もう、戻れない――
「泊めてあげるのは全然いいんだけどさ」
環と喧嘩したから、家を出てきたというほとりに、繭は、すりガラスの戸に手をかけながら、言ってきた。
「汚いけど、驚かないでね」
だが、ガラス戸を開けた瞬間、ほとりは、
「汚い」
と言ってしまっていた。
繭が笑う。
店の中は小綺麗にしてあるのに、住居の方は、男の一人暮らしらしく散らかっている。
その和室には、勉強机のようなものがあり、そこにどっしりとしたパソコンが座っていた。
その周囲には雑誌の類いが山積みになっている。
「まあ、その辺座ってよ」
と言いながら、繭は椅子の上の物を退け、そこを軽くはたく。
埃が舞ったのか、咳き込みそうになった。
そのパソコンと古い百科事典や童話の詰まったスチール棚しかない部屋を見回し、ほとりは言った。
「具合悪くなるわよ、こんなところに住んでると」
繭は笑い、
「蘭子さんとこよりマシでしょ」
と言う。
「此処にも悪い神様が住んでるんじゃない?」
と眉をひそめて見せた。
今、繭が退けたグラビア雑誌の、水着の女の子が載っている表紙を見ていると、
「それ、お客さんの忘れ物なんだけど。
いる?」
と訊いてくる。
「いるわけないでしょ」
「じゃ、環に土産に持って帰ったら? ……殴らないでよ」
と言ったあとで、
「ご飯食べてきたんだよね? お風呂は?」
と訊かれた。
まだ、と言うと、
「じゃあ、入りなよ」
と言われる。
「ひとりで入るの久しぶりだわ」
と言うと、
「毎日、環と入ってるの?」
と訊かれる。
いや、石川五右衛門と―― と言いかけたとき、
「ほとりさん、これあげるよ」
と繭が雑誌の横にあったダンボールから、何かを投げて寄越した。
小さなビニール袋の中にサンプルのようなものが入っている。
化粧品の試供品のようだった。
「なんでもあるわね、此処」
「助かるでしょ」
と繭は言う。
「汚い部屋だっていうけど。
それは物が多いから。
物が多いと助かることもあるでしょ」
そうね、と辺りを見回し、
「でも、物を溜め込むってことは、思いも溜め込むことってことよね」
と言うと、
「そういうのがこの町には似合ってるよ」
と繭は笑う。
「繭、どうして街に戻らないの?
もう喘息治ってるのよね?」
そうほとりは訊いた。
繭は、喘息がひどくて、高校のとき、田舎に戻ってきたのだと聞いている。
「貴方は私以上に、この町に似合ってない気がするわ」
「戻れないよ」
繭は押し入れを開け、布団を出しながら、そう言った。
「もう、戻れないよ。
ほとりさんが元の生活にもう戻れないのと同じにね」
「どうしてそう思うの?」
「ほとりさん、切っ掛けはなんであれ、環が好きなんでしょ?
どんなに街の暮らしが恋しくても、ほとりさんはもう戻れないよ」
振り返り、繭は笑う。
普通の女の子なら、どきりとするかもしれない笑顔だったが。
人生荒み過ぎているので、しなかった。
「繭、まだ寝ないの?」
布団に入った繭は、枕許にあるライトの下で、何かを書いている。
薄いメモ帳のようなものだ。
んー? と言いながら、書き続けるそれを隣の布団から、枕を抱いて、覗いた。
「もしかして、その日あったことをいちいちメモに書いてる?」
「なんか回りくどい言い方だけど、それ、日記ってことだよね。
ほとりさん、書かないんだね」
と笑われる。
「なんで、いちいち書かなきゃなんないのよ。
今日、環に納豆もすぐ冷蔵庫にしまえと怒られたとか」
ははは、と言いながら、繭はペンを走らせている。
「私がそんなくだらないこと言ってたとか言うのまで書いてるんじゃないでしょうね」
「書こうか?」
別に繭は隠す様子もなかったので、それを覗いてみる。
奇麗な細い字でびっしりそれは埋まっていた。
「病的なほど細かいわね」
「こうして書くとすっきりするんだよ。
……時計と一緒だ」
「時計?」
「昔、おばあちゃんに言われたんだ。
目覚ましが鳴るまでは、なにもかも忘れてていい。
ほら、ずっと覚えとかなきゃいけないこととか、忘れちゃいけないこととかあるじゃない、忙しくて。
そういうときは、目覚ましの下に、これが鳴ったら、次、なにをしなければならないかってことを書いておいて、それが鳴るまでは忘れとくんだよ」
「そうねー。
なんにもないようで、日々用事って、
あれもしなきゃ、これもしなきゃって、ずっと思ってるのも疲れるから、その瞬間まで忘れてた方が脳の容量が空くっていうか、楽よね」
と言うと、繭は笑った。
「ほとりさんの言い方って、なんかあんまり情緒ないよね。
理系?」
いや、理系が情緒がないと思うのは偏見だ。
科学も突き詰めていくと、やはり、神は居ると思うようになると言うではないか。
いや、うちの庭先に、今、まさに居るんだがが……と思いながら、
「でも、あんたの目覚ましの下、クロスワードとかしかないようなんだけど」
と言ってやったが、やっぱり笑っていた。
開いたままのメモ帳を見ながら、ほとりは言う。
「書いて忘れるの? 何もかも」
「僕が忘れても、紙が覚えててくれるから。
目覚ましかけとくのと一緒で安心感があるんだよ。
ねえ、もう寝ようか」
そう言い、繭は電気を切った。
ほとりもまた布団にもぐり、目を閉じてみる。
だが、先程見た白く長い手帳が目に焼き付いていた。
「繭……」
「なに?」
「あのさ。寝る前に反復すると、かえって脳に焼き付いちゃうよ。
特に起きてそれを読み返したりしたら」
そう言っても繭は、
「受験のときみたいだね」
と笑っている。
繭は、わかっていて、やっているのかな、と思う。
目を開け、天井の木目を見た。
手を横に落とすと、ちょうど繭の手に触れる。
離しかけたが、そのまま、探るようにつかんでみた。
繭は自分と同じように天井を見つめ、じっとしている。
しばらくして、繭の声が聞こえた。
「ほとりさん、男ならよかったのに」
「そう。私は今、あんたが女ならよかったのにと思ったわ」
そのまま、二人で、光ったあとのぼんやりした蛍光灯を見つめていた。
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