38.届いた想い



 四月二十五日。



 千駄ヶ谷から離れた板橋の空の下で、今日、近藤勇がこの世からいなくなる。

 琉菜は気が気でなかったが、沖田に悟られるまいとして努めて普通に過ごした。少しでも顔に出ないように、出たとしても見られないように、琉菜は少し遠くまで買い物に出かけた。



 町の瓦版売りの前に人だかりができていた。

印刷は間に合っていないようで、たった一枚、立て看板に貼ってある。速報ニュースだ。

 一言だけ、こう書いてあった。



 ――新選組局長 近藤勇 斬首ノ刑ニ処サレタシ


 涙は出なかった。

 琉菜は唇をぎゅっと結んでしばらくその看板の前に立っていた。藤堂や山崎の時と違い、死に目に会ったわけではないので、琉菜はどうにも実感がわかず近藤の死を信じられなかった。



 近藤局長は、どこにいてもずっとあたし達を見守っててくれる。

 局長はいなくなってなんかない。

 だから、泣かないよ。


***



 沖田にわからないよう、琉菜は無事に数日をやり過ごしたが、忘れた頃に沖田がぎくりとすることを言った。


「宇都宮の戦はどうなったんでしょうね。近藤先生はどうされたのでしょう。琉菜さん、お便りとか来てないですか?」


 琉菜はぴたりと洗濯物を干す手を止めた。

 沖田は体を起こし、じっと琉菜を見ていた。


 ――総司には黙っててくんねえか。


 土方の言葉を思いだし、琉菜は断固嘘をつき通すことにした。


「来てないですよ。ほんとに、どうしたんでしょうね。でもきっと、局長も他のみなさんも無事……立派に戦われてるはずですよ」

「それは、琉菜さんだから知っていることですか?」


 そうです、と琉菜は小さな声で答えた。驚いて、はっきりと声が出なかった。


 土方さんと同じようなこと言う……。

 未来人が語る、細かい歴史の情報を沖田さんも知りたがっている……?


 どうして?今まで、そんな風に言われたことなかった。何を察しているの?どこまで気づいてるの?それとも、気まぐれ……?


 だが、琉菜の逡巡をよそに、沖田はそうですか、と納得したようつぶやくと布団の中に潜っていった。

 ひとまず、これ以上は突っ込まれなさそうだと琉菜は胸を撫でおろした。



 その時、土をこする音がした。誰か来たようだ。

 しかし、琉菜には誰だか見当がつかなかった。新選組の人間が今この時期こんなところにいるはずはない。



 琉菜は敷地の出入り口の方へと視線を向けた。目の前に現れたのは、見知らぬ男だった。二人いる。

 琉菜も今やこういうことに関する勘は身についている。彼らは、敵だ。


「どちら様?」琉菜は挑戦的に言った。

「沖田総司に用がある」

「邪魔をするならお前も斬るぞ」

 

 殺気立っている。男たちは刀を抜いた。真剣を目の前に突き付けられたのは久しぶりだ。琉菜は男たちを睨みつけた。


「生憎、沖田総司なんて人間はここにはいません」

「なら、そこで寝とる男は誰じゃあ!」


 ああ、長州か、それに近い地域の訛りだ、と琉菜は思った。敵討ちだかなんだかわからないが、居場所をしっかり突き止めているあたり、見逃してくれそうにはない。


 琉菜は視線を逸らさないまま、「兄上!」と叫んだ。


 足下に何かが落ちてくる音がした。琉菜はそれを拾い上げた。沖田が、琉菜の刃引き刀を投げてくれたのだ。琉菜は着物の裾をからげ、歩幅を確保する。


 スラリと抜くと、男たちはたじろいだ。まさか女が刀を抜いて向かってくるとは思わなかったのだろう。


 先に向かってきた男に、琉菜は応戦した。鍔で受け流し、素早く背後に回って後頭部に一刀浴びせた。


 男はドサッとその場に倒れ込んだ。


 続けて、もう一人。そう思い振り返ると、すでに男は沖田に狙いを定めていた。

 

 沖田も、枕元にあった刀を抜いていた。室内戦になるのを睨んでか、脇差しを。


 沖田が放つ殺気は、衰えを知らなかったようだ。明らかに刺客の方が有利に見えるのに、両者一歩も動かない。

 今のうちとばかりに、琉菜はその瞬間背後から斬りつけた。

 男はうぐっと呻き声を上げたが、違和感に気づいたようだ。血が、一滴も出ていない。


「はっ、ははあ、お前もしかして、刃引きした刀を扱うとかいう新選組の女か?」


 そこまで自分は有名になっていたのか、と驚いている暇はない。


「そんなことどうでもいい!……その人に手を出すやつはあたしが許さない、それだけ」


 琉菜は立ち上がった男に刀を向けた。手の内がバレている。斬られても死なない、という確証は男に勇気を与えてしまったようだ。


「琉菜さん、右!」

 

 沖田に言われ、そちらに目をやると、先ほど打ちのめした男が復活していた。


「すみません、任せます!」琉菜はそう言い放つと、右の敵に向かっていった。瞬間、ついさっきまで琉菜と対峙していた男の呻き声が聞こえた。どうやら沖田の攻撃が効いたらしい。だが琉菜にはそちらを見やる余裕はない。後ろの状況には目もくれず、復活した男の前に躍り出ると、やや下段に構えた。



「威勢だけはいいみたいだが、そんななまくら刀で向かってきたって無駄じゃぞ」男も、先ほどの会話を聞いていたようだ。

「そのなまくら刀に一度負けたのはどこのどいつだ」琉菜は相手を睨んだ。


 斬れない刀でも、突くことはできる。だが、もう、人を殺めないと決めた。その狭間で、琉菜の心は揺れた。

 その迷いが、隙となった。間一髪で交わしたものの、左腕に激痛が走った。


「琉菜さん!」


 沖田の声。刺客はあっと言う間に琉菜の横を走り抜けると、沖田の前に立ちはだかった。だが、その次に何が起こったのか、速過ぎて琉菜には見えなかった。一瞬の後、刺客はどさりと崩れ落ちた。腹を貫かれて血を流している。


「まだ息がありますか。私も、琉菜さんに手を出すやつは許しませんよ」沖田は氷のように冷たい顔でそう言うと、カチャリと刀を納めた。

「く、そお……!」


 最初に斬られた男はすでに息絶えていた。今目の前でうずくまっている男も、時間の問題だろう。


「平五郎さんに頼んで、奉行所の役人を呼んでもらいましょう」


 言うなり、沖田は突然咳き込み、ゴフッと血を吐いた。


「沖田さん!」琉菜は急いで沖田に駆け寄った。


 しばらくすると咳はおさまり、沖田はゆっくり呼吸し始めた。


「そんな体で無茶するから……痛っ」琉菜は顔をしかめた。沖田が琉菜の左腕を掴んで、着物の袖をまくり上げていた。

「よかった。深くないみたいですね」

「あたしの傷なんてどうでもいいんです!それより早く寝てください!」


 沖田は安心したようにふっと笑うと、ドサリと崩れ落ちた。


「ちょっと、沖田さん!?」


***


 程なくして奉行所の役人が遺体を運び出し、事情聴取のようなことが始まりそうになったが、沖田が気を失っていてそれどころではないので、琉菜が手短に経緯を話すことでその場は収まった。



 沖田は久々に動き回った疲れが出たに違いない。琉菜は時間が止まってしまったような心地でずっとその枕元に座っていた。

 応急処置の済んだ左腕は少し痛んでいたが、そんなことを気にしている場合ではない。


 大丈夫。

 予定まであと二か月もある。  

 こんなことで沖田さんは死んだりしない。

でも……


 やきもきと考えていると、突然沖田が目を覚ました。


「沖田さん!気がついたんですね!」

「琉菜さん……あっ、怪我は!?」


 開口一番沖田が琉菜の傷を心配することに不謹慎とは思いつつも琉菜は嬉しくなって、笑みを漏らした。


「大丈夫ですよ。ほら」琉菜は袖をまくった。包帯は巻かれているが、血はもう止まっていた。

「よかった……」沖田はまじまじと琉菜の腕を見た。


 そして、ハッとしたように今度は琉菜の目をじっと見た。

 琉菜はしまった、と思った。

 包帯が巻いてある場所のすぐ下には、池田屋の時の傷跡が残っている。


――ここにホクロがあるから、もう一つ点を足したら笑った顔みたいになります。


 片目の笑顔が、そこにあった。


「この傷跡……そうだ、それにあの言葉……」

「こ、言葉……?」

「池田屋で、女子のような声を聞いたって話、しませんでしたか?さっきの、琉菜さんの、『あたしが許さない』ってやつ……あの時、同じことを言われた……」


 琉菜自身はあの時無我夢中で何を言ったかなんて覚えていなかったが、沖田の方は極限状態の中にあったためにむしろ強い記憶として残っていたようだ。


 琉菜は、池田屋で沖田を敵から守った時と、全く同じ台詞を言ってしまったのだ。


「琉菜さん、あなた一体……」


 沖田の不思議そうな顔を見て、琉菜はここまでか、と覚悟を決めた。

 沖田の前に正座し、頭を下げた。


「沖田さん、今まで黙っててごめんなさい。……こっちの傷は、あたしが中富新次郎として新選組にいた時に、池田屋で負ったものです」


 琉菜の声は、震えていた。


 言った。ついに言ってしまった。

 何て言われる?理由を聞かれる?怒られる?今度こそ切腹を言い渡される……?


「ど、どういうことです?琉菜さんが、中富さん……?え、でも、琉菜さんは未来の人ですよね……?だって、中富さんが脱走した時、妹の、未来から来た琉菜さんが、いたじゃないですか……?もう、難しいこと考えさせないでくださいよ。病に障りますよ……」沖田は乾いた笑いを漏らした。


 琉菜は顔を上げると、沖田を真っ直ぐに見た。


「順を追って、説明します。あたしは今、三回目のタイムスリップでここにいます。二回目のタイムスリップで着地したのは、五年前の八月。芹沢さんがまだいた時です」

「そんな……」

「あたしも、正直言って、予想外でした。一回目のタイムスリップで来た時期よりも後になるものだと思っていました。でも違った。だから、あのまま普通に女として新選組に関われば、いつか一回目のタイムスリップでやってきたあたしと鉢合わせしてしまいます」 


 沖田は、漫画で言えば頭の周りに無数の?マークが浮かんでいるような、そんな顔をしていた。


「不思議な話ですけど、気付いたんです。中富さんは、兄上は、あたしの先祖でも兄でもなくて、あたし自身だったんだって。だから、男装して新選組に――あの頃はまだ壬生浪士組でしたけど、入隊したんです」


 ここまで打ち明けると、琉菜はなんだか肩の荷が下りたような、心がすっと軽くなるような気分になった。


 もう、ここまでだ。


 琉菜は再び頭を下げた。


「沖田先生。あたしを、脱走隊士・中富新次郎として処断してください。最後まで、ご迷惑をおかけし申し訳ありません」

「道理で中富さんが捕まらないわけだ。でも、わからない……」沖田は琉菜の発言を聞いていなかったかのように、話し始めた。

「だって、中富さんが琉菜さんだって、そうだとしてもそんなの、その二回目のタイムなんとかをした琉菜さんの意志で変えられたはずでしょう?わざわざ男装して入隊して、しかも脱走するなんて、そんなことしなくても、最初に琉菜さんが未来に帰った後の時期になるまでどこかで奉公したりして機を伺うこともできたはず……」


 だって、新選組のみんなに会いたかったから。

 違う。

 あたしは、沖田さんに会いたかった。

 新選組のみんなもそうだけど、あたしは一番沖田さんに会いたかった。



 大好きだから。

 他の誰よりも、沖田さんが好きだから。


「……会いたかったから」


 その一言を発したことで、琉菜は何かのスイッチが入ったように一気に訴えた。


「せっかく来たのに、すぐ会える距離まで来たのに、沖田さんに会わずに過ごすなんて嫌だったんです!だからあたし、日本を変えたいとか、誰かの役に立ちたいとか、そんな男らしい理由で新選組に入ったんじゃないんです。それに、中富新次郎が、無事に逃げおおせるのも知ってたから、自分の知っている通りに中富新次郎になった。それだけです。卑怯でしょう?あたしなんか、最初から最後まで武士でもなんでもなくて、ただ流されて人を斬っただけの単なる人斬りで、でも自分の保身ばっかりで……だから、沖田さん、今のうちに、少しでも刀を握れる力があるうちに、あたしを斬ってください……!」


 琉菜は目をぎゅっとつぶった。が、次の瞬間、琉菜は沖田に抱き寄せられていた。沖田の胸に顔を埋める格好となった琉菜は、どぎまぎしながらも耳元に降ってくる言葉を待つ。


「琉菜さんは、馬鹿ですねぇ。って、思う理由が、二つ。まず。私が琉菜さんを斬るわけないでしょう。経緯はどうあれ、すでにあなたは私の大恩人。斬るなんて、私の士道に反します。それからもう一つ。中富さんに扮したあなたは、脱走して祠をくぐるべきじゃなかった。最初に琉菜さんが帰ってしまった日の翌日にでも、屯所にひょっこり現れたらよかったんです。まあ、こちらとしては拍子抜けはしたでしょうけど、でも、それなら、もっと長い間、一緒にいられたのに」

「沖田さん……?」

「ごめんなさい、こんな責めるみたいな言い方。要するに、私はあなたを何よりも愛しく思っている、ということですよ」



 琉菜は、沖田の腕の中で、体を震わせていた。ぽろぽろと、涙が溢れる。動けない。どんな顔をすればいいのか、わからない。


「沖田さん?嘘……本当ですか?」琉菜は体を離さずに言った。沖田は琉菜を抱く手に力をこめた。琉菜は、夢ではないのだと悟った。体を離して、沖田の目を真っすぐに見た。


「沖田さん、あたし、ずっとずっと、たぶん、初めて会った時から、沖田さんのことが好きでした」

 

 沖田は優しく微笑みかけた。


 琉菜は何が起きたのか一瞬わからなかった。

 唇には今まで味わったことのない感触。


 ああ、そうか。


 甘い柔らかさを感じながら、琉菜はゆっくりと目を閉じて、それを受け入れた。





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