あやかしの横切る本堂
環が本堂で近所のおばあさんたちと話していると、ほとりがお茶を持ってきた。
「失礼します」
と床の上で手をつき、深々と頭を下げている。
外面の良いほとりは、言葉遣いも立ち居振る舞いも上品で優雅だ。
早速、おばあさんたちがいろいろ言ってくる。
「まあ、環さん、こんな田舎に戻ってきて、若い娘もそう居ないのに、どうするのかと思っていたら、やっぱり。
まあまあ」
と微笑ましげにほとりを見ている。
彼女が去ったあと、
「やっぱり、そつがないわねえ。
さすが未来の代議士の奥様ねえ」
と言っていた。
いや、あれは見てくればかりで、そつばかりの女ですよ、と思いながらも、いろいろ突っ込まれても嫌なので、そのまま流した。
というか、何故、俺が父親の跡を継いで、代議士になることになっている、と環は思う。
そういう世界が嫌だから、逃げ出して此処に来たのに。
それにしても、いい天気だ、と環は賑やかに嫁や孫の話しているおばあさんたちの話を聞きながら、外を見た。
庭では、陽気な首吊り男が揺れているし、人には見えていない、ちょっとマヌケ顔の犬が蝶を追い、駆け回っている。
本堂を出たほとりは首吊り男と話したあとで、生きてもいない犬に絡まれていた。
俺と話が合うと思って、見える女を送り込んできたのかもしれないが。
此処ではいっそ、見えない方が楽なんだがな、と環は思う。
このご近所さんたちのように――。
環は、巨大すぎて、本堂の中からは足だけしか見えない、通りすがりの霊だかあやかしだかに踏みつけられながらも、楽しげに話しているおばあさんたちを見た。
「なにもないんですよ。
此処にはなにもないんですよー。
インターネットも超低速ですしー。
近くにゴルフ場があるから、かろうじてスマホの通話とメールが使えるくらいなんですよー」
環は、おばあさんたちが帰ったあと、庭先で此処での生活の不満を訴えているほとりを見た。
「誰に愚痴ってるんだ、お前は」
「え? 霊だけど?」
とほとりは当然のように言ってきた。
「こんな田舎、霊とおばあちゃんたち以外に話し相手なんて居ないじゃない」
そう笑顔で毒を吐いてくる。
ねえ、とほとりは、そこの木にぶら下がって揺れている男の霊に向かい、同意を求めていた。
「でも、寺の庭で首を吊るってどんな嫌がらせですか」
とほとりが問うと、男は、
『いやー、此処ならすぐ弔ってもらえると思ったんだけどねー。
死体は始末してもらえたけど。
あのばあさん、全然経をあげてくれなくってね。
っていうか、此処のばあさん、人がいいのか。
次から次へといわくつきの品を預かってきては、なにもせずに、そのまま、全部蔵に放り込んでたんだよ』
尼なのにねえ、と愚痴ってくる。
「或る意味、便利ですねえ。
街のように、物を捨ててスマートな暮らしとやらをしなくていいですもんね、此処」
とほとりは腕を組み、頷いている。
……こいつ、片付けとか苦手そうだからな、と思いながら、此処へ来てからのほとりの言動を思い出しつつ、眺めていた。
庭の端で、太陽の光に白く輝く蔵を見る。
邪魔なもの、まずいもの、厄介なもの。
すべてあそこにぶち込んでしまえば終わりだ。
まあ、中を開けると、なんかすごい怨念が漂っているようだが……。
中小企業の社長だったという松の木の男に、ほとりが言う。
「じゃあ、ぜひ、このイケメン坊主様に弔ってもらってください」
自分が渋い顔をすると、
「いや、お坊様がイケメンだとご利益がある気がするのは女だけじゃないはずよ」
とほとりは言い出した。
だが、
『そうだねえ。
まあ、でも、もうちょっとぶら下がっていようかな』
と案の定、松の木の霊は言ってくる。
やはり、成仏する気など、さらさらないようだった。
ほとりは、はあ、そうですか、と言い、
「まあ、ぶら下がるの健康にいいですもんね」
とよくわからないことを言っていた。
阿呆か、という目で見ていると、
「ところで、環はなんで僧侶の資格を持ってたの?」
といきなり訊いてくる。
代議士である父親に命じられ、他の代議士の秘書をやっていた自分が何故、僧侶の資格を持っていたのか不思議なのだろう。
こいつ、俺の居ない状態で、うちの両親とだけ見合いさせられたと言っていたが、釣書とかもらっていないのだろうか。
まあ、へー、とか言って、適当にしか見そうにないしな、この女。
うちの親も大学名しか書いてなさそうだし、と思いながら、
「親に反抗して、仏教学科に行ったからだ」
と環は答える。
「それすらも、立派な議員になるためだったとか、平気で応援演説で言いそうな人だけどね、環のお父様」
とほとりは笑っていた。
なかなか人を見る目はあるようだ……。
そのとき、ほとりがいきなり悲鳴を上げた。
派手に足を振りながら、自分の後ろに隠れる。
普段は常に一定の距離を保っているくせに、今は、後ろから、がっし、と日差しで温まった自分の法衣を握っていた。
そのまま、地面を見ているようだ。
今、ほとりが足から振り落とした虫は、土の上で、もぞりもぞりと動いている。
一見、ムカデのようだが、足が細くて長く、数が多い。
ムカデと違い、一踏みで死んでしまうような生き物だ。
「ゲジゲジじゃないか」
騒ぐほどのことか、と思いながら言うと、法衣をつかんだまま、じっとしていたほとりが唐突に、
「……
と言い出した。
は? と振り向く。
「繭のところに行ってくるっ。
環っ、車貸してっ」
そう叫んだほとりは車の鍵を取りにか、玄関に向かい、脱兎のごとく駆け出していった。
……繭のところに行ってくるとか言ったか? 今。
脱兎のごとく逃げ去った妻を、環は呆然と見送っていた。
気がつけば、ほとりの車はもう、田んぼの横の道を疾走している。
繭は山を越えた集落に住んでいる、昔、この町に住んでいた頃の自分の同級生だ。
小学校のクラスメイト、と言っても、一クラスしかない学校だったが。
彼もまた、町を出て、都会で暮らしていたが、高校生の頃、身体を壊したとかで、空気の綺麗なこの町に帰ってきたらしい。
親と離れ、祖父の家に住んでいたようだが、祖父が亡くなってからも、その古道具屋を引き継ぎ、そのまま此処に住んでいるようだった。
ほとりの車は既に山陰に消えている。
あのハイスピードで峠に突っ込んでいったのか。
走り屋か。
対向車のない広い田舎道だからでもあろうが、飛ばしすぎだ。
上から見ていても、なかなかの技術ではあったが――。
この寺は少し高台になっているので、集落全体がよく見渡せる。
それにしても、よくわからない女だ、と環は思っていた。
だが、親から押し付けられたあの嫁をそのまま此処に住まわせたのは、あの天気のいい霧雨の中、
「貴方に助けてもらった狐です」
と言ってきたその姿が、阿呆なセリフに反して、美しかったからだろうか。
だがまあ、あんな女に、こんな田舎暮らしは無理だろう。
早々に音を上げるに違いない、と思いながら、環は本堂に戻ろうとした。
そのとき、ふうっと裏山から風が吹いてきた。
その風に混ざった匂いに、思わず、顔をしかめる。
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