終ー3.


 ――――。


 ――。



 と、いうことだった。


 『ザ・イーバイク』で昨日買ったばかりの俺の自転車が、今この部屋の中に置いてある。ピカピカのブルーのフレームが部屋を照らしている。堂々とそこに立って、荒川の目を奪っている――信じられないものを見るような目をして、呆然と立ち尽くしている。


 さて彼女は何と言うだろう――正直なところ、少し不安もあった。『ザ・イーバイク』の店員にもう少し話を聞いたところによると、電動アシスト自転車というのはどうも日本において、スポーツ自転車好きの人間たちからは邪道として避けられている側面もあるらしい。


 自転車好きにとっての自転車とは、あくまで自分の力で走るものであって――だからこそ自転車というのであって、それを電気の力で楽をしようなど、自転車の風上にも置けないヤツだ――と、そんなことらしい。


 俺は別に自転車好きではないのでその点に関して言うことはないけど、荒川はどうだろう? 荒川はただ単に自転車というものを偏愛しているようだけれど、どちらかと言えばスポーツ自転車好きの部類に入りそうだから、俺の買った自転車に対して文句を言ってくるのではないだろうか――そんな恐れを、俺は少しだけ抱いていた。


 しかし、果たして荒川の返事は良い意味で期待を裏切るものだった。俺が言うのもなんだけれど、荒川輪子――彼女は尊敬すべき自転車乗りだ。俺が認める自転車狂だけあって、さすが考え方も並外れている。それは彼女との次の会話によって、思い知らされたことだった。


 「はは、あっははっ、はっ、そっか、そういうのもあったんだね、」


 荒川は俺の自転車に見惚れていたかと思えば、急におかしそうに笑い出し、


 「はは、これは完全に予想外だわ、度肝を抜かれた気分だよ。ふふっ、でもそっか、改めて考えてみると納得。電動アシストかー、全然考えてなかったけど、確かにこれは、江戸君にピッタリだね」


 「電動でもいいのか? 俺はてっきり、こんなの自転車じゃない! もっとちゃんとしたロードバイクを買ってこい! みたいなこと言われるんじゃないかと思ってたけど」


 「ううん、全然、」


 荒川は笑いを堪え切らない様子のまま首を振り、


 「だって電動アシストって、まさに江戸君みたいな人のためにあるモンじゃん。誰でも自転車を楽しめるようにって、それがその目的でしょ。江戸君みたいな人でも、自転車に乗れる――全然自転車に興味がなかった人でも、乗れる。江戸君みたいな人に選ばれれば、そのコにとってももう電動冥利に尽きるって感じでしょ。はは、何か面白いくらいに胸にストンと落ちた。笑いが止まらないや」


 これだけ笑われると何だかバカにされているような気分がしてあまり愉快ではないのだけれど――まあ荒川が機嫌を取り戻してくれたようなので良しとしよう。


 そして彼女のこの笑顔を見る限り、ここ数日の一連の騒動もとりあえず解決したと見ていいだろう。俺は自転車を買い、荒川の望みを叶えた。そしてそれは決して強制されたものではなく、俺は自分の意思で自転車を買った。そしてそれをこの部室に持ってきた。それが意味することはつまり――まあ、俺ももう部活をやめたいなんて到底言えない状況になっちまったってことだ。


 自転車を買って、自転車部に参加する――つまりもうそれは、活動に積極的に参加します、やる気満々ですって宣言してるようなモンだしな。まあ少なくとも満々ではないことは確かだけど。


 とにかくこの現状、誰も不満を持てる隙がない。荒川は結果的に全て自分の思い通りになったことだし、宮やアリスさんにとっては荒川が笑顔で帰ってきてくれた、それだけで十分なはずだ。


 唯一俺は、これからどうなるのか募る不安を抑えきれないというのがあるけれど、まあそれは今さらつべこべ言っても仕方がない――まあなるようになるさ。バッドエンドその後エンドレス鬱展開だけは避けられたのだから、今はそのことを素直に喜ぼう――。


 そうこうしている内に、遅れて宮とアリスさんがやって来る。部室の中の光景を見た二人は、最初は揃って目を丸くしていたが(もちろんこの二人にも自転車を買ったことは秘密にしていた)、すぐにその表情を歓喜の色でいっぱいにする。


 「江戸君……自転車、買ったんだ。わああ、すごい、何だか夢みたい。これでみんなでサイクリングに行けるね。ううう、嬉しすぎて涙が出てきちゃった。ああ、ボロボロ、ぐすん」


 「もー、フーちゃん、別に泣くようなことじゃないでしょ。江戸君が自転車買ったくらいでそんな泣いてたら、もっと大事な時に出す涙がなくなっちゃうよ」


 感極まる宮に対して気丈に振る舞ってみせた荒川だけれど――


 「ふふ、そういうリンちゃんだって、目が潤んでるよ」


 「え? いや、これは違うからっ。あたしは別に泣いてるんじゃなくて、これはただ、その――」


 「花粉だろ?」


 助け舟を出してやる。


 荒川は一度俺の方を向き――確かにかなり目が潤んでいた――戻って大きく頷くと、


 「そう、花粉だよ、花粉。あたし花粉症なの。最近けっこうヒドくてもう、ホント困っちゃう。こんなときに目にきたら、まるであたしまで江戸君が自転車買ってくれたのが嬉しくて泣いてるみたいじゃん……」


 その言葉の真偽は、まあ考えないでおいてやるとして。


 一人俺の自転車を眺めていたアリスさんは、ふと違う方に目を向けると、


 「あそこに置いてあるのはもしかして、フーフーの自転車?」


 それは、俺も朝この部屋に来た時から気になっていたことだった。


 部室の隅、アリスさんの機材が置いてあるのとは反対側に、ひっそりと佇むように置いてある一台の自転車。


 それもまた、この部室では初めて見る顔だった――アリスさんや荒川のロードバイク、俺の電動シティサイクルとも違い、落ち着いたクリーム色のフレームをした全体的にほっそりとシンプルな自転車。ハンドルは直線型で、サドルやグリップといったパーツ類が綺麗な白色で統一されている――この部室内にある自転車の中で一番、可愛らしいというか、洒落た人間が集まる街の風景に溶け込みそうなオシャレ感を出している。


 この部屋の住人は今のところ四人しかいないのだから、他の数台(二台は俺と荒川のもの、残りはアリスさんコレクション)の持ち主がわかってる以上、消去法的にその持ち主はすぐにわかる。


 「あっ、はい。そうです。そうなんです、」


 自分の自転車の元へ駆け寄った宮。大事そうにハンドルを手に取って、


 「実は私も、今日は何となくそうしたくなって、自転車で学校まで来てみたの。けっこう遠いから今までは勇気が出なかったんだけど……。思い切ってやってみたら、朝のサイクリングって予想以上に気持ち良くて。けっこう楽しめちゃった」


 「電車なんかよりずーっと楽でしょ? これからもジテツーにしようよ、ね!」


 照れくさそうにする宮と、そんな彼女に快活に笑いかける荒川。仲の良い、自転車部一年女子コンビ。


 「う、うん、いきなり毎日はキツいかもしれないけど、ちょっとずつ頑張ってみることにするよ」


 「ガンバろガンバろ! 前に見た時も思ったけど、そのコすっごいあたし好みだから、毎日乗ってきて見せてよね!」


 端から見れば女子二人が楽しそうに話している以外の何でもない光景だけれど、その会話の内容というのが電車で一時間かかるような長距離を毎日人力で往復するなどという普通に考えれば途方もない計画についてなのだから恐ろしい。


 「じゃあさ。とりあえず、だけど、」


 アリスさんが口火を切り――皆がそちらを向く。前日までレースをしていたのだと言われてもにわかには信じられないくらいたおやかで優しげな姿。自転車部唯一の二年生は、今日もとにかく美しい。


 「みんな揃って、みんな自分の自転車がある。自転車部の本格的な開始を記念して、今日はサイクリングに出かけるっていうのはどうかしら」


 荒川が頷く。


 宮が頷く。


 二人とも絶好調な笑顔だ。


 俺は――否定はしない。


 サイクリングがしたくてたまらない、というわけでは決してない――でも、断る理由もない。


 嫌なわけではなかった。むしろまあ、これから長い付き合いになりそうな自転車部員たちのことだ。彼女たちの好きなことに付き合って、彼女たちの目に映る世界を一度覗いておくのもいいかもしれない――らしくもなく俺は、そんな気持ちになっていた。


 自転車部の開始記念――と言っても、結局まだ活動内容の詳細は決まってない。


 一連の騒動を終えてやり切った感MAXでいるけれど、実際のところはただ振り出しに戻っただけだ。結局のところ、今回の騒動も活動内容を決めるところから始めってたんだしな。


 でも――。


 俺は思う。


 今は、これでいい。


 活動内容なんて、これからゆっくり考えていけばいいんだ。まだできたばかりの部活なんだ。活動しながら、造り上げていく――それもまた、初期メンバーの醍醐味というものだろう。


 今は、これでいい。


 部員全員が愛車を所有した今、これでやっと土俵に上がることができたところなんだ。要素が欠けた状態で何を考えようとダメだった――用意が揃ったこれからが本番だ。改めて、考え直していこう。そうすれば、きっと誰もが納得する自転車部ができていくはずだから。


 でも、今はまだいい。少なくとも、今日のところは。


 難しいことを考えるのは、後回しで良いだろう。


 今は余韻に浸りたい――というか、この一週間散々頭を悩ませた後なんだ。


 少しくらい休憩したっていいだろ?


 頭を休めて、何も考えずに、彼女らとのサイクリングに興じる――自転車部本格開始記念サイクリングを楽しむ。


 果たして自分がサイクリングを楽しめるのかはわからない。


 でも、これから長い時間をともにする彼女たちと一緒なら――彼女たちの愛するサイクリングなら、試してみるのも悪くはないかもしれない。


 荒川――俺の隣の席のクラスメイトが笑っていてくれるのなら、彼女についていってみるのも、また悪くない選択肢なのかもしれなかった。

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自転車女子列伝2 ~荒川輪子は自転車を語る~ 江戸ミヅキ @RinRin-bicycle

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