3.9 できる
扉の音がむなしくひびくとと、空気があたかも足もとまでしずんでしまったかのような暗さになって、足もとが妙にさむくなった気がした。いつのまにかテーブルのろうそくが一本きえてしまっていた。芯からの煙の見えないことがほんのすこしばかり不気味だった。
クレシアは何も感じていないかのような目をして、天井を見ていた。ぼんやり光る橙色に染まった目は、楽しそうだとか悲しそうだとかというものを通りこえて、もう生きているのか死んでいるのか分からなかった。
クレシアさん、とトゥエンが名前をささやきかけても反応がなかった。もういちど声をかけても口をつぐんだままでいるから、トゥエンはグラスを手にしたままイスを離れた。
一歩近寄ったところで、クレシアの天井へのまなざしがぶれたのを見て、愛想よくほほえんでみせた。寝床にしゃがみこむと、あの男は騎士団員ですが危害はオレがくわえさせません、と耳もとでふきこんだ。
くすぐったがったりもきもちわるがったりもしなかった、クレシアの目はうつろだった。それで、わたしには何もできないのですか、と天井にむかってつぶやいた。
「わたしにはトゥエンさんやジーンさんを助けたいっていうきもちがあります。でも、それはかなえられないものなのですか?」
「武器をもってして、というならば、ざんねんながら今はムリだと思います」
「かなえられないんですね」
「でもちがうんですよ、あなたの力は剣を使う必要がないんですよ」
「いまの時代、剣以外の何で助けることができるのですか? これから戦争がはじまるのでしょう? でしたら、武器以上にものをいう手段はないじゃないですか」
「ウェルチャさんの笑顔に助けられるんですよ」
トゥエンはクレシアの頭に手をかぶせた。おでこから手につたわる熱を感じとりながら、クレシアの視線をあびようとその目をぐっと見つめた。彼女のきえた表情がもどって笑顔になってくれれば、とねがいをこめたが、彼女の顔がとろけることはなかった。額が熱いぐらいだったから、表情をとろけさせようと、頭をなでた。絹をていねいにあつかっているかのように。
「ウェルチャさんの笑顔がオレらを助けてくれますし、守ってもくれます。力がみなぎるというか、元気になれるんです」
「でも、それでは人がたおせません」
「たおすことにこだわらなくてもいいのではないですか?」
トゥエンはクレシアの顔をのぞきこむかたちをとって、天井とクレシアとの間をさえぎった。クレシアを照らすろうそくの熱がトゥエンの顔をむわっとおおい、下にたれた前髪が熱でヘンになってしまいそうなほどだった。
「作戦や計画をたてることだって俺たちの役に立ちます。ウェルチャさんならきっといい作戦をたてることができるでしょう」
「でも、ジーンさんやトゥエンさんを守ることが、それでは」
「きちんとした作戦や計画が、オレらを守ってくれるんです。安全どころか、緻密になれば、どうしようもないぐらいに相手をおいつめることができます」
「そんな作戦、わたしにはたてられません」
トゥエンは首をゆったりと横にふり、寝床から腰をあげた。膝をぴんとのばして立ってもなお、クレシアの頭から手をはなすことをせず、中腰の状態でそのまま、髪のながれにそって手ぐしをかけつづけていた。
「ウェルチャさんにならできます」
クレシアは二度か三度同じ言葉を口にして、ようやく手を離した。テーブルを前にしてとまり、誰も手をつけていないグラスに黄金色の酒をそそいだ。
振りかえったところでクレシアと目が合う。グラスをもつ前腕のゴツゴツさを見つめ、トゥエンの目じりに宿るほほえみを次に。クレシアのもとへ迫ってゆく中、小さく揺れつづけるハチミツの波。
クレシアにハチミツ酒を差し出したら、クレシアは上半身をおこして、酒を両手でうけとった。グラスをつつみこんで、首をちょっぴりかしげて、中身をすすった。
「ですが、ウェルチャさんは醸造所の前で潜入することを考えてたんでしょう?」
「たしかに、考えてはいましたが」
「どこから調べよう、などと考えましたか?」
なんとなく、という声を耳でうけとめつつも、トゥエンは酒をそそいだ。昼間に酒場で耳にしたトラハヒェブだった。グラスにあけてみれば、ほんのりとハチミツの色あいがあって、エルボーの辛口ハチミツ酒のようだった。しかし口にしてみれば、エルボーとは比にならないぐらい強いものだった。ひと口がおおかったせいで、なんとかのみこむことができたものの、口の中が痛くて口をあけた。焼けるような感じがよりひどくなって、大きくせきこんでしまった。クレシアが気を使って声をかけてくれたが、それには首を振りまくって答えるしかなかった。
シモフがもどってきたのは夜冷えが一段と厳しくなった頃あいだった。トゥエンはそのときぐっすりと眠るクレシアを横に、ろうそく一本の暗さの中で、グラスに顔をむけていた。見ているかどうかは分からない、目にいきいきとした感じがなかった。しかし、戸が二度叩かれて扉をあけるまでの足取りは、しらふとかわらないぐらいにしっかりしていた。
「それで、どうだった?」
「地下の牢獄で駐在所長がひとり死んでた。トゥエンがいったこと以上のことが起きてた。ああ、まずいぞ、やつらはイーレイの味方になったのか?」
「そう疑った方がいいと思うぞ」
「そうしたら騎士団は大きな失態をしでかしたことになる」
話をしているうちにシモフがとまっている部屋のまえについた。ハナシがとぎれて、シモフがカギを開けて、扉といっしょに中へとすいこまれていって、あとをトゥエンがおった。下婦がテーブルに腰掛けるのを視界の中心に捉えつつ、トゥエンは背でもたれかかるようにして扉を閉めた。
「なあトゥエン、イーレイを捕まえるためだったらなんでもいい、たとえば、獣人と協力することはできないものか」
「ムリだね。イーレイは獣人側でも繊細な問題なんだ。もしいま獣人側が、オレが知ってる連中がお前らと手を組んだとすれば獣人側が分裂する」
「ならばお前なら」
「できないことでもないが、分裂する可能性はいなめない、どっちにしろ表立ったことはしないほうがよい。いまのうちなら、その方が得策だろう」
肘をついて頭をかかえるシモフを前に、トゥエンは腰かけた。イーレイをつかまえる方法を考えながらも。
手段はいくらでもある。指名手配するのもよし、懸賞金をかけるのもよし、国中の傭兵を使うのもよいことだろう。土地をくれてやるとすれば、貴族がこぞって軍隊を作りあげて、あるいは軍隊を強くして、王を殺そうとした獣人を探すことになろう。
トゥエンはイーレイが獣人であることをあらためてみとめた。人間にとっては、イーレイが獣人の象徴として見えてしまう。ヤツが殺したのではなく、獣人が国王を殺そうとしたふうに見えてしまう。人間がイーレイを捕まえるのでは、何もかわらない。獣人が捕まえて引き渡すのも、それでは獣人には同じぐらいの罪があるとみとめてしまうような気がした。獣人が捕まえて、獣人で処分しなければ。
シモフが、王宮騎士団が手を出すのをなんとかしてとめなければならなかった。
「なあ、その件はオレに任せてはくれないか?」
「トゥエンに? 騎士団としてはなんとしてでも捕まえないと面目が」
「オレに考えがある。もしまかせてくれるなら、ヤツをしとめてみせよう」
「引き渡してはくれるだろうな」
「うんや、それはむずかしい。きっと獣人の手で、王宮広場で処刑だろうな」
「獣人の手だと? それこそ面目まるつぶれだ」
「オレとしては、人間の手で殺されるのがこまるんだ」
「そんなこといわれたって」
「これが一番いい手なんだ。いいかシモフ、イーレイはオレがヤる」
頭をガシガシかきむしるシモフを、トゥエンは鼻で笑った。シモフをこまらせているだけだが、それが王宮騎士団を手玉にとっているかのようで楽しかった。
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