4.10 白日

 イライラがたまったままの足どりで、トゥエンは酒場『ネコの目』に足をふみいれた。床に焦点をあわせたまま三歩すすんで、そこで気まずい雰囲気を感じとった。肩にのしかかる空気がおもかったのだ。



 顔をあげたところ、目に入ったのは、リーシャの泣きそうな顔と、男の背中だった。クレシアの姿はないようだと安心していたら、カウンター横の戸から顔だけをのぞかせていた。トゥエンは彼女と目が合った。彼女は不安そうな弱い目をしていた。



 よいことはすくなくとも起きてはいない、とはわかったものの、トゥエンはつぎの行動をきめるだけのものをこの場からあつめることができないでいた。ほかに分かったことといえば、男の背中がイーレイの背中であることぐらいだった。



「ジャマが入ったか――これぐらいにしてやる。でも覚悟しろよ、お前のしたことは死に値する。つねにうしろを気にかけることだ」



 男がこちらに振りかえってずかずか歩いてきた。左手を鞘にそえ、ずっとトゥエンをにらみつけていた。もうすこしで肩と肩がぶつかりそうなところ、トゥエンも目に力をいれて、イーレイをにらみつけた。



 しかし、肩同士がぶつかるまえに、イーレイは足をとめた。そうだ、と口にしながら、トゥエンから顔をそむけた。顔のむきやら体のひねり具合からして、カウンターを見ていないのは明らかだった。



「ひとついいことをおしえてやろう、そこの給仕にな。お前が親しくしているこの男、こいつの体のなかには、お前の両親を殺した連中の忌まわしい血が入ってるんだぞ」



「トゥエンのことをいうな」



「この男は王族なんだよ!」



 リーシャの言葉を消し去るような大声に、クレシアの目はまんまるに開いて、顔から血の気がますますひいて、青白くなってしまった。口は開いたままになっていて、唇がかすかにふるえて、目は泳いでいた。泳ぐ視線がトゥエンのとかさなるなり、彼女の目はより大きく見開かれた。顔をひっこめて戸を閉めたときの音は、乱暴で、いまにもこわれそうな感じだった。



 気晴らしとしては、と声をあげたイーレイは、まあまあだ、とつづけて、ハハハハと笑い声をあげながらトゥエンに肩をぶつけて、視界からいなくなった。扉につけた鈴がむなしく鳴り響き、その余韻の中で立ち尽くすのはリーシャとトゥエンだった。空気はまだ重苦しく、奥から階段をかけのぼる音が耳を叩いた。トゥエンはその音を、視線を足もとにおとしてから目をとじて、感じとっていた。



 階段の音が扉をあける音となって、とじる音がした。顔をあげたトゥエンはカウンターにゆっくりと足をすすめた。



「リーシャ、けがはしてない?」



「う、うん、だいじょうぶ、だけれど、トゥエンくん」



「できればオレの口からいいたかったな」



 トゥエンは口もとをにやけさせながら、カウンターの席に尻をのせた。にやけているといっても、目は死んでいるかのようにどの感情も表してはいなかった。『うつろな何か』のみしかなかった。リーシャの正面に腰かけているのに、彼は彼女の姿を目におさめようとはしなかった。



 リーシャもまた目をあわせなかった。彼女の目はカウンターで逆さになっておいてあるグラスにむいていた。手元のグラス、アワがまじってすっかりにごっているそれには、トゥエンの顔ではなく、熱にゆがんだろうそくがうつっていた。



「やっぱり、名前のことはいってなかったんだね」



「しかるべきときになったら教えるつもりだったんだ、あの人から離れるときに」



「離れるって、どういうこと?」



「どうもないさ。ただ、獣人に正体を話して受け入れられるとは思ってないから、ばらしたらもう会えない、その覚悟ができたときだね」



「トゥエンくんらしいといえば、トゥエンくんらしいね」



「うん、それじゃつぎは、リーシャがどんなことに巻きこまれたのか、教えて」



 トゥエンとの会話でほんのりと笑みをうかべていたリーシャだった。数秒後には、トゥエンの言葉が突き刺さって、顔から笑みがスーっとひいていった。顔を逸らすだけではなく、リーシャはうしろの酒樽にふりかえり、カウンターに背をむけてしまった。リーシャは手をくみ、みぞおちのあたりにおいた。



「やっぱり、きくんだね」



「あたりまえだろう? だからイーレイがここにきてたんだろう」



「聞いたらきっと、私のことをきらいになるよ」



「それほどのことをしたんだな」



「……王宮と、取引したの。獣人の安全と引き換えに、獣人たちのことを王宮に教えるって。筒抜けになるかわりに、獣人に手を出さないって」



「いつからその取引をしてるんだい?」



「トゥエンがここに来た日のつぎの日から。その、トゥエンを見て、一緒にいたくて、本当に安全な国で、トゥエンといっしょに笑いたかったから、その」



「じゃあ、具体的にいままで教えたことは何?」



「抗議行進をやること、トゥエンがエルボーにいったこと」



「王宮に出向いたことは」



「いや、いちどもない、いつもフードをふかくかぶった人が来て、話を聞いてくる」



 そうか、とトゥエンは言葉をこぼした。シモフがいっていた王宮に出入りする人ではないということで、ちょっと安心したけれども、彼女のしたことはたしかに『死に値する』といわれても仕方のないことだった。その原因というのが、トゥエンが酒場を営むリーシャの前にあらわれたことだというのが、トゥエンをくるしいきもちにさせた。



 トゥエンはまわりに音が聞こえるほどに、息をゆっくりと吐き出した。イスを離れて、カウンターのまわりをぐるっとまわるようにして、リーシャのすぐそばで足をとめた。何をするかと思えば、リーシャの腰に腕をまきつけて、だきしめた。



「くるしかったんだね、だから、オレをみただけでそんな、その、安定したがる」



「きらいになった?」



「リーシャがすきだってきもちはかわってないよ。でも、いまは失望してる。正しいのはリーシャじゃなくてイーレイなんだから。こんな指導者にはついてけない、普通の感覚だよな。そうしたリーシャに失望してるし、気づけなかった自分もくやしい」



「トゥエン、私は、もうトゥエンといっしょにいたいとしか考えられないよ」



「なら、オレといっしょにほかの国ににげるのか? ウェルチャさんも、獣人も、この国も全てすてて」



 腰を抱きしめる手に、リーシャの手が重なるのをトゥエンは感じた。二の腕に鳥肌がたつほどつめたくて、手ではなくて水をあてられているかのようだった。トゥエンはその手を左手ではさみこんだ。血の気のない左手を、トゥエンの左手でやさしくにぎった。



「そんなこと、したくないよ」



「でもいっしょにいたい、それは分かるよ。でも、いまここで妥協すれば、このくるしさだとかうしろめたさとかがずっとつづくことになる。王宮が約束を守るとでも?」



「それは」



「獣人の情報がもれるってことは、王宮が獣人を支配しやすくなるってこと。ヤツらは内側からこわそうとするぞ。ずっとつづくなんてものじゃない、耐えられないぐらいに厳しくなるにちがいない」



「わたしはどうすれば、その、取引を解消すれば」



「まだだ。しばらくはウソをながすことにしよう。リーシャから情報を聞き出すその人が誰かを探っておく必要がありそうだし、リーシャみたいなことがイーレイにはないとはいえない。ウソで時間しのぎをしてもらう間に、しばらくそっちを調べてみるよ」



 トゥエンは腕をほどくと、リーシャを振りむかせた。彼女の目から頬にかけては太い小川がそれぞれ一本ずつできていて、目もとには涙がたまっていた。こぼれおちた涙は胸にせきとめられ、ぐっしょりぬらしていた。



 トゥエンは親指で涙の池をぬぐい、それからリーシャの腰をとらえた。



「リーシャは泣いてもヒクヒクしないから」



「わるいことしてごめんなさい、ごめんなさい」



「あやまってすむほどの問題じゃない。リーシャのやることひとつで、国中の人々をまきこむんだ。その重みを理解しなさい」



「あやまることしかできないよ。ごめんなさい、ごめんなさい」



「だからあやまらなくていい。そのかわり、ずっと反省すればいい。それで、もうこんなことをしなければいいんだ。これからさき、ずっと」



 トゥエンは片手をリーシャの頭にそえて、自分のもとへひきよせた。互いの体が密着するよう、彼女の顔を肩からほおにかけておしつけた。くるしいとか痛いとかを考えることもなく、かなり強い力でリーシャの頭をだきしめた。



「あったかいだろう? オレがいるんだ。もう、一人でかかえこんじゃダメだからな。こまったらオレをたよるんだ。してもだいじょうぶなら、ウェルチャさんにだってたよっていい」



 トゥエンの背中で服を巻きこむようにしてにぎりしめるリーシャ。トゥエンは頭をしきりになでて、もうひとりじゃないんだよ、とささやきかけた。腰にまわしていた腕は、いつのまにか背中をなではじめていた。

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