巡査・吉瀬生太郎の幸不幸 ‐明治偽妖怪捕り物帳‐
沢丸 和希
第一章 鎌鼬
第一話
西洋風の二階建て長屋の前を、パラソルを差した洋服のご婦人や山高帽を被った男性が、澄まし顔で通り過ぎる。十五間もある大通りの真ん中を、鉄道馬車が闊歩した。日が落ちればガス灯が灯され、夜の暗さを薄れさせる。二昔前の江戸では考えられない光景だ。
そんな煉瓦街の一角にある派出所では、一人の女学生が仁王立ちをしていた。
頭のリボンを大きく揺らし、若い巡査とその先輩へ、新聞錦絵を突き付ける。
「だからね、
腕を組んで、
「一刻も早く、
彼女が持ってきた新聞錦絵を、巡査の
そこには『銀座に鎌鼬現る』という文字と、犬のような動物が三匹、そして倒れた老婆が描かれていた。先頭の一匹が、老婆に体当たりをしたらしい。その後ろにいる一匹は鎌状の前足で斬り掛かり、最後尾の一匹は抱えた壺から薬を取り出している。
「被害はどんどん広がってるわ。それも女性やお年寄りばかりが狙われてるの。か弱い相手から荷物を奪うだなんて最低な妖怪よね。そうは思わない、祝さん?」
「んー、まぁ、妖怪に限らず、かっぱらいはよくねぇよなぁ」
垂れ気味の目を更に垂らし、苦笑いを浮かべた。
「……千登世」
生太郎は眉間に皺を寄せ、己の妹分を睨む。
「お前、こんな事を言う為に派出所まできたのか?」
「こんな事じゃないわ。由々しき事態よ、これは」
「そうか。じゃあもう話は終わったな。仕事の邪魔だから早く帰れ」
「えー、もう少し居てもいいじゃない。私、邪魔なんかする程子供じゃないわ」
「子供じゃないなら、こうも気安く派出所にくるな。大体お前、さっきから鎌鼬鎌鼬と言っているが、本当に妖怪が人間を襲っているとでも思っているのか?」
「違うの?」
「当たり前だろう。こんなの、ただのかっぱらいの手口だ」
椅子の背に凭れ、溜め息を零す。
「背後から近付き、持っていた刃物で荷物の持ち手を切り裂く。腕の傷は、この時刃が掠りでもしたんだろう。そうして荷物を掴み、抜き取るついでに相手を突き飛ばせば終わりだ。見つかる前に逃げれば、何が起こったか分からない内に荷物を盗まれていた、という風に被害者は錯覚する」
「へぇー、そうなんだぁ。鎌鼬の仕業じゃないんだ」
「……なにが、そうなんだ、だ。本気で妖怪がいるだなんて思ってもいない癖に」
「うん、まぁね」
「えぇ? そうなのか、ちぃちゃん?」
頬杖を付いていた祝は、ぱっと身を起こした。
「えぇ。だって、今時妖怪なんて古臭いじゃない」
「そうかぁ?」
「そうよ。文明開花してから何年経ったと思ってるの、祝さん? 江戸とはわけが違うんだから」
「……そういう言い方は感心しないぞ、千登世」
「え? あ、ごめんなさい。別に、祝さんを馬鹿にしたわけじゃないのよ? 私はただ、妖怪なんていないって言いたかっただけなの。江戸の頃は、何かあったらすぐ妖怪のせいになってたみたいだけど、今は違うじゃない?」
「あー、確かになぁ。二昔前は日が暮れる頃になっても、こんな明るくなかったしなぁ」
祝は派出所の外を見やる。薄暗くなってきた大通りが、ガス灯の白い灯りによって一層モダンな姿へと変わっていた。
「まぁ、兎に角ね。私が言いたいのは、この鎌鼬もどきを早く捕まえてって事なの」
「……そんな事、お前に言われなくとも分かっている」
「今すぐになのっ」
「何故」
「だって見てよここっ」
と、新聞錦絵の余白に書かれた一文を指差す。
「犯人が妖怪だから、捕まらないのも仕方ないって書いてあるのよっ? つまりこれを書いた記者は、遠回しに警察を侮辱してるのよっ。一体誰のお陰で日々を平穏に過ごせてると思ってるのかしらっ。私、本当に本当に悔しくてぇ……っ」
「……だから、その勢いのまま、派出所までやってきたと」
「そうっ。この記者の鼻を明かす為にも、早期解決すべきなのよっ。そして金輪際馬鹿にしないよう、徹底的に知らしめてやるのっ!」
千登世は、勢い良く新聞錦絵を握り潰す。対して生太郎は、怒りに震える千登世へ呆れの視線を送る。
そんな対称的な二人に、祝は思わず笑ってしまった。
「あれ、千登世ちゃん?」
不意に、千登世の勢いが止まる。
ぎこちなく首を回し、派出所の入り口を振り返った。
そこには、背の高い、端整な顔の巡査が立っていた。腰に差した扇を抜き、手首の動きだけで開く。
「きてたんだ。いらっしゃい」
「あ、こ、こんにちは、
髪や小袖の裾を整える千登世。もじもじと体を揺すり、目の前の三十路を少し過ぎた男を、上目で何度も窺う。
「おぉ、お帰んなさい、天狗さん」
「うん。ただいま、祝君。吉瀬君もただいま。僕がいない間、何か変わりはあった?」
「お帰りなさい、倉間さん。いえ、特に何もありません」
「そっか。それはよかった」
そう言って、天狗と呼ばれた男――倉間
この倉間という巡査。何故天狗と呼ばれているかというと、原因は祝にあった。というのも、祝がこの派出所に配属となった際、倉間の本名を聞いて「なんか、鞍馬天狗みたいな名前っすね」と言ってのけたからである。
普通の巡査ならば、後輩の失言に拳骨の一つでもお見舞いしただろう。だが倉間は声を上げて笑い、更には天狗呼びを気に入ったのか、扇を携帯するようにまでなった。
その大らかな性格と穏やかな物腰、そして役者も
因みに、見た目にそぐわぬ苛烈さと武術の腕前から、善良な住民以外からは『銀座の鬼天狗』などと影で囁かれてもいる。
「あの、倉間さんは、どちらに行かれてたんですか? 見廻りですか?」
「ううん。ちょっと新聞社までね」
倉間は困った風な笑みを零す。
「知ってるかな? 今日の新聞錦絵に、警察を揶揄してる内容の記事が載ったって」
「し、知ってますっ。私それを読んで、凄く頭にきて、それでここにきたんですものっ」
「あぁ、そうだったんだ。ありがとうね、心配してくれて。千登世ちゃんのそういう優しい気持ちに、僕達はいつも助けられてるよ」
「そ、そう、ですか? そう言って頂けると、その、嬉しいです」
指をこねくり回し、千登世は体をくねらせた。
「千登世ちゃんと同じように思ってくれた方が、どうやらこの辺りには多いみたいでさ。この記事を書いた
「まぁ、そんな事があったんですか……そうですか、直接抗議を……」
「……お前はやるなよ」
「わ、分かってるわよ。そんな、生兄達の手間を掛けさせるような真似、私がするわけないじゃない」
そう言いながらも、落ち着きなく目を彷徨わせる。
「そ、それより、記者の方も随分と図々しいんですね。元はと言えば自分が悪いのに、倉間さんに助けを求めるだなんて」
「まぁ、彼も僕らの守るべき臣民だしね。それに大貫君の言い分としては、新聞を売る為に致し方なく書いただけらしいし」
「それでも、私は納得いきません」
「抗議に行ってくれた方々もそう言ってたよ。だから、僕も一言言わせて貰ったんだ。『本心はさて置き、己の職務を全うしなきゃいけないなんて、お互い大変だよね』って」
つまり、自分も心中は穏やかではない、と遠回しに伝えてやったらしい。
きっと言われた大貫は、顔を青くさせた事だろう、と正太郎は呆れ混じりの溜め息を吐いた。
「でも、こんな記事を書かれてしまって、鎌鼬も可哀そうだよね」
倉間は眉を下げる。
「人間の罪を自分のせいにされて、きっと悲しんでるに違いないよ」
「そ……そう、ですよねぇ。私も、そう思います。はい」
「本当? 千登世ちゃんも、そう思ってくれる?」
「も、勿論ですよっ。だって、何も悪くないのに悪いように言われたら、誰だって嫌ですもの。妖怪だって、きっと嫌だなって思う筈ですっ」
妖怪を信じていないと言い切った女が、何を抜かしているのか。正太郎は、己の妹分をじとりと睨んだ。
「そう言って貰えると嬉しいな。ほら、今のご時世、妖怪を信じてるって言うと、古臭いとか時代遅れって言われちゃうでしょう? 若い子なんか特にそうかなって思ってたから、千登世ちゃんみたいに心配してくれる子がいてくれると、なんだかほっとするよ。あぁ、こういう言い方すると、一層おじさん臭いね」
「そんな事ありませんっ。倉間さんは凄く若々しくて、優しくて、全然おじさんなんかじゃありませんよっ。本当、凄く、か、かかか、格好いいと、思いますっ」
「あはは、ありがとう。そこまで褒められると、なんだか照れ臭いな」
千登世は真っ赤な顔で拳を握り、はにかむ倉間へ尚も語り続ける。正太郎の気持ちをくみ取ったのか、ガス灯の上で鴉が阿呆阿呆と声を上げた。
と、不意に、生太郎の左腕へ、何かが触る。
目を落としても、別段何かがあるわけではない。
だが、確実に“何か”が、撫でていった。
「……千登世」
生太郎は、左腕から千登世へ視線を移す。
「お前、そろそろ家に帰れ。日が落ちる前に戻らないと、おじさん達が心配するぞ」
「あ、そうね。じゃあ生兄、お願いね。絶対に鎌鼬もどきを捕まえて、目にものを見せてやってね。絶対だからね」
「分かった分かった」
「それから、明後日に私、
「はいはい。分かったから、ほら、さっさと行け」
適当に手を払う生太郎に、千登世は頬を膨らます。だが何も言わず、祝と倉間を振り返る。「お邪魔しました」と頭を下げると、新聞片手に派出所を後にしようとした。
「あ、千登世ちゃん」
それを、倉間が止める。
「良かったら、途中まで送って行こうか?」
「えっ! い、いいんですか倉間さんっ?」
「うん。丁度お腹も空いたし、そろそろ夕飯でも食べに行こうと思ってたんだ。だからそのついでにね」
扇を畳み、倉間は何て事なく微笑む。
千登世は喜んで頷こうとしたが、すぐさま止まった。
生太郎の顔色を、そっと窺う。
「……ご迷惑をお掛けするんじゃないぞ」
千登世は満面の笑みを咲かせ、「勿論よっ」と頭のリボンを揺らした。
「じゃあ、行こうか千登世ちゃん」
「はい。じゃあね、生兄。祝さんもさようなら」
千登世は会釈すると、倉間に続いて派出所を後にした。二人並んで歩き出す。
恥じらいと喜びに赤らむ千登世の顔が、倉間と談笑しながら徐々に遠ざかっていった。
「いやぁー、恋する乙女は可愛らしいねぇ」
「……ただ煩いだけですよ」
「おーおー、兄貴分は気が気じゃないってか?」
「別に、そういうわけではありません」
眉間に皺を寄せ、図らずとも低い声で呟いた。椅子に座り直し、当直日誌を引き寄せる。
すると、どこからともなく、猫の鳴き声が上がった。
同時に、屑籠の影や机の下から、様々な模様の猫達が姿を現せる。
「あぁ、悪かったなお前達。千登世が煩かっただろう」
そう言って足元の美人な三毛猫を撫でれば、三毛猫は気持ち良さそうに目を細めた。
この派出所には、野良猫が住み着いている。祝が気まぐれに餌をやったら、いつの間にか入り浸るようになったらしい。今では飼い猫面で、各々好き勝手に寛いでいる。
だがやはり野良だからか、見慣れぬ者や煩い相手がやってきた時は、すぐさま姿を隠してしまう。そして帰った事を確認してからでしか、顔を出しはない。
「ん、何だ? 腹でも減ったのか?」
擦り寄る三毛猫に、正太郎は顔を緩ませる。
そんな生太郎を、祝は頬杖を付いて眺めた。
「お前もなぁ。そうやってれば、割といい男なんだけどなぁ」
「……何ですか、いきなり」
「いやぁ、勿体ねぇと思ってよぉ。お前、いつもこう、眉間に皺寄せて仏頂面してんだろ? たまには天狗さんみたいに笑ってみろよ。そうすりゃ女の一人や二人、ふらふらっと寄ってくるぞぉ?」
「……別に、寄ってこなくていいですよ。今はそういう気になどなれませんので」
「いやいや。そんな事言ってると、いつまで経っても結婚出来ねぇぞ? 俺もな、前はお前と同じように思ってたけどよ。いざ嫁さん貰うと、そりゃあもう毎日が楽しくってなぁ」
祝は、垂れ気味の目を一層垂れさせる。
「来年には子供も生まれるしよぉ。大変な事も勿論あるが、それを上回る幸せっていうのを日々感じてるわけよ。なぁ、トラ?」
すぐ脇に蹲っていた、ずんぐりと大きな虎柄の猫を撫でる。
生太郎はつと眉を寄せ、派出所の外へ視線を向けた。
群青色に染まっていく空をしばし見つめ、徐に口を開く。
「……そういえば、祝さん。猫用の煮干し、確か切らしていましたよね」
「んあ? そうだったか?」
「えぇ。なので、ちょっと買いに行ってきます。今ならまだ店も空いているでしょうし」
「これからかぁ? 明日の見廻りついでにでも買えばいいじゃねぇか」
「それは、そうですが」
祝から顔を背け、財布を懐へ入れる。
「猫達も、腹を空かせているようですし、それに、鎌鼬の件もあります。これ以上被害が広がらないよう、巡羅は強化すべきかと。なので、見廻りがてら、行ってこようかと」
そこで、祝は思い当たった。
生太郎の言う乾物屋は、千登世の家の近くにある。
つまり生太郎は、なんだかんだで妹分が心配なのだ。
「ほーぅ、そうかぁ。成程なぁ。そいつはいい心掛けだ。なぁ、クロ?」
黒い子猫の喉を擽り、口角をつり上げる。
「……言っておきますが、私は、本当に見廻りが必要だと思っているだけですからね。そのついでに、猫の餌を買ってくるんです。他意はありません」
「うんうん、そうだよなぁ」
「相手は刃物を持っています。しかも逃げ足が速く、未だに捕まるどころか、姿をはっきり見たという話もない。とても危険な相手です」
「とても危険だなぁ。そうだそうだ」
「私は一巡査として、善良な臣民を守る為、職務を全うする義務があるのです」
「吉瀬はそういう男だもんなぁ。正に巡査の鑑だよ」
「……祝さん。面白がっていますね」
「いんやぁ? そんな事ないよぉ。俺はただ、真面目な後輩を持って幸せだなぁって思ってるだけさぁ。なぁ、ミケ?」
机の上に飛び乗った美人な三毛猫を見下ろし、祝は笑みを浮かべ続ける。
「……ですが、件のかっぱらいは、本当に見過ごせませんので」
正太郎は、壁に掛けてあるサーベルと官棒を腰に差す。
出掛ける準備を進める後輩を、祝は眺めた。それから宙へ視線を投げ、一点を見つめる。
かと思えば、唐突に「よし」と膝を叩いた。
「なぁ吉瀬。お前、鎌鼬を捕まえたいんだよな?」
「……えぇ、そうですね」
「ならよ。明日、昼の巡羅の時にちょっと付き合えよ」
怪訝な顔をする正太郎に、にやりと笑ってみせた。
「そうすりゃ、あっという間に解決だ」
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