それは、お風呂に居ます
「田舎にはプライバシーがない」
環と並んで料理をしながら、ほとりは、ざくっと白菜に包丁を入れた。
「人を殺しそうな勢いだな」
と環が横で言う。
言ってる端から、勝手に勝手口が開いて、
「環ちゃん、タマネギいっぱいもらったからあげるね」
と近所のおばちゃんが置いていく。
「あ、ありがとうございますー」
と環と一緒に、ほとりも礼を言うと、おばさんは、にこりと笑って言う。
「あらあら、二人でお料理。いいわねえ」
「料理教室です」
と環が言う。
どちらがどちらに教えているのかは、一目瞭然だった。
おばさんは笑って戸を閉める。
去り際、その目は、おぼつかないほとりの手許を見ていた。
えーん……と小さく呟きながら、白菜をざく切りにしていると、環が、
「なんだかかんだで、うまくやってるじゃないか」
と言ってくる。
確かに、此処の人たちは、いきなり入ってきたりもするが、基本、親切だ。
「そりゃ、特に嫌なことはないわ。
虫は苦手だし、可愛い小物も見られないし、服も買いに行けないけど」
「……それだけ不満をぶちまけりゃ充分じゃないのか?」
「んー、此処の人たちは別に嫌じゃないのよ。
でもさ、やっぱり慣れないのよ~」
「包丁も使い慣れないようだな。
お前、結婚してたんだよな? 料理はどうしてた」
外食、と言ったあとで、
「いつもじゃないわよ」
と横目に見て言う。
「じゃあ、旦那が料理上手だったんだな」
「そうだけど。
結婚してからは、あんまり作ってくれなかったかな」
っていうか、私の前の旦那の話して楽しいか? と思いながら環を窺うが、その表情はまったく読めない。
「ほら」
とお椀を向けられる。
先に作ってあった牡蠣の味噌汁の味見をさせてくれた。
「美味しい」
と思わずもらすと、ようやくそこで環は笑った。
ずっと笑っててくれればいいのに。
……一瞬の幻なんだよな~、と思いながら、包丁を手に取ると、案の定、
「まだ切ってんのかっ」
と怒られた。
『いいよねー、環。
見合いで、あんな美人をいいように出来るなんて』
いつぞや、繭がそんなことを言っていた、と思いながら、環は、横で不器用に野菜を切っているほとりを見る。
いや、まったく、いいようにはさせてもらってないんだが。
嫁、という名目で此処に住まわせている女に、なんの見返りもなしに花嫁修業をさせている気分だった。
今も、真横に居るのに、ほとりは、ガラスケースの中に入り、触らないでくださーいっ、と額に貼っているかのような雰囲気を
我が嫁なのだから、強引に
よくわからない女だし。
『貴方に助けてもらった狐です』
本当に狐かもしれないしな、と思いながら、
「まだ切ってんのかっ」
と不器用な狐を罵る。
夕食後、茶碗を片付けたあと、ほとりが言ってきた。
「環。
一緒にお風呂に入らない?」
突然の新妻の言葉に、環は手にしていた新聞を落としてしまった。
「……誘ってんのか?」
「お風呂にね」
と言いながら、ほとりは、はい、と真っ白なタオルを出してくる。
「じゃあ、これで目隠ししてね」
「だったら入らない」
と立ち上がり、行こうとすると、
「だって、お風呂が怖いのよー」
とほとりが腕にしがみついてきた。
「寒いし、五右衛門風呂だし。
底に敷く板が、いつもひっくり返りそうになって、うまく乗れないし」
お願いしますっ。
一緒に入ってください~っ、と泣きついてくるほとりに、もうちょっと違うことをお願いしてこいっ、と思っていた。
「はい、こっちですよー」
結局、目隠しをされた環は、バスガイドのようなことを言うほとりに両手をつかまれ、よちよち歩きの子どものように歩き出す。
「おい、今、なにか蹴ったぞ……」
「ああ、ミワちゃんよ」
ごめんね、とほとりは人形に謝っていたが、人形は気にせず、
『ワタシ、ミワチャンヨ』
と言いながら、何処かに行ってしまったようだ。
コンニチハ コンニチハ
コンニチハ……
踏まれても蹴られても、縁側から転がり落ちても、自己紹介と挨拶を繰り返すミワちゃんには、なにやら強い信念のようなものを感じないでもない。
「やっぱり、これのことかしらね、日向さんが言ってたの」
ほとりは足を止め、ミワちゃんを見ているようだった。
「まあ、普通見たら、度肝を抜かれるな。
霊体じゃないから、誰にでも見えるし」
ミワちゃんは霊ではなく、霊がとり憑いているか、魂を持ってしまった人形なので、遭遇すれば、誰にでも見えてしまうのだ。
「はい、じゃあ、行きますよー」
と幼稚園の先生のような口調で言いながら、再び、ほとりは環の手を取り、歩き出す。
遠ざかっていくミワちゃんの声を聞きながら、生きてる人間も、霊も、あやかしも、どいつもこいつもやりたい放題だな、この寺、と思っていた。
この古い家の風呂は未だに五右衛門風呂だ。
五右衛門風呂は鉄の釜なので、熱くないよう、板を踏んで入るのだが、木の板なので、浮いてくる。
入るとき、うまく乗らないと、ひっくり返ってしまうのだ。
「
脱げないし、入れねえだろ」
と環が言うと、えー、と言ったほとりだったが、
「仕方ないなあ」
と言いながら、解いてくれる。
やけにあっさりだな、と思いながら見ると、ほとりはちゃんと服を着ていた。
「そーだ!
お前、服脱いでないじゃないかっ。
なんで、俺に目隠ししたっ!?」
そういえば、いきなり目隠しされて、引っ張ってこられたから、こいつが服を脱ぐ暇はなかったはずだ、とらしくもなく、ようやく気づく。
……どうやら、少し動転していたようだ、と思う環の前で、
「え、なんとなく」
とほとりは笑ってごまかそうとする。
ほとりも今、その事実に気づいたようだ。
「じゃ、脱いで入っておいて。
準備出来たら、呼んでねー」
と言って、五右衛門風呂の前のすのこから下り、サンダルを履いたほとりはスタスタと戻って行ってしまう。
下は土間なので、素足では冷たくて歩けないのだ。
……なんだったんだ、と思いながら、あっさり出て行き、ぴしゃりとすりガラスの戸を閉めるほとりを見ていた。
服を脱いで、長い棚の上にあるカゴに入れた。
風呂に近づき、
「……入りますよ」
と呼びかける。
入りにくいから以外にも、ほとりがひとりで、この風呂に入るのを嫌がるのには理由がある。
常に風呂に入っているなにかがこの風呂には居るからだ。
ぼんやりとした影のようにしか見えないが。
ほとりが以前、小声で、
「あれ、石川五右衛門なんじゃないの?」
と言ってきた。
何故、小声、と思ったが、話していたのが、風呂の横の台所だからのようだった。
本人に聞かれたくない阿呆な話という自覚はあるようだ、と思いながらも、
「……莫迦なのか?」
と言ってしまっていた。
「だって、これ、例のいわくつきの物が収められてる蔵から出してきたんでしょ?
本物の五右衛門が
いまどき、こんな釜、売っているのだろうかな、と思いながら、とりあえず、蔵の中を漁ってみると、この釜があったのだ。
こちらの方が綺麗なのに、何故、しまってあったのかが少々気になったが、とりあえず、とりつけて見ると、ぴたりと釜は風呂に収まった。
だが、案の定、釜にはなにかが憑いていた。
ほとりいわく、『石川五右衛門』さんを避けるようにして入ると、環は、すりガラスの向こうに向かい、呼びかける。
「入ってこい、ほとり」
はい、と可愛らしく新妻を返事をし、風呂場に入ってきたが、その手にはもちろん、あの白い分厚いタオルがあり、彼女は服を着たままだった――。
「あー、いいお湯ねー」
「いい湯だな。
目隠しされてるから、
「……それ、嫌味?」
と一応わかっているのか、ほとりはそう呟いていた。
「まあ、私も目隠ししてるから」
と言うほとりに、なんでだ……と思ったのだが、自分も恥ずかしいかららしい。
「でも、気持ちいいわね、五右衛門風呂って。
ちょっと掃除が大変だけど」
と言ったあとで、前のめりに磨いていて、頭から突っ込んで、髪が金臭くなったというしょうもない間抜け話を聞かせてくれる。
「俺が居ないときに掃除すんなよ」
まだ手を触れてもいない新妻が、自分で頭かち割って死んでいるとか勘弁して欲しい、と環は思っていた。
「でも、いいお湯だけど、狭いわね」
とほとりは不満をたれてくる。
「そうだな。二人だけでも狭いのに」
なんだかわからないものが、もう一人入っているからな……、と環は思った。
自分とほとりの間に、誰かが膝を抱えて、しゃがんでいる。
自分たちが話している真ん中で、俯いて聞いてるようだ。
っていうか、何故、邪魔するように、間に入る……と思っていると、ほとりが、その霊に聞こえないようか、小声で言ってきた。
「ねえ、この人、やっぱり、石川五右衛門なのかしら」
「……だったら、どうする?」
相変わらず阿呆なことを言ってくるほとりに、環は適当な言葉を返す。
確かに五右衛門が
それに、この霊が、ホンモノの石川五右衛門だったとしても、今はただ、風呂が狭くなって邪魔なだけの人だ、と思っていると、ほとりが更に小声で言ってきた。
「財宝とか埋めたりしてないですかって訊いてみる」
どれだけ小声で話しても、二人の間に、この霊が居る以上、無駄だと思うが……。
そんなことより、ほとりが石川五右衛門を避けるように入っているせいで、自分との間がかなり空いてしまっていて、肩すら触れないことの方が問題だ、と思っていた。
「でもさー」
とほとりが語り出す。
古い日本家屋は隙間だらけなので、風呂場なのに、声が反響することもない。
「田舎の、スペースが無限にあるのに任せて、なんでも物をため込むのって、どうかなあと思ってたんだけど。
釜でもなんでも、探してみれば、とりあえず、なにか代用できそうなものが出てくるのは便利ね。
家の中に古道具屋かデパートでもあるみたい。
……まあ、此処んちの蔵の中のものは、全部いわくつきの品だけど」
と言ったあとで、
「ねえ、なんで、蔵で経のひとつもあげてやらないの?」
と訊いてきた。
それは、美和のあの最後の言葉のせいだ。
『環ちゃん、あの寺は、私が居なくなったあとも、あんたが住めるようにしておいたから。
その代わりお願いよ。
ひとつだけ約束して。
此処の霊たちを成仏させないで――』
そのとき、ほとりが水音をさせながら、立ち上がった。
「私、先に上がるわ。
私が着替えたら、目隠し取っていいからね」
ほとりは着替え終わったあと、戸を閉めてから、
「いいよー」
と言ってきた。
目隠しのタオルを外しながら、繭が
とりあえず、隣りの霊を見てみたが、その薄い影は、ただ膝を抱えているだけだった。
ちょっと見られただけで、ぎゃーぎゃー言うくせにな。
「ほぼ、着てないのと同じだが……」
夜、環は、そっとほとりの寝起きしている部屋の襖を開けてみた。
戸締まりだ、と自分に言い訳しながら。
この家の雰囲気に合わせてか、着て寝ている浴衣ははだけ、布団は跳ね上げている。
「子どもか」
と呆れながら、あまりそちらを見ないようにして、近くにあった毛布を投げてやる。
そうして、ほとりの身体を隠してから、布団をかけた。
あどけない顔で寝ているほとりを、本当にこいつ、既婚者だったのか、と呆れまじりに眺めていた。
元人妻のくせに、その手の色気がひとつもないが、どういうことだ……。
確かに素晴らしい美人だし、ぐっと来るようなプロポーションだが、男がクラッと来るような
面倒見てやらなければと思ってしまう頼りなさは時折、あるが。
「おやすみ」
とその白くて小さな顔を見下ろし、呼びかける。
隣りの部屋に行こうとして、戻った環は、ちょっとだけ唇に触れようとしてやめた。
「……おやすみ、ほとり」
そう言い、襖を閉めた。
とりあえず、この女が来てから、この田舎でも退屈はしていない。
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