1-7.


 ◆


 本来大半の高校生にとって、一日という長い時間を学校で勉学やその他文化的活動に費やした後のマイホームというのは極楽浄土にも匹敵する心の安らぎをもたらすものなのだろうけれど、参加したくもない興味なしの部活動などという苦役以外の何物でもない放課後を満喫した後の今日の俺に限ってはそんな普遍的毎日のハッピーエンドは人の運命を司る女神によって没収されてしまったようだった。

 

 この女神は十数年ほど前から我が家に住み着くようになり、困ったことにそれ以来毎日と言っていいほどの頻度で帰宅後の俺の運命を弄んでいる。これが当事者にとってどれだけ悲運なことか、彼女の人の運命に対する扱いがハンドスピナー同等だと言えばわかってもらいやすいか――つまり彼女は、無意識に手遊びをしたくなってしまうのと同じくらいの低い意識レベルで人の命運という、人間そのものと言っても過言ではないこの社会においてこの上なく崇高なモノをいじくりまわしてしまうのだ。

 

 こんな悪質極まりない女神が『神』などという聖なる肩書きを所持していていいのかと気になるところだけれど、考えてみればそんなもの絶対ダメという回答しか出て来ないはずで――それなら今回の議論のどこが間違っていたのかという点が問題になるのだけれど、そもそもの時点で女神じゃなくてただの妹だった。妹のミヅキだった。ただの勘違いだった。

 

 帰宅した兄の顔を見るなり彼女は、


 「遅かったね。どうしたの。エドっちの帰りがこんな時間になるなんて珍しい」

 

 表情は豊かだけど口調が常に一定の平坦さを保っているというのが我が妹の外面的特徴だ。

 

 「別に。ちょっと寄り道してきただけだよ」

 

 気にせず自室へ避難しようとした俺の行く手をミヅキが遮る。


 「ウソ。絶対ウソ。エドっちこれまで寄り道なんてしてきたこと一度もなかったじゃん。どんな気変わり? ていうかウソでしょ。何があったの」


 「ウソじゃねえよ。何だっていいだろ。俺にだってたまには洒落たカフェにでも行って優雅な放課後の空気に浸りたいって気になることがあるんだよ」


 「は? 頭狂ったの? エドっちが放課後に何かする気になることなんて天と地がひっくり返ってもあり得ない。エドっちに可愛い彼女ができるくらいあり得ない」


 「まだ内緒にしてるってだけで、実は絶世の美女と付き合ってたりするかもしれないぜ?」


 「いいから黙って。それで、何があったの? 何が起こったの?」


 「だから別に何も起こってねえよ。ちょっくら学校に居残ってただけさ」


 「居残り? エドっちが? 何で? どうして? そんなことだって今まで一度も――」


 まともに取り合っていてはキリがなさそうだったので、俺はいたいけな少女を黙らせる奥義『会話の途中で何の前触れもなく壁ドンをする』を使った――のが、しかし間違いだった。


 ミヅキは俺と部屋のドアの間に立ちふさがる位置にいたので、彼女が背にしているドアを彼女の肩越しに、俺は身長差を活かした右腕を繰り出したのだけれど、その動きを捉えるや否や――。


 ミヅキは俺の手が壁にドンする前にドアノブに手を回し、音もなく素早い動作でドアを微かに開く。空のやかんを水がいっぱい入っていると思い込んで持ち上げてしまうときの要領でリリースされたドアに思い切り手をついた瞬間バランスを崩した俺の脇をスルリと抜けたミヅキは、前に倒れ掛かっている俺の背中に止めの手押し(チョンって感じ)。完全に支えを失った俺が無様に自室に転げ込むという結果が待っていただけだった。


 「くっ……何たる不覚。喋りに夢中になり防御ががら空きになっている隙を狙ったというのに、信じられない反射神経だ」


 「キモいからやめて」


 実の妹にこうも軽蔑の目線を向けられるというのは、何度体験しても心が痛むものだった。




 この後も江戸兄妹による押し問答は続いたのだけれど、いたちごっこもいいところで特に建設的な結論は得られなかったので詳細を記すことは割愛する。


 帰宅が遅くなった理由を執拗に尋ねてくるミヅキを、俺は風呂場直通の脱衣所に逃げ込み強制的に服を脱ぎ始めるという強硬手段に出ることで何とか回避できたのだった(健康に対し強いこだわりを見せるミヅキは確固とした貞操観念も持っており、兄の全裸さえ見るのを嫌がる)。高校に入学してからというものの予想だにしていなかった体験ばかりしてきた俺の微弱な心のゆらぎさえ敏感にかぎ取って飢えた蚊のように纏わりついてきた彼女のことだ。放課後の部活動及び遅い帰宅というかつてない事態に俺が遭遇したことで異常気象レベルに騒ぎ立ててしまうのも頷けるというものだ――ただし、納得はできても許容できるわけではなく、俺からすればただただ鬱陶しいばかりなのだけれど。


 流れ的に風呂に入らざるを得なくなり、せっかくの機会を有意義に過ごすべく俺は湯につかりながら考える(幸い湯は沸かされ済みだった)。



 ――自転車部。



 入学当初どころか生まれたときから運命づけられていたかのように、それが生まれ持った使命かのように俺は帰宅部を貫き続けるつもり満々でいたのに、わずか一カ月の間にその信念はひとりのクラスメイトによって崩されることとなってしまった。


 まさか自分が部活動なんてものに所属するときが来ようとは――人生本当に何が起こるかわかったもんじゃあないな。ていうか入部したはいいけど俺は未だに自転車に平均以上の興味はないし、積極的に参加する気すらない。そんな人間が自転車部という名の組織に所属してるなんて、笑い話にも程があるぜ。


 何を隠そう俺はまだどこかに逃げ道がないか探っている――てきとうな頃合いを見て、荒川の奴を力任せにでも納得させて抜け出してやるからな。うん。そうだそうしよう。



 ――謎の自転車少女。



 ツーが何者かというのはもう考えないと決めたことではあるけど――やっぱりふとした拍子に気になってしまう。荒川以上に卓越した身体能力――正確には自転車曲芸走行テクニック――を持つツーは、荒川が生まれた時にはもう彼女の家にいて、幼少期をともに過ごしていたという。


 ――ん?


 ふと気が付いた。てことは、ツーは荒川よりも年上――すなわち俺よりも年上ってことにならないか?


 ますますわけがわからなくなる。ツーはどこからどう見たって十才前後の女の子だ。造形が芸術的なあまり大人っぽく感じてしまうことはあるかもしれないけど、表情やら仕草やらはどこまでも小さな女の子のそれだ。でも荒川は確かにそう言っていたような――明日にでもこの件は荒川に問い詰めてやろうか。いや、それよりツーと荒川ふたりから同時に話を聞き出したいことこの上ない。今週中にでも一度引き合わせてやるか――おやおや、どうしたことか。


 どうだっていいと思ってたはずのふたりの関係に、俺はいつの間にここまでの興味を持ってしまっているのだろう……。



 ――ミヅキ。



 ある意味この妹は、どんな自転車バカよりも厄介かもしれない。


 こんな状況になってしまった以上、ミヅキが引き下がることはないだろう――この妹は、どんな手を使ってでも兄から真相を聞き出そうとするに違いない。何故彼女がここまで俺のプライベートに関して興味を示してくるのか疑問が湧くところだけど――それに関しては、彼女が言うところの『だってエドっち、私のお兄ちゃんだから』というのが全てなのだろう。つまりそういう理由で、彼女は俺に付き纏ってくるんだ。よくわからないけど。


 部活に入ったなんてことを知られたら、何がどうなるかわかったもんじゃない。別にそれくらい知られたって何の支障も出ないだろうという批判もあるかもしれないけど――しかし、俺の勘が告げている。自転車部なんてモノに入ったという事実は、できる限りひた隠しにするべきなんだ。できればそんな歴史を全人類の記憶から抹消してしまいたいくらいだけれど、とにかくあまり広く知られない方がいい気がする。個人的に知られたくないというのもある。だからやはり、これに関しては徹底しよう。少なくともミヅキには、知られてはならない。



 風呂を出た後もミヅキによるクエスチョンマシンガンアタックは続き、俺は高校生にもなれば学校に居残ってまで終わらせるべき課題のひとつやふたつ出てくるのだということを具体例を交えつつわかりやすく説明し、やっとのことで納得させ撃退することができたのだった。


 そうしてかつてない大事業をやり遂げ、多大なる達成感と充足感を胸に俺は眠りにつくことができた――のだが。そんな安息も結局は束の間のことでしかなく。


 次の日から待っていたのは、というかこの日も別に間の休息日というわけではなく絶賛イベント進行中で、高校入学式から続く波乱の日々は、まだまだ仕事の手を休めてくれそうにないのであった。

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