森の中のあの場所に――

 

 森の中、細い獣道を歩いていたほとりたちは、少し道の脇が広くなっている場所に出た。


 椎茸の原木を並べられた小屋や墓があるそこで環は立ち止まる。


 いきなりだったので、その広い背中に激突したほとりは、いてっ、と鼻を押さえて言った。


「どうしたの? 行かないの?」


 振り返らないまま、小屋の前を見、環は言った。


「ほとり、車がない」

「え?」


「車がないんだ」


「えっ?

 まさか、『あの車』、此処に乗り捨ててたのっ?


 めちゃくちゃ目立つじゃないっ」

とほとりは思わず声を張り上げてしまう。


 山に響いた。


 森の中ではあるが、此処は少し開けていて、下の田んぼがこちらから見える。


 ということは、向こうからも見えるということだ。


「桧室さんを殺したって人が乗り逃げたのかしらね?」


 そもそも、桧室を殺した男が寝起きしていたというのも、此処かどうかわからない。


 既に車は、誰かが動かしていたか、その男が動かしていたかで、此処になかった可能性もあるからだ。


 桧室は街の人間なので、こんな不案内な山の中の何処に車があったのかなんて、覚えてもいないようだったから、彼に訊いても、確かめることは出来ないだろう。


「ああ、でも、鍵がなきゃ動かせないか」

とほとりが言うと、


「いや、鍵はつけたままだった」

と環は言い出す。


 えーっ、とほとりは、また、早朝だと言うのに、声を張り上げてしまった。


「どんだけ不用心なのよっ。

 この車に乗ってたんでしょ、四億円ーっ」


 家の何処にもないから、『あの四億円』はおそらく、まだ、車の中だと当たりをつけていたのだ。


 すると、冷ややかに、こちらを見た環が、

「残念だったな。

 お前は、その四億を取り返すために、うちの親に頼まれてきたんだろうに」

と言ってくる。


「とんだ狐だな」

と言う環に、いやいや、とほとりは手を振った。


「逆よ。

 嫁に来たついでに、四億探して来いと言われただけよ」


 ま、四億探していたはずが、うっかり死体を見つけてしまったわけだがだが――。


 ほとりは溜息をつき、もう車のない椎茸小屋の前を見た。



 


 将来、父の跡を継ぐため、父が懇意にしている代議士の許で研鑽を積んでいた、バリバリのエリート秘書様だった環が、その代議士、田村の許から四億円を持って逃げたのが半年前。


 受け取りに行った裏金を持って、車ごと逃走してしまったのだ。


「いろいろと、めんどくさくなったんだよ」


 ……困った人だ、本当に、とほとりは、寒い山の朝、白い息を吐きながら、不満をもらす環を見た。


「ま、幾ら、長谷川先生んちの跡継ぎ息子でも、普通の嫁は来ないわよね、あんなことしたら」


 表沙汰に出来ない金なこともあり、刑事事件にはなってはいないのだが。


 だが、結婚すれば、いずれ、知れる。


 普通の嫁なら出て行くことだろう。


 だから、私のような、出戻りなうえに、なんだか得体の知れない嫁くらいしか送り込めなかったわけだ……、とほとりは自分で思っていた。


「貴方が金目当てに持って逃げたわけじゃないのは田村先生もご存知なので。


 今すぐ戻したら、不問に付すとおっしゃってるらしいわよ」


 ただ、ストレートにそんなことを言っても、帰ってくるような環ではないので、とりあえず、持って逃げた四億がまだあるか探してくれと頼まれたのだ。


 金に執着がない分、平気でその辺に捨てそうだからだ。


「田村先生は、貴方のお父様に、ああいう高潔な人間は政治家には向いてない、とおっしゃってたようだけど」

と伝えると、


「別に綺麗事を言いたくて、裏金を持って逃げたわけじゃない。

 ああいう世界に、ほとほと嫌気がさしただけだ」

と環は言ってくる。


「そりゃわかるけど……」


 自分も子どもの頃から見てきたので、まともな神経をしていたら、およそ出来ない商売だというのはわかっている。


 でもまあ、こんなもんだろうと流せる自分と、流せない環。


 やはり、自分よりは『正しい人間』なのだろう。


「このまま戻らないのなら、長谷川先生とうちの親が補填することになるでしょうね、四億円」


「待て。

 なんで、お前の親まで出すことになる」


「出すって言うわよ、たぶん。

 可愛い娘婿のためだもの。


 ちなみに、この可愛い、娘じゃなくて、婿にかかってるからね」

とほとりは言った。


「それは俺が政界に戻ることを期待してのことだろう?」


 そりゃ、そうでしょうね、と思う。


 うちの親は無駄金は使わない主義だ。


「若いときは、ちょっとヤンチャもしたけど、でおさまると思ってるのよ、うちの親」


「どっちがヤンチャだ。

 今、親たちがやってることの方が、余程、問題あるだろう」


「郷に入っては郷に従えって言うじゃない。

 あの世界ではあっちが正しいのよ」


 反論しかけた環が言葉を出す前に言う。


「だから―― 戻らなくていいわよ」


 環は黙った。


「一ヶ月ちょいだけど、一緒に暮らしてみてわかったの。


 貴方にあの世界は向いてない。


 戻らなくていいわよ。


 でも……」

とほとりは霜の降りている地面を見て言う。


「でも、暮らすのなら、もうちょっとあったかいところがいいし。


 もうちょっと街に近い方がいいし。


 もうちょっとインターネットが速く使えて。


 もうちょっと……」


「わかった。

 いずれ考える」

と遮るように言われ、おや? と思った。


 どうやら、環もこのまま離婚する気はないようだ、と。


 親に押し付けられた、このあやかしよりも怪しい嫁を受け入れてくれるつもりなのだろうか。


 ちょっと迫っただけで、鈍器で殴ろうとするこの嫁を。


「まあ、それより今は、車と死体探しだな」

と寒さで凍りついた田んぼを見下ろしながら、環は言う。


「死んでればだけどね。

 意外と、あのヤクザの人より神経太くて、逃亡してるかも」


 そうあって欲しいと願っていたが、この間から、裏山から漂ってくるあの腐臭。


 霊が意図的に流しているものかもしれないと思っていた。


 自分を見つけてくれと――。





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