根はいい人だ。

 だから、これ以上この話を聞くのは、やっぱり辛い…。』

優香はそう思い、さらに、

『それに、私との思い出話をしていたら一樹さん、それが私のことだって思い出すかもしれない。』

と、何度目かの淡い期待も持ってそう話を振った。

「あ、はい、分かりました。

 その女の人とは、付き合っていたわけではありませんが、一緒に遊園地に遊びに行きました。

 それで、僕は絶叫系マシンが苦手だったのですが、彼女の方はどうやらそれが好きだったみたいで、僕も無理矢理ジェットコースターに乗せられました。

 その時は、死ぬほど怖くて、いや本当に、このまま落ちて死ぬかと思いました…。」

「へえ、そうなんですね。」

と優香は相槌を打ち、

『一樹さん、そんな風に思ってたんだな。』

と、少しおかしくなった。

「あと、それ以外にも僕たちはフリーウォールにも乗りましたね。あれも僕は相当怖くて、やっぱり今日は僕の命日になるのか、そんな風に思いました…。」

「め、命日って、おおげさじゃないですか?」

「いやでも、僕にとっては深刻な問題です。」

それを聞いた優香は、思わず笑ってしまった。

 そしてその後、優香はあることを思い立ち、一樹に話しかけた。

 「そういえばその女の人、どんな顔でした?」

「どんな…顔、ですか?」

「はい。例えば、髪の色はこんなのだった、とか、目鼻立ちとか…、覚えてます?」

『これで、私のこと思い出せるかな…?』

優香は、少しの期待を持って一樹の方を見た。

「…えっと…、ダメだ。思い出せないな…。

 でも、どうしてそんなこと訊くんです?」

「いや、ちょっと…、気になっちゃって。」

優香は落胆しながら、そう話をごまかした。

 「そうですか。

 あっ、でも、前に付き合っていた彼女の顔なら、思い出せます!

 彼女は…、」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

次の一樹の言葉を聞いた優香は、無意識のうちにそう言葉を発していた。そこには、自分のことを思い出してもらおうと、必死な優香がいた。

 「とりあえず元カノさんの話はいいです!

その、一緒に遊園地に行った人、こんな顔してなかったですか?」

「え、こんな顔って…!?

 …どうでしたかね…。すみません思い出せなくて。」

「それだけじゃありません。レストランに行った時、水をこぼした人のこと、覚えてます?」

「ああ、覚えてます。確かその人と一緒に、僕はその遊園地に行きました。

 でも優香さん、何でそのことを…?」

「その水をこぼした人の顔、こんなんじゃなかったですか?」

「え、いや、それは…。」

困った顔の一樹をよそに、優香の目からは涙が溢れ、そして泣き声になりながら、優香は続けた。

「じゃあこの際はっきり言います!それ、全部私なんです!あなたは覚えていない、というか他の人だと思ってますが、それ、私との想い出なんです!」

「…えっ!?」

「一樹さんにとっては『他の人』との想い出かもしれませんが、そんな想い出は全部、一樹さんとの大事な、私の想い出なんです!

 一樹さん、何か思い出せません!?」

「いや、そう言われましても…、すみません、それは優香さんとは違う気が…。」

「もういいです!

 私、今すっごく傷ついてるんです!自分の好きな人に、自分との想い出を共有してもらえなくて…!

 私、帰ります!」

「え、ゆ、優香さん…!?」

気づいたら、優香はその場を走り去ろうとしていた。もちろん、一樹はそんな優香を呼び止めようとしたが、優香は聞く耳を持たない。そして、その日はヒールのある靴を履いていたため、本来なら走りにくいはずであったが、優香はそんなこともおかまいなしに、ひたすら走り続けた。


「ついに、怒っちゃったか…。」

優香は次の出勤時、美鈴にいつものようにこの前にあったデートのことを話し、愚痴を聞いてもらっていた。

 「はい。私、途中で耐えられなくなっちゃって。

 ついに、泣いちゃいました…。」

 そして、いつものように美鈴のアドバイスが、始まった。


 ―まあでも、優香ちゃんが怒るのも無理ない、かな。

 その男の人、ちょっと、いやかなりデリカシーがないね。―

―「そうなんですよ…。」―

―でも優香ちゃん、そんな彼のことが、好きなんでしょ?―

―「はい。自分でもびっくりするくらいに、本当に好きになっています。」―

―だったら…、そんな彼と、向き合うしかない、かな?

 「愛とは無償」。これ、私たちの合言葉だからね!―

―「分かりました。とりあえず、頑張ってみます。」―

―頑張ってね。―

 そしてその夜、優香と一樹とはまた、デートの約束をする。優香はその時、ある決意を胸に秘めていた。

 そして…、その日がやって来た。


 「お待たせしました、一樹さん。」

「いえいえ、全然待ってないですよ優香さん。」

「そうですか。それは良かったです。」

「それで、今日ですが…、

 『きれいな夜景を見たい。』んですよね?」

「はい。どこか知ってます?」

「それなら、とっておきの場所があります。」

そう言い合って2人は、前のデートの時に優香がそこから走り去った、夜景の見える場所へと向かった。

 その場所はその日もきれいで、2人の気持ちのすれ違いや街の喧騒もまるでなかったかのように、静かな佇まいを見せていた。いや、「気持ちのすれ違い」というネガティブな考えをその時の優香はもう持ち合わせておらず、優香の心の中は、ある決意で満ちていた。

 そして、優香が前に来たこの場所を今回のデート場所に再度選んだのは、その「決意」を確かなものにするためであった。

 「優香さん、実はこの場所は、昔付き合っていた彼女と、来たことがある場所で…、」

「その話なら、知っています!」

一樹の話を途中で遮り、優香が大きな声を出す。

 「それで私、一樹さんに伝えたいことがあります。

 一樹さん、この前は勝手に走り去ったりして、ごめんなさい!」

「…えっ?確かにそんなことがありましたが、それは優香さんではなく…、」

「やっぱり覚えてないか。でもいいんです。」

「えっ…!?」

優香はそう言った後、深呼吸をして、一樹に言いたかったこと、伝えたかったことを、伝えることにした。

 「それで一樹さん、今日は私、一樹さんに伝えたいことがあります。」

「は、はあ…。」

「一樹さん。私、一樹さんのことが好きです。一樹さんはちょっとデリカシーのない所があるけど、本当は優しい人だって、私は知っています。だから、私はそんな一樹さんが、大好きです。

 だから私、一樹さんの全てを、受け止めたいんです。だから…、

 一樹さんの元カノの話、私に詳しくしてくれません?」

 2人の間に少しだけ、沈黙の時が流れる。そして優香は緊張しながら、一樹の返事を待った。

 「…ありがとうございます優香さん。

でも、本当にいいんですか?」

「はい。構いません。」

「では、僕の元カノの話を、まずしますね。

 元カノは…、」

一樹の語りが、始まった。

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