姐さんっ!?


 うーむ。

 あの箪笥の中にあったのは、大量のミワちゃん人形ではなかったかろうか?


 環の沸かしてくれた風呂に浸かり、ほとりは考える。


 ミワちゃんを取っ捕まえて訊きたいところだったが、こんなときに限って現れない。


「石川さん」

と石川五右衛門に向かい、呼びかけた。


 いや、彼が本当に、そんな名前なのかは知らないが。


 名乗らないので、最近、勝手にそう呼んでいる。


「ミワちゃんって、いつから此処に居るんですか?」


「ああ、あのなんか挨拶してる人形」


 石川さんは俯き、膝を抱えたまま言ってくる。


「さあねえ。

 気がついたら居たねえ」


 まあ、霊って時間の感覚がないからな、と思っていると、

「それより、僕が気になるのはさ。

 裏の山から感じる腐臭だよ。


 あれはやだなー。

 窓が開いてると、此処まで入って来るからね」

と言ってくる。


 ああ、とほとりは、風呂場の小窓を振り返った。


「じゃあ、開けないようにしましょうか? 此処」

と言うと、


「……カビるよ」

と言う。


 霊にカビの心配をされてしまった……と思いながら、ほとりは風呂を出た。


 こたつの部屋に入ると、誰かと電話で話していたらしい環が今どき見ない黒電話の受話器を置くのが見えた。


「守村が明日、婚約者を連れて来るらしい」


「あ、そうなの?

 わかった」

と言って、行こうとすると、待て、と腕をつかまれる。


「蔵で誰に襲われた?」


「いや……わからないけど。

 環は見なかったの?」

と言うと、


「暗かったからな」

と言ったあとで、


「……俺じゃないぞ」

と言う。


 いや、そんなこと言ってないじゃないですか、と苦笑いしていると、環は言ってきた。


「ほとり、そろそろ覚悟を決めないか」

「なんのですか」


 身構えたせいか、敬語になってしまう。


「お前、嫁いで一ヶ月だぞ。もうそろそろいいんじゃないのか?」


 もう一回、なんのですかと問うたら、さすがの環でもキレるかな、と思い、黙った。


「あのー、貴方が私になにもしなかったのは、私を警戒していたからではないんですか?」


「それもある……」

と環は渋い顔で言ってきた。


 親が送り込んできた怪しい嫁だからだろう。


 この人自身に後ろ暗いところがあるからな、と環を見ていると、


「だが、お前は一応、結婚して此処に居るんだろ?

 だったら、妻としての役目を果たせ」


 今のままでは、夫婦ではない、と言われてしまう。


「いやいや。待って待って。

 そういうことしなければ夫婦じゃないというのはおかしくない?


 一緒に暮らして、同じ釜の飯を食ったり、楽しく二人でお話ししたり、そういうのが夫婦じゃないの?」


 釜の飯を食ったり? 合宿か? と訊き返される。


「毒を食らわば、皿までだ」

 そう淡々とした口調で環は言ってくる。


「私、毒ですか」

「皿だろう」


「しかも、今、誰かに襲われそうになったんだろ?

 夫より先に他の男に手篭てごめにされるとか問題があると思わないか」


「……思いますね」


「さっきから、何故、敬語だ」


 距離を置きたいからです……。


 ほとり、と環はこちらの目を見、重々しい口調で呼びかけてくる。


「もう腹をくくれ」


「わ、わかりました」

と覚悟を決めて言いながらも、つい、無意識のうちに、そこにあった古いガラスの灰皿をつかんでいた。


 昔の二時間サスペンスでしか見ないようなあれだ。


 本当に此処、なんでもあるな、と思っていると、ほとりの手にあるその灰皿を見ながら、環は、

「お前、ほんとに既婚者だったのか?」

と呆れたように訊いてくる。


「い、一応そうなんだけど、でもっ」


 言い終わる前に、溜息をついた環に、両肩をつかまれ、押し倒される。


 ゴンッと灰皿が床の間に当たる音がした。だが、ほとりの手にあるそれには構わず、環は口づけてくる。


 いやーっ。

 どうしようっ。殴る? 殴らないっ? と自分自身に問いかけながら、灰皿を持つ手に力をこめたとき、環のスマホが鳴った。


「鳴ってる」


「気にするな」

と言われたが、手を伸ばし、えい、と通話ボタンとスピーカーボタンを押してみた。


『あ、環ー。

 守村、明日来るんだって?


 僕もそっちに……』


 すぐに聞こえてきた繭の声に、環が仕方なく、ほとりから手を離し、スマホを取って、通話を切る。


 その隙に、ほとりは逃げ出した。


「あっ、こら、待てっ」


 逃げながら、いやー、よく考えたら、なんで逃げてるんだろうなーとは思っていた。


 恥じらい?


 恥じらいかな? と鈍器のような灰皿を膝に抱え、納屋に隠れてみたのだが。


 納屋の前では、美和さんは人を殺しているし、よく考えたら、さっきの強姦魔がまだ居るかもしれないし、それに……。


 それに、さっきから、横に誰かが――。


 ほとりは振り向いた。


 あの緑の冷蔵庫と納屋との隙間に、男がひとりしゃがんでいる。


 ひーっ、と闇をつんざく悲鳴を上げて、ほとりは男に向かい、殴りかかった。


 手から灰皿がすっぽ抜け、納屋の壁に、重い音を立てて当たる。


 ひーっ、と男も叫んでいた。


「環ーっ!

 誰か居るーっ!」

と叫ぶと、悲鳴と激しい音を聞きつけたのか、環がやってきた。


 環は腕組みをして、こちらを見下ろし、

「……お前、俺から逃げておいて、よく、俺を呼べたな」

と言ってくる。


「ああ、えーと……。

 逃げちゃったのは……そのー、


 恥じらい?」


 これは、恥じらい、と男の身体を突き抜け、地面に落ちた灰皿を拾い、笑ってみせた。


 納屋の下はむき出しの土になっているのだ。


 男は、まだ、ひー、と壁に張り付いている。


 男の着ている白いシャツからは、柄のついた肩や背中が見えていた。


 刺青だ。


「あー、冷蔵庫の人」

とほとりが言うと、


「すみませんっ」

と男はいきなり土下座する。


「私、殺されてしまいましたっ」


「……殺されてしまいましたって、なに?」


「どんな謝り方だ」

と環と二人、呟きながら、男を見下ろした。





 男の告白により、ほとりと環は早朝、裏山に登っていた。


 あまり人目につきたくないが、暗すぎても足許が覚束おぼつかず、危ないからだ。


 朝の空気は、澄んで気持ちがいいを通り越して、既に痛い。


 ほとりが、頬がピリピリするなーと思いながら、細い獣道が急な斜面になっている場所を上がろうとしたとき、前を行く環が無言で手を差し出してくれた。


 そっと、その手をつかむ。


 いけませんかね? と温かく大きな手をつかみながら、ほとりは思っていた。


 こうして、阿吽の呼吸で、手を貸してくれたり。


 叱られながら、一緒にご飯作ったりするだけで、形だけ整っていた前の結婚より、よっぽど、夫婦っぽいと私は思っているのですが。


 今のままでは、夫婦として、いけませんかね?


 だが、口に出したら、今度は自分めがけて灰皿が飛んできそうなので、黙っていた。


 少し木々が途切れ、開けていた斜面の場所から、また深い森の中に入る。


 冬眠中じゃなきゃ、クマが出そうだな、と思いながら、ほとりは言った。


「殺されましたって謝る人、初めて見たわね」


 昨夜、男は、ほとりたちの前で土下座し、言ってきた。


「自分、桧室ひむろと言います。


 取り立て屋です。

 昔、ヤクザやってたんですが。


 組がゴタゴタして、分裂して。


 誰の下につくかなーと思ってる間に、なんだか乗り遅れて。


 気がついたら、職もなく、知り合いのつてで、取り立て屋の手伝いを」


 ヤクザの身の上話、初めて聞くなあ、と思いながら、男と向かい合うようにしゃがんだまま、ほとりは聞いていた。


「それが、今回の取り立てで、ちょいと相手を追い詰めすぎまして、殺されてしまったんです」


 あんな真面目そうで、ひ弱な男だったのに、と桧室は言う。


「私も殺されたのは初めてなんで、動転してたんですが。


 ともかく、最初は腹が立って。


 お前が経営難で金借りたのに、なんで俺を殺しやがったんだって思ってたんですよ。


 でも、この納屋の前で、何度も女を殺してるばあさんを見て。


 その必死の形相を見てたら、なんだかつられてこっちも悲しくなってきて。


 うちの田舎のばあちゃんの顔とか思い出したり。


 そのうちに、あの自分を殺した男の悲壮な顔を思い出したんです。


 殺す方も楽じゃないんだなと思って。


 ……あねさん」


 姐さん!?


「あの男、探してやってください。

 きっと生きてはいないです。


 此処へ逃げ込む途中に、捨ててある車がありました。


 立派な車だったから、帰りに取って帰って売っぱらってやろうかと思ってたんですけど。


 あいつ、そこで寝起きしてたみたいです。


 探してやってください。


 そして、自分がやりすぎだったと反省していると伝えてください」

と男は土下座したまま言ってくる。


「こうしてても、あの男の娘や妻の顔が浮かんできて。

 どうしているだろうと……」

と泣き始める。


 ……うーむ。


 死んで、涙腺が緩くなっているようだ。


 死んでから改心するというのも大変なのだな、と思いながら、ほとりは土下座し続ける男の頭を眺めていた。


 穴があったら入りたいという気持ちが、この霊を冷蔵庫と壁の隙間に追いやっていたのだろう。


「わかりました。

 とりあえず、その車、探してみます。


 たぶん……、心当たりのある人が居るので」

とほとりは環を見上げた。


 環は、すいっと視線をそらしてしまう。


 いや……


 ありますよね? 心当たり。


 あの車を乗り逃げしたから、今、貴方は此処に居るわけですから。






 ――で、そんなこんなで、結局、環と二人、早朝の山に登るはめになったのだった。





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