3-4.


 「あたしにとっての自転車かぁ、難しいわね~。似たようなことは考えたことあるのよ。毎日毎日きついトレーニングをしてるとね、たまに思うんだ――あたし、どうしてこんなに自転車に乗ってるんだろう、ってね。すぐに思いつく答えとしては、速くなるため、レースで勝つため、なんだけど――そしたらそしたで、それならどうして自分はレースをしてるのか、って疑問に繋がっちゃうのよねぇ。どうしてレースをしてるかなんて聞かれたって、昔からしてるからとしか答えようがないのに。困ったものよねぇ」


 困ったと言っていながらも、そんなアリスさんの口調からは一切困っているような雰囲気は感じられない――あくまでどこまでもネガティブな表情は見せない人だ。


 「それなら、アリスさんはどうしてそのレースを続けているんですか? 差し出がましいようですが、ちなみに、レースをやめたいとかって考えたことはなかったんですかね?」


 「不思議なことに、それはないのよね~。小さい頃に両親にレースチームに入れられて、それからずーっと続けてきたんだけど、やめたいって思ったことは一度もないわぁ。むしろ、自分より速い人がいたりすると、『うぅ~悔しい!』ってなって、もっともっと練習しなきゃって気持ちになっちゃうのよね。どんなスポーツでもそうだと思うけど、ロードレースってやろうと思えばいくらでも突き詰められるから――速さに終わりなんてないからね。もっともっと練習して、もっともっと速くなって、もっともっと上に行きたい――そんな気持ちになって――」


 アリスさんはそこで、ポンっと手を叩く。何かいい言葉を思いついたように、


 「そう、あたしが小学生の頃ね、初めてのレースで優勝した時の話なんだけど、今でもあの時の光景が目に焼き付いて離れないのよ。他の選手を振り切って、応援してくれてる人たちの歓声を一身に浴びながら、ゴールラインを越えた時――それがどんな景色だったかは、あえて説明しようとはしないわ。とにかく、違う景色が見えた――それまで見たことのなかった、新しい世界に突入した、そんな気分だったの。これはたぶん、同じ経験をした人にしかわからない気持ちなんだけど、その時あたしは、もっとこの景色を見ていたい――もっともっとこの世界の奥へ踏み込んでいきたい、そう強く感じたの。強いて言うのなら、それが理由になるかしらねぇ、あたしがレースを続けたいと思うのって。理由というよりも、動機と言った方がいいのかしら。小さい頃に得た情熱が、今も燃え続けてあたしを突き動かしてる――ふふふ、何かこういうこと話すのって恥ずかしいわぁ。エド、笑わないでよ~?」


 「あはははは」


 「あ~っ、そんなことするんだ。いじわるぅ~、エドったら、いたずらっ子ちゃんね。悪い子にはお仕置きしちゃうわよぉ」


 「すみません、冗談です」


 ちなみに三つ前のセリフで俺は本当に笑ったわけではなく百パーセント棒読みである。アリスさんがちゃんと冗談も通じる人だと確認できたところで、


 「何だか、イメージ変わりますね。まあ、アリスさんみたいな人が自転車レースをやっているって時点でそうですが、それだけじゃなく、そんな熱血漫画レベルに強い意志を持たれているなんて」


 「えぇ~、そうかしら。ていうか、あたしみたいってどういうことぉ~?」


 「そんな全世界に通用しそうな笑顔を持っているような人が、ってことですよ。普遍的に優しそうなイメージとスポーツに熱中する熱いイメージがギャップで萌えってことです」


 「萌え萌え~。じゃ、あたし、エドの彼女になっちゃおうかしら」


 「いやそれは」


 「キャー、フラれちゃったぁ。まあでも仕方ないか、エドにはあたしなんかより、もっとお似合いの人がいるものね~」


 「?」


 「リンリンのこと、迎えに行ってあげなきゃだよね」


 物凄い話題の転換の仕方というか、とても無理矢理な気がする。しかし、それをあくまで自然な流れのようにやってのけてしまうのがアリスさんのすごいところだ(引っかかる箇所があったことにはあえて言及しない)。


 「ちなみになんだけど、」


 アリスさん、狙い定めてくるような視線とともに、


 「リンリンがどっか行っちゃったってことだけど……そのどっか行っちゃた理由には、エドは心当たりあるの?」


 「――!」


 そういえば、そうだった――思わぬタイミングで気が付かされる。荒川が失踪したという事実についてアリスさんに伝えはしたものの、俺はまだしか言っていないんだった。


 何故失踪したのか、いつそうなってしまったのかなどといった詳細を何も説明していない――これじゃアリスさんにとっては、体調不良と聞いていた荒川が実は失踪していましたどこにいるか知るために質問に答えてくださいというワケのわからないスピード展開に他ならないわけで――いきなり失踪したなんてそりゃ、は? 何故に? どゆこと? ってなるわな。むしろここまでそのことを聞かずにいられた方がスゴい。


 そう、アリスさんはスゴい――あらゆる予想を超えて、スゴかった。失踪した理由を今になって尋ねてきたものの、やはり鷹揚としたその笑みはなくなる気配がない――不思議がっているように見えないというか、俺にそのことを尋ねてきたのは、もう答えを知っていながら相手を試している――そんな感じさえ、したのだった。


 俺は質問に答えないわけにはいかない。とは言っても、こちらもその答えを正確に把握しているわけではなかったので、あくまでわかる範囲での説明を試みる。主要な点は、今週初めの朝に起こった出来事(当初俺はあまり気にしていなかったためにサラッと話していなく、また宮も遠慮したのかその話題には触れなかったので、アリスさんは事の全貌を知らない。ゆえにより詳細に)――そして、それが原因で、荒川はどこかへ行ってしまったらしいということ。おそらく、俺が無下に断ったことを嘆き悲しんだがゆえに。


 やはりアリスさんは動じなかった――ここまで来ると何を考えているのかわからなくて少々恐れを感じざるを得ないけれど、それはそれで全く間違えではなかった――と言うのも、説明に対するアリスさんの返答は、まさしく畏怖に値するような驚愕性を含んだものだったのだ。


 「ま、電話でリンリンがどっか行っちゃったって聞いた時から、そんな感じのことじゃないかと思ってたわぁ」


 ――俺、呆然。


 どのような理由により、アナタはそのように思ったのでしょうか?


 「だって、急に学校休んでまでいなくなっちゃうなんてよほどのことじゃない? リンリンがそんな風になっちゃうなんて、それくらいしか理由が思いつかなかったんだもの」


 「それくらい、とは……」


 「エドにフラれちゃったんじゃないのかな~、って。ホントのこと言えば、月曜日にリンリンがすぐ帰っちゃって、エドからその日の朝のことちょっとだけ聞いた時に、何となく予想はできてたのよねぇ。これはちょっと、一大事になりそうだな~、って。ま、リンリンが帰ってこなくなっちゃうとまでは思わなかったけど……」


 女の勘というやつだろうか? それとも、男には決してそのメカニズムを理解することはできないが、女同士は互いの様子を見ただけで第六感的に心を分かち合うことができるのだろうか?


 とにかく俺は唖然とした。開いた口が塞がらなかった。


 自らの不甲斐なさが悔やまれる。俺が何も知らずにのうのうと暮らしていたこの一週間、アリスさんは情報の断片しか持っていなかったというのに初めから事の真相をほぼ把握していたなんて。


 そういえば、宮も昨日、荒川の失踪の原因は俺の言動にあるのではないかということを言っていた――あの様子からして、おそらく月曜日の時点から薄々そのように感じていたのだろう。と、なると、何も気が付いていなかったのは俺だけということになり――いやでも、別に俺が荒川のことをそこまで気にする義理なんてないんだから、別に気が付いていなかったとしてもそれが汚名になることは決して――


 (江戸君がそう言ってくれて、あたしすっごい嬉しかったのに……)


 ――――。


 お、おーん? 何故だ、何故ここで荒川の姿が頭に浮かぶ? 何故あの時の光景が――何故荒川の顔が、頭に浮かんでくるんだ。


 振り払えない――怒っている顔、イライラしてたまらなそうな顔――諦めた顔、何か思い切ったような顔――機嫌を直した顔、笑っている顔。何も気にしていないように見えて、必死に笑って何かを隠そうとしている――感情を誤魔化している。湧き出てくる感情、止まらない気持ちを隠そうとと――今にも崩れ落ちそうなのを必死に堪えて。


 荒川、何なんだその顔は……。


 どうしてそんなに、泣きそうな顔をしてるんだ――?



 「うふふ、別に女の子の気持ちに気が付けないからって必ずしも罪になるわけじゃないからね。もしそうだとしたら、世の中罪な男だらけになっちゃうもの。別にエドが悪いなんて言ってるわけじゃあないわ」


 アリスさんは、やはり微笑んだまま――


 「でも、エドが女の子を傷つけて平気でいられるような人じゃあないと、あたしは思いたいわぁ。もしそうだったら、幻滅モノよぉ。エドがそんな人だとは思ってなかった! って叫びたくなっちゃいそうだわぁ」


 ニッコリとそんなことを言われると、何やら余計に不安になる――というか暗にめちゃくちゃプレッシャーをかけられてるような気がする。内臓破裂しそうなくらいだぜ。


 「あ、でもね、」


 アリスさんはさらに、


 「散々こんな言い方をしておいた上でごめんなさいけど、何も別に、リンリンはエドのことが好きって断定してるわけじゃないのよぉ。この場合の好きはもちろんラブラブのラブの意味ね。リンリンがエドのことを恋愛対象として見てる、とは限らない――」


 でも、と。


 「これは自転車が好きな人特有の気持ちだと思うんだけど、自転車乗りの人ってね、とにかく自転車への思い入れが強い――そして自転車を通した人との繋がりを大切にしがちなの。まあ、まだ自転車のことをよく知らないエドにはよくわからないかもだけど、そういうものなんだと思って聞いてね。つまり、リンリンは自転車大好きなわけじゃない? それも飛びっきりの、あたし以上に自転車にゾッコンで――他の事を考えられないくらいに、自分の家族に対する愛が強い。そういう人ってね、意外と少なくないものなんだけど、そんな人たちが大抵共通して持ってるのが、、って気持ちなの。、既存の自転車乗りだけじゃなく、他の人にも自転車を知ってもらいたい――、って思ってる人が多いのよね」


 「自転車仲間……」


 「簡単に言っちゃえば、リンリンはエドと一緒にサイクリングがしたいのよ。大切なお友達の、エドクンとね!」


 サイクリングがしたい――荒川は本当に、そんなことを思っているのだろうか? 

 少なくとも、俺の前で見せた態度からはそんな様子は微塵も見れず、ただ自転車嫌いな隣の席の奴が気に入らないから無理矢理洗脳しようとしていたようにしか思えなかったけど……。


 女の子の気持ち――自転車乗りの気持ち――荒川の気持ち。


 なるほど、よしわかった――わからない。


 どう考えたってわからない。わかりそうにない。わかるわけがない。


 高校最初のクラスで隣の席、自転車のことを嘲ったらキレてきて、一時は殺されそうになりつつも一応は和解。その後事の成り行きで自転車部を共同創設――かれこれ出会ってからもうすぐ二カ月が経つ。もう二カ月か、まだ二カ月なのか――とにかくこの期間のストーリーが支離滅裂極まるあまり、いつも一緒に中心にいた荒川からどう思われいるかなんて想像もつかない。


 友達――彼女は俺のことを、本当にそんな風に思っているのだろうか?


 荒川は一体、何を望んでいるのだろうか?



 「正直、全然わかりません。アリスさんの心のこもった解説をもってしても全容が理解できないほどに俺は自転車に関しては無知です。乙女心についても経験値皆無です。先にそのことを謝っておきます――」


 荒川本人に会わない限りは、何もわからない。


 会って話さないと、埒が明かない――連れ戻してこられない。


 元を正せば――俺は荒川にどう思われていようが自転車が何だろうが自転車部の今後も自転車乗りの気持ちもどうだっていいんだ。


 荒川が戻って来さえすれば。


 俺はそれでいい。


 目的は、一年一組の学級委員長に仕事を放棄させないことなんだから。


 「――とにかく俺は、荒川を連れ戻します。ツーに居場所を聞き出して、腕づくにでも連れてきますよ。その結果、これから先どんなことになるかはわかんないけど――話ができない限りは何もわからない――謝りだって、できない。だから、行きます。アリスさん、教えてください。あなたにとって、自転車とは……」

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