1-10.


 「で、江戸君は?」


 「は?」


 宮は顔を伏せたまま起き上がってこない――よほど先ほどの失言を気にしているらしい。ウキウキと妄想に浸るあまりうっかり本心を漏らしてしまったというような感じだったけど――それにしては少し、うっかりが過ぎないだろうか? 


 この調子では大人しい系清楚な少女の化けの皮が剥がれる時が来るのも遠い未来の話ではないのかもしれない――というのはまあ特段優先度の高い議論ではなく、この件に関しては宮もまだまだ才能を秘めているのかもしれないということを言及するに留めておいて。


 そんな彼女を他所に、荒川が個人的に呼んできたのだった。


 「人が話しかけてるのに、その返事の仕方はなくない?」


 「ん? 俺、何か気に障ること言ったか?」


 「わざと言ってるなら最低。ホントに自覚ないなら最悪」


 「最高もしくは最良になるための選択肢はないのか?」


 「バカ言ってないで。殴るよこの最低最悪野郎」


 「待て、落ち着け」


 腕の骨くらい簡単に折ってしまいそうなサイズのレンチ片手に凄まれたら、素手のこちとりゃ譲歩に出るしか打つ手はない。


 目の前の女子がその右腕に漲らせていた闘魂の炎をとりあえず鎮めてくれたのを確認しつつ、


 「で、何だって? 俺がどうしたらそんなにモテるのかって話をしてたんだっけか」


 「江戸君がどうしてそんなにモテないのかって話ならしてあげてもいいけどそれ始めたら何年経っても終わらなそうだから、目下のところ合宿の話題に集中しよ。ね?」


 「ふふふ、まあな。俺がモテないことなんてミレニアム級にあり得ないからそんな話いくらしようとしたって永久に堂々巡りになるだけだろうな。さすが、利口なお前はわかってるじゃないか」


 「あたしが今どれだけ必死にイライラを抑えてるか、愚鈍な江戸君はわからないのかな?」


 「まさかまさか。江戸君は愚かでもないし鈍くもないからな、そんなことくらい考えなくたってわかるさ。だからな、とりあえずその右手の工具を一旦置こう。一旦手放そう。そして落ち着こう。冷静に話せばわかり合えるはずだ。そんな物騒なモン持ってたら、せっかくの可愛さが台無しだぞ」


 「心にもないこと言わないで」


 「いやいや。俺はいつも心からのセリフしか口にしないんだぜ」


 さすがに今度こそ頭蓋骨が粉砕されるかとも思ったが、意外なことに荒川はそれ以上会話を続けようとはせず、急に肩を落として大きな溜め息をついたのだった。


 これは何の予兆なのかと俺が内心で戦々恐々しているのもどこ吹く風で、荒川は愛用の椅子を離れると工具を片付け、その他荷物も整理し始める――帰り支度のようだった。突発的ホームシックを発症したのだろうか? 


 俺もそれに倣って帰る準備を始めた方がいいのかと悩んでいると、荒川はまだ仮眠中の宮の肩を叩きながら、


 「フーちゃん。今日はもう帰ろ」


 案外すんなりと起き上がった宮は、目覚めたら知らない森の中にいた姫のように辺りをキョロキョロとし出し、


 「えっ、帰るの? もうそんな時間? あれあれっ、私そんなに寝てた?」


 「ううん、下校時刻はまだだけど。何かやる気なくなっちゃったからあたし今日はもう帰る。まだ残ってるなら部屋の鍵置いてくけど、どうする?」


 「あっ、そうなんだ。えーと、えーと、どうしよ、それなら私も一緒に帰ろっかな」


 意識を失う前と後(本当に失っていたのかはわからないけど)で自らを取り巻く状況が一変していた宮はさぞかし混乱したことだろう。しかし、先ほどとは打って変わり冷たく落ち着き払った荒川に気圧されたのか――飲みかけの紙パックコーヒーを飲み干し、慌てて荷物をまとめ出す。


 ワタワタと動く宮とは対照的に荒川はテキパキすぐに支度を整えたようで、それを見た宮は遅れまいとさらに動作を加速し――そしてひとり動こうとしない俺を見つけて、


 「あれ。江戸君は帰らないの?」


 その問いには俺よりも先に荒川が答えた。


 「江戸君は今日はここで夜を明かすんだって。誰もいない学校でひとり、寝静まった街を淡く照らす月を眺めながら妄想に耽ってたいみたい。どこかで同じ空を見上げてる人と、直接会えはしなくとも同じ心を共有できるから、そういうのが好きなんだって。だから気にしなくていいよ」


 「あっ、そうなんだ。へー、いいなぁ。すっごいロマンチック」


 「でしょ? あたしたちがいたら邪魔になっちゃうから、早く帰ってひとりにしてあげよ」


 「そっか、そうだよね。一緒にいたい気もするけど、私なんかいたら邪魔になっちゃうか。じゃ、早く準備しないと。急げ急げ」


 自転車部一年の女子ふたりは溢れんばかりの寂寥感を胸に抱える孤独な男を思いやってくれるようだった。俺もその配慮に感謝し、またお言葉に甘え、これから始まるひとりぼっちの夜へと心を傾け――たりするわけはもちろんなく。


 「いや勝手に話をでっち上げんな」


 引きとめた。


 「あれ、えっ? 違うの?」


 「ちげえよ」


 宮は本当に勘違いしていたようだった――その純粋さ、尊くはあるけど、白くあるだけで生き抜けるほどこの世界は甘くないんだぜ。


 「おい、荒川。どういうつもりだよ。合宿の話をするんじゃなかったのか?」


 先ほどからやけに態度の冷たい荒川は、俺の問いに対し何やら居心地悪そうに顔を背けたまま、


 「したかったけど。江戸君が真面目に話してくれないから何か急にやる気なくなっちゃった。だから帰る。バイバイ」



 ――それはまるで、安らぎの天使の囁きのようだった。



 何とまさか、荒川が自ら別れを告げてきてくれるなんて! 常日頃この女子から解放されたいと天に祈り、また自分でもできる限りの努力を尽くしてきたのは決して無駄じゃなかったんだ……!


 天にまします我らの父よ、見ていてくれましたか――やはり俺は間違っていませんでしたよ……!


 勝利の噴水の如く湧き上がってくる喜びに身を任せ――られれば良かったのだけれど。


 珍妙なことに俺は冷静だった。


 これまでのことを鑑みればこれは稀代の幸運として喜び勇むべきこと論を俟たないはずなのに、奇怪なことに俺は落ち着いていた。


 そしてこともあろうに、


 「いやちょっと待て」


 荒川を呼び止めた。


 既に部屋から出て行こうとしているところだったので、肩を掴んで強引に。


 触らないで(ビックリマーク)などと振り払われ――はしなかった。荒川はその場で止まり、ただ面倒臭そうに振り返ってきて、


 「何よ」


 ポツリと一言。


 何かと聞かれれば、俺が彼女を帰さなかった理由はひとつしかない。それは、この一週間俺の頭に図々しく居座り続けた異物の如き疑問点をレーザー照射で狙い撃ちよろしく抹消したいがためだった――今週中には決行したいと思っていたのだけれど、何だかんだ言っていたらいつの間にかもう金曜日だ。今日を逃せば土日を挟んでしまうことになる。それすなわち安寧の時を心にうやむやを抱えたまま過ごすことになるという意味で、そんなことはプライドが許さない俺は無理にでも切り出さなければならかったんだ。


 「話がある」


 低めの声で意味深な感じで言うと、後ろの方で宮が緊張するのが空気を通して伝わってきた。荒川はただ胡散臭そうに睨んできただけだったけど。


 「俺んちの近くに新しい喫茶店ができたのは知ってるか?」


 しかし次の瞬間、この言葉に荒川の目の色がほんの少し――じっと見つめていないと変化がわからないくらいの差で――変わったのがわかった。無言のままだったけれど、一瞬視線を泳がせたのもバレバレだ――それでも尚、不満そうな様子を演出している。


 いや、実際不満なのは確かなのかもしれないけれど、この女子が普段は隠している欲求を一度解放してしまったが最後、それを満たさない限り再び封じ込めることができないこともまた確かなことだった。


 「すまん、実は今朝からそのことで頭がいっぱいで、全然他の事に頭が回ってなかった。地元じゃ開店前からずっと話題でな、俺もそこの特製ミラクルケーキが食べられるのを今か今かと待ちわびてたんだ。決して部活にことを疎かにするつもりじゃなかったんだけれど……悪い、興奮のあまりそのことにすっかり頭を取られちまってた。だからその詫びも含めて、そこでコーヒーとケーキをご馳走しつつ合宿の話もできればと思うんだが、どうだ?」


 俺からの誘いに荒川は少しの間、どう反応するべきか考えているようだった。今のセリフの嘘がどこまで見通されているかでその結果も変わってくるだろうけど、完璧に表情を取り繕い、言葉も大げさすぎずしかしその奥底のワクワク感はひしひしと伝わるようなチョイスで淀みなく吐いたのでバレている可能性は極めて低いと俺は踏む。


 果たして荒川は、意外なことに緊張の糸が切れたようにふっと表情を和らげ――言った。


 「江戸君って、ほんっと心にもないこと喋らせると立て板に水って感じだよね」


 バレバレだった。


 荒川は呆れたような顔をしてこちらに体を向けると、さっきまでの不機嫌はどこへやら、リラックスした様子で自転車のフレーム部分に半ばもたれかかるように腰かけ、


 「もうちょっとマシな誘い方できないの?」


 聞かれたので俺は正直に答えることにする。


 「いや、別に本気で誘いたかったわけじゃないからしようと思っても難しいな」


 「あのさ、女子に向かって思ってても口にしていいことと悪いことがあるって、知ってる?」


 「初耳だな。俺は思想と言論の自由を何よりも貴んでいる」


 「ふうん。じゃあ身体の自由は二の次なんだね。じゃあたしが奪っちゃおっかな。自転車部やめるとか言ったら、ボッコボコにしてやるから」


 「いややめろ」


 「やめてほしければ、はい、やり直し。もう一回最初からあたしをデートに誘ってみて」


 「いや別に、お前とデートがしたかったわけでは最初からないんだけど……」


 「そんなの知ってる。罰ゲームだよ、罰ゲーム。女の子を不用意に嫌な気持ちにさせた罪は重いんだからね。紳士なら知っててしかるべきことだと思うんだけど」


 「その仮説は今、俺の存在を持って破綻したな。何故なら、俺は紳士だけれど、そんな知識を持ち合わせてなかった。したがって、紳士だからと言って別にそんなこと知っているわけじゃあないことが証明される」


 「うだうだ言ってるとあたし帰るよ」


 「待て悪かった」


 帰られては困るので、妥協するしかなさそうだった。


 しかし、そうは言っても――


 「お前だけじゃなくて、宮にもついてきてもらうつもりだったんだけどな……」


 荒川ひとりを連れ出そうとしていると誤解されるのは俺としては何となく気が進まなかったのでふと漏らしてしまったのだけれど、荒川はそれを聞くとあっさりと、


 「あっ、じゃあフーちゃんでいいよ、あたしじゃなくて。江戸君もあたしより、フーちゃんの方が誘いやすいんじゃない?」


 その通りだった。俺の中では荒川は既に女の子としてのイメージをほぼ喪失しているので、まだ女子感のある宮の方がデートに誘えと言われればモチベも上がるというものだんぜ。


 そうと決まれば思い立ったが吉日。俺は後ろの宮へと振り返り、イマイチ状況が掴めていなそうな宮に向かい、


 「よう、宮。今日の帰りだけど、一緒にカフェにでも寄ってかねえか?」


 果たして荒川の溜飲を下げるほどのイケメンっぷりになっていたかはわからない。


 宮は「えぇ? えとっ、えとっ、」などとよくわからなそうなまま挙動を乱していたが、やがて状況を把握できたのだろうか――最後には花開くような笑顔になって答えたのだった。


 「うん、いいよ!」

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