3-5.


 ◆


 アリスさんとの朝デートを満喫した後、アリスさんは予定通りレース会場へ向かっていき、俺は昼休みから学校へ参戦した(ちなみに学校には家を出る前に予め、妹が三年前に完治したはずの夢遊病を再発して急遽病院に連れていかないといけなくなったから午前中だけ欠席すると連絡をしていたから問題はない。その辺は抜かりないぜ)。


 実は荒川が復帰していたなんてことはもちろんなく、この日も右隣の席は空白状態。授業をほっぽり出して一人旅に出てしまう癖などを除けば荒川はけっこう几帳面な性格らしく、基本的に机の中に教科書を入れっぱなしにすることがない――空っぽの席と隣り合わせになること早四日目。来週になれば一週間が経つこととなる――不思議なものだと、俺は思う。


 例えそれが、入学してからのべつ幕なしに俺の日常を荒らしてきたにっくき女子の席だとしても、誰もいなければただの机と椅子でしかない――誰もいないし、何もない。まるで席の主が元々いなかったとでも言いたげに――それは寂しい感じのする景色だった。


 寂しい、か……。


 荒川輪子という自転車狂女子から逃れることだけを目標にここまで学校生活を送ってきたと言っても過言ではない俺がそんな風に感じてしまう――教室の机というのは、景色に溶け込むことしか能がないように見えて、案外魔法のような力でも持っているのかもしれない。特定の状況で特定の人間にだけ影響を及ぼす、言葉では説明できない不思議な力――。


 アリスさんと話したことを宮にも伝え、今日の夜にツーと会って荒川の居場所を聞き出し、連れ戻しに行くという段取りを確認する。ツーはおそらく帰り道に俺の前に現れるので(根拠はないけど経験則からしてそうだという確信があった)、手間のかかることは俺が引き受けるから宮にはまっすぐ帰ってゆっくりしてろと言ったのだけれど、


 「ううん、リンちゃんのことだもん。同じ自転車部員として――友達として、自分だけ帰るなんてできないよ」


 ということだったのでまあそういうことにする。まっすぐな目でそう言われてしまえば、言い返すことなんてできないしまたそんな必要もないだろう。


 そんなこんなで放課後。そんな必要は決してなかったのだけど宮と俺は部室に赴いた。


 「リンちゃんが帰ってくる場所、ちゃんと用意しておいてあげないと」と、いうのは宮の言い分だ。


 始まったばかりの自転車部。毎日欠かさず活動してきたのに、ここで途切れてしまうとそのまま終わりを迎えてしまうような、そんな気がした――のかは内緒ってことで。


 


 そして夜――約束の時。


 「言われた通り、キーを二つ揃えてきた。一つ目は――」


 自転車は友達。


 宮の回答。


 そして二つ目。アリスさんの答えは――


 「可能性……だってな。見方によってはただ車輪がついただけの骨組みかもしれない。でも、そんな単純な構造の自転車で、人は無限の可能性を追い求められる。無限に広がる世界の奥底まで、踏み込んでいける――そんな可能性を持っているのが、自転車だって、アリスさんはそう言ってた。正直なところ俺にはチンプンカンプンだけど、そんなこたどうでもいい。さあ、答えてくれ、ツー。俺が集めたキーは、お前の問いに対する正解なのか……?」


 いつもの砂浜。いつもの風景。


 初めて出会った時と同じ。そして、それからも何度かあった――毎度毎度同じように夜の海をバックに、しかしこの日は岸の柵(金属製円柱型の手すり。丸い)の上にモノレール式に両輪で乗っかったまま静止し、さらにその状態でサドルに横乗り。海の方へ足をブラブラさせながらという一段と難易度の高そうな格好でツーは顔だけこちらへ向け、


 「条件はクリア。おめでとう、エドさん。まさしく私が欲しかったキーだよ。でもね、それが正解、というわけではないんだ」


 そこでツーはくるりと向きをターン――柵の上で固定されているかのように動かない自転車のサドルの上で回転椅子かのように鮮やかに舞い、


 「正解なんてない、って言ったほうがわかりやすいかな。自転車が何か、自転車がどういう存在かは人それぞれだからね。色んな人がいて、色んな自転車がある。色んな自転車の乗り方があって、色んな自転車の楽しみ方がある――どんな自転車の乗り方をするか、どんな自転車の使い方をするかは人それぞれ。リンコみたいに自転車が大好きな人もいれば、ただの移動手段としてしか認識してない人だっている――百万の人がいれば、百万の自転車の在り方があるんだよ。だから、正解なんてない。誰がどう自転車のことを思ったって自由。そこに合ってるも間違ってるもないんだ――」


 ツーは一度言葉を切り、ふとペダルを回した――ちょこんと足先で優しく触れるようにして、クランク(ペダルを回転軸と繋いでいる部分の名称)を半回転させた。


 チャチャチャという、独特の音が鳴る――ラチェット音と言うらしい車輪の軸が空転する時に出るその音(荒川が言ってた)が、他に誰もいないこの場所の空気を震わせる。


 ツーの自転車が奏でるその音は――何故だろう、ただの無機質な音のはずなのに――夜の生き物がどこかで鳴いているのを聞いた時と同じような心地を、俺に与えるのだった。


 「――だけどね、自転車って、なの。誰がどう思ったって、必ず人に喜びを与えることができる、、そのことに変わりはないの。それに気が付く人とそうでない人がいる、その違いがあるだけ。誰だって一度自転車の楽しさを知れば、その虜になることは逃れられない。でも、気が付けなかった人は、ということさえも知ることが出来ない――そんなの、とっても悲しいでしょ? だから私がいるの――」


 私は自転車の妖精。自転車の楽しさをみんなに教えるためにこの世界に来たの。


 ――今回は、その前部分に隠されていた文脈が明らかになったみたいだった。


 「今回こんな条件を出したのは、エドさんに少しでも自転車の世界を知ってほしかったから。自転車が好きな人の言葉を聞くことで、その人たちが見ている世界の片隅だけでもイメージできるようになってほしかったから。そんな思いがあったんだよ。どうだったかな? 少しは興味持ってくれた?」


 ツーは言った――しかし。


 そんなこと、言われても……。


 自転車の世界――自転車好きにしか見られない世界。一度知ってしまえば虜になるその景色。


 自転車は絶対楽しい――そのことに気が付けるかそうでないか、違いはそれだけ。


 俺のように全く自転車に興味がなかった人間にも、本当にそれは当てはまるのだろうか? 俺もその楽しさを知れば、自転車女子たちと同じように、自転車を愛してやまなくなることになるのだろうか?


 ちょっと考えてみた。せっかくだから頭を働かせてみたけど――まあ、わからないよな。自転車に乗ることでしか見れないっていうのなら、そりゃ自転車に乗らない俺にはわかるわけがない――そして俺は今のところ自転車に乗る予定はない。つまり俺が自転車の楽しさを知ることは今もこれからもない――もしあるとすれば、それは自転車に乗らずしてその世界を見、そこに魅力を見いだせた時。


 宮とアリスさんはそれぞれ彼女たちの思いを語ってくれた。二人とも思い思いにその心を言葉にしてくれたわけだけれど、それでは不十分だった――俺は魅せられることがなかった。


 まだまだ足りない。自転車乗りたちが見る世界を知るためには、もっともっと教えてくれなきゃ――その熱い思いを語ってくれなきゃ、全然何もわかんねえぜ。


 並みの自転車好きじゃダメだ――宮やアリスさんの時点で相当なレベルだと思われるから、それを超えるような人間でなきゃならない。そんな奴が存在するとしたら、まあそれはたった一人しか思い当たらないわけであって――


 「フフフ、いいんだよ。少しずつ、すこーししずつ、わかってくれればいいんだから。そしてゆっくりと、……」


 そしてツーは、向きを変えた――横乗りから自転車の走行方向へ、本来あるべき乗車姿勢へと戻る。


 夜空に流れる白髪。ふわり舞う純白のワンピース。昨日ちらりと見えたツーの心の奥底で燃える感情のようなものは、もうすっかり消えてしまっていた。そこにあるのは儚げな微笑みだけ――笑っているのに、触れれば薄氷のように砕け散ってしまいそうに思えるのは、やはり彼女のその完璧な造形ゆえか。


 いつ見てもこの自転車に乗った女の子は、近づきたくても近づくことのできない何かを感じさせられる――合っているかは、わからない。でもそれは、あえて言葉にするとすれば、この女の子は――そんな感情だろうか?


 思い出すとはどういうことか。何の脈絡もないように思えるその言葉の真意を俺は聞きたかった。でも、聞けなかった。


 ツーが走り出す態勢に入ったということは、それはこの日はもう彼女が去るという意味を表しており、そしてそれは誰にも止めることのできない、不平を言うことすら許されない神聖なまでの手順なわけで。


 言いたいことだけ言ってさっさと帰る――それが自転車少女ツーのスタンスだ。彼女のその信念を曲げることはなかなかできることではない――というか普通に物理的に難しい。だって本当にさっさと帰っちゃうんだもん。大抵変なこと言い残していくから咄嗟に言葉を出しづらいし。ブーブー。


 この時も例外ではなかった――というか、この時ばかりは言葉が出なかった。掛け値なしに開いた口が塞がらなかった。他の事なんてどうでもよくなってしまうくらいに衝撃だった――だからフツーに、何も言えなかった。


 「リンコのいる場所、教えるね。リンコが今いるのは、――――だよ。じゃあ、頑張って」


 ツーの姿が見えなくなってからも、俺はその場に立ち尽くしていた。心配そうに声をかけてくる宮のこともそっちのけで、呆然としていた。


 (リンコが今いるのは、――――)



 ――マジかよ。


 荒川――俺は改めて思う。



 お前ってホントに、とんでもねえ奴だな……。

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