1-8.
◆
続く日の放課後。
創設されたばかりの自転車部の活動枠組み生成過程の事細かな説明なんて宇宙のどこにも需要が存在しないと思われるので、大まかな流れだけ述べると――
まず火曜日。自転車部活動開始初日は何も意見がまとまらずに終わっただけだったけど、その翌日、とりあえずということでアリスさんが何やら色々部室に運んできた。
自転車に纏わるグッズらしいのだけれど、その手の話題には無知極まる俺には『何やら色々』と判断するしか手段がない。何かしらの器具のように見えるのだけれど、サイズもかなり大きくて物々しいモノばかりだ。スポーツジムに置いてありそうなそのブツたちは、自転車女子たちによる会話から得た情報では自転車におけるトレーニングに使用するのだそうで。
アリスさんが持ってきた(実際に運んできたのは筋骨隆々とした中年の男たちだ。アリスさんの所属するレースチームのスタッフ的おっさんらしい)物には複数の種類があり、その内ひとつの使い方をアリスさんが直々に実演してみせてくれた。
自転車(アリスさんの自転車もロードバイクだ。荒川の持っている物と同じく高価そうな匂いがプンプンとしているけれど、荒川曰く価格的には彼女の物より更に上らしい)の後輪を外し、台のような装置に乗せて固定する。その状態でサドルに跨ってペダルを漕ぐと、装置によって負荷がかかり、実際に外で走るのと同じような体験をできるらしい。その負荷を変えることでトレーニング強度を変更できたりするらしいのだけれど、いやはやレースの世界から程遠い場所に住んでいる者にとっては全然理解が追いつかん。
アリスさんはお得意の身体のラインにピッタリレーシングスーツ(この衣服はサイクルウェアとか、レーパンとかいう呼び名で知られるらしい)に身を包み、台に固定された自転車を漕ぎ始める。
最初はゆっくりペダルを回し、徐々にスピードを上げていく。素人目に見てもそれは、熟練度を伺わせる漕ぎ方だった。パンピーがママチャリを乗るのと何が違うのかと目を凝らして見ると――そのロードバイク特有の前傾姿勢はもちろんのこと、おそらく、最も顕著な違いはその安定感にあるのかもしれなかった。
アリスさんはペダルを回す速度を少しずつ上げていき、やがてペダルってそんなに早く回せるものだったのかと驚嘆の域に突入せざるを得なくなり、装置も巨大なモーターが全力で回っているような轟音を立て始め――しかしそんな下半身及び音の激しさとは裏腹に、アリスさんの上体はオートパイロットモードに入ったジェット機かのように揺るぎなく落ち着き払っていた。
どっしりと(アリスさんの体型自体はむしろすらりで全然どっしりしていないのだけれど、この時ばかりはそのように感じた)構えた上体に、高速回転する両足――そして小気味いい呼吸をしながら何故か終始にこやかな表情――アリスさんは自転車をその場漕ぎしている間中ずっと、まるで温泉に浸かっているかのように幸せそうな顔をしていた。この人もちょっとヤバい人なのかもと思った瞬間だった。
アリスさんが持ってきたトレーニング用機材の数々はあまり荒川と宮の興味を惹くものではなかったらしく、虚しくもそれらはアリスさん専用の荷物として部室の一角に定住することになりそうだった。
翌日、水曜日。
アリスさんに触発されたのか、今度は荒川が色々持ってくる。
主に工具の類で、ここで自転車整備をするようだった。本人曰く彼女の家には工具一式が二、三セットあるらしいので、その内一セットを部室用として持ってきたとのこと。ペンチやらスパナやらあまり一般的花の女子高校生には似つかわしくないブツの数々を見て、宮はまるで宝石店にやって来たかのように目を輝かせ、
「リンちゃんって、自分の自転車自分で整備できるの?」
問われた荒川はさして何事でもなさそうに、
「ん、そうだよ。全部自分でやってる」
それが当たり前だと思っているのは荒川だけのようで、「えーっ、すごーい!」と歓声を上げる宮にアリスさんも加わる。
「それじゃああたしも、リンリンにメンテナンス頼んじゃおうかしら」
「別にいいけど。アリちゃんは自分でメンテしないの?」
自分の自転車から外していた車輪を一輪(?)手に取り、それを椅子のようにして腰かけ答える荒川。
「私は昔から全部チームのメカニックに任せちゃってるの。一応やり方は知ってるんだけど、あんまり自分でやらないから自信がないのよねぇ」
「ふーん、いいなあ、専属メカかぁ。さすがプロは違うなー」
「ふふ、何ならリンリンを専属で雇ってあげる?」
「えっ。そんなことできるの?」
「私としてはやってくれたらとっても嬉しいわぁ。ただ、週末はもちろん学校のある日でも、レースがあったらついてきてもらうことになっちゃうんだけどね」
「あー、それはちょっとキツいかな……。将来の選択肢として、考えとくね」
「うん。よろしくお願いするわぁ」
翌日、木曜日。
今度は宮が何か持ってきた。
「へ~! フーちゃんなかなかオシャレなの持ってるじゃない」
宮が持ってきたのはアリスさんや荒川に比べれば随分と小物の類だったのだけれど、それでも荒川を感心させるに足る価値のあるものだったらしい。
鞄からブツたちを机(活動開始日に仕入れてきた物)に並べながら宮は少し照れくさそうに、
「へへ、お父さんの趣味で、こういうのうちにいっぱいあるんだ。家にも飾ってあるんだけど、数が多くていっぱい余ってるから、その内の何個かもらってきちゃった」
それらは自転車のパーツなのだという。大きな歯車やいびつな形をした機械の塊のような物まで、女子たちの会話から察するにかなり昔に使われていた品だそうだ。アンティークってやつだな。ちゃんと保管されていたおかげか状態が良いということは俺にもわかり、金属部品がピカピカと艶を輝かせていて骨董的価値があるのだろうことを伺わせる。
「あっ、これあたしのお父さんが使ってたのと同じディレーラーだわぁ」
「へーっ。さっすが、アリちゃんのお父さんもいい機材使ってたんだね」
「まだまだ他にもいっぱいあるよー。もっと持ってきちゃおうかな」
自転車パーツを部屋のあちこちに飾っては眺めて会話に花を咲かせている女子たちの文化を理解するには、俺もまだまだ経験が足りないようだった。
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