39.頼みごと


 琉菜は、日記に今日の出来事を書かなかった。

刺客が来て撃退したところまでは書いたが、それ以降は、省略した。


 あたしが沖田さんの彼女になったのは、プライベートなことだからねっ。

 後世の人たちに知られてなるものですか。

 ほら、全国全時代の沖田総司ファンを泣かせないためにもねっ。


 などと、都合よく考えることにした。




 翌日。

 母屋の台所で食事の支度を手伝っていたところ、平五郎の妻・サチが不思議そうな顔で尋ねた。


「琉菜ちゃん、どうかしたの?」

「え、どうもしてないですけど」

「そう?なんだか、ご機嫌よさそうだから」

「き、気のせいじゃないですかね。昨日あんなことがあったのに、ご機嫌なわけないじゃないですかぁ」


 あはは、と琉菜はごまかすように笑うと、沖田用のお粥を茶碗によそった。




 膳を持って離れに向かおうとすると、目の前に突然何かが現れた。

 驚いて膳を取り落としそうになったが、なんとか踏みとどまって琉菜は足元に目をやった。

 一匹の黒猫がいた。


 もしかして、この黒猫って有名な……?



 沖田の最期の日々を語る資料や創作には、必ず登場する、黒猫。この平五郎宅にたびたび現れていたという話だ。



 琉菜は凍りつくような思いだった。

 ただでさえ未来の感覚で言えば、なんとなく黒猫=不吉というイメージもある。

 単なる黒猫だ。そう思っても、意識しすぎたのか、琉菜は猫に言われたような気がした。

 そんな顔していられるのも今のうちだ、と。



 わかってるよ。

 今は、今くらいは、幸せを噛みしめたってバチあたんないでしょ?




「沖田さん、おはようございます。朝食です」


 琉菜は声をかけ、襖を開けた。

 改めて、顔を合わせるとなるとどんな顔をしたらいいか琉菜にはわからなかった。


 昨日、あたし、キスしたんだよね?沖田さんと……


 甘い記憶がフラッシュバックする。


「ひゃああ……」声に出てしまった。顔もたぶん赤いだろう。


 琉菜は気を取り直してとばかりにこほん、と軽い咳払いをする沖田に近づいて膳を置いた。


「おはようございます、琉菜さん」


 沖田は、いつも通りだ。今の「ひゃああ」が聞かれてしまっていたのかどうかわからないまま、「食欲はありますか?」と毎朝のルーティン通り琉菜は尋ねた。


「そうですね、少しは」


 沖田が何事もなかったように振舞っているので、琉菜もそうしなければと思い、緊張したもののえいやっと沖田の額に手をやった。体温計の電池温存のためにも、最近はこうしてまずは大まかに熱があるか、ないかを確認しているのだった。判断に迷えば、体温計を使う。


 手が額に触れた瞬間、沖田が反射的に「わっ」とその手を払いのけた。そんな反応をされたのは初めてだったので、琉菜は戸惑って「す、すみません」と謝った。


「いや、謝らないでください。その、なんか変に意識しちゃって……」


 沖田は、今日はなんとなく顔色がよかった。普通の人間なら赤くなるところなのだろう。沖田の場合はもとが血の気の少ない顔色だったのが、一般人並みの色になっている。


 琉菜は、自分だけではなかったのだ、と嬉しくなって「えへへ」と笑みを漏らした。


 あー、今、幸せだ。

 こんな時だけど、あたしは幸せだー。


 時は慶応四年閏四月。

 春は終わりかけ、時々暑いと感じる日もある時期に差し掛かっていた。

 琉菜と沖田に残された時間は、あと二ヶ月である。



***



 あの日以来、特段書くような出来事はなかったが、琉菜は日記を書き続けていた。少しでも何かを残そうと沖田の病状や天気、町で見聞きした戊辰戦争の戦局なども書き留めておいた。


「閏四月五日、と。普通だったら五月五日でこどもの日だけど……」


 この時代使われていた太陰太陽暦には、数年に一回、閏月というものがある。面白いなぁ、などと呑気に考えながら、琉菜は筆を走らせた。


「晴れ。今日は沖田さんの体調も安定。刀の手入れをして、気分転換できたようだ、と」


 思い出すと、頬が緩む。刀の手入れをしている沖田は、こう言ったのだった。



 ――この前みたいなことがいつ起こるかわかりませんし。琉菜さんを死なせるわけにはいきませんから。


 やっぱりあの日から、沖田さん、ストレートな台詞が増えた気がする。

 それとも、単なる感じ方の違いかな?

 今までも言われてた何気ない台詞が、あたしの中にストレートに入ってくるのかも。

 ま、どっちにしてもうれしいからいいんだけど。


 でも沖田さん、あたし決めてるんだ。

 今度あんなことがあったら、あたしが沖田さんを守り通すって。

 あたしがもっともっと強くなって、沖田さんの分も戦うから。

 だから、無理しないで。

 一日でも長く、沖田さんと一緒にいたいから。



 その時、物音がした。


「何?」

 

 琉菜が障子を開けて外を見ると、あの黒猫が去っていくところだった。急に漏れ出した光に驚いたのだろうか。


「また来てたんだ」


 黒猫は昼間も現れていた。それも、刀を手入れし終えた沖田の前に。


 猫を見た沖田は「野良猫かな。久しぶりに見ました」などと呑気なことを言うと、刀に視線を戻した。刀身を高く持ち上げ、上から下まで確認する。

 そして、沖田は勢いよく刀を振り下ろし、切っ先を猫の目の前に突き出した。

 猫は何事もなかったかのように毛づくろいをすると、沖田を一瞬見つめ、眠そうに鳴いた。


 琉菜は確かに、沖田の刀が少し震えているのを見た。


「沖田さん……?」


 沖田はふっと微笑むと、「そうか」と呟いた。


「ねえ、琉菜さん」

「はい」

「……いや、なんでもありません」


 沖田はそう言って刀を鞘に納めるのだった。



 あの時、沖田さんは何を言おうとしたんだろう。

 なんとなく、聞いちゃいけないような、そんな気がしたんだよね。



 琉菜は黒猫のことも日記に書いた。後世に伝わっているのだから、書き残しておこうと思った。


 あの猫、沖田さんの刀を向けられても、全然ひるんでなかったな……




 次の日の朝、琉菜が沖田の部屋に朝食を運ぶと、沖田はいつになく真剣な顔で琉菜をじっと見た。


「琉菜さんは、未来のことを知っているんですよね?」


 琉菜はまたしても例の質問をされると思い、身構えた。ややあって、「はい」と答える。

 

「それじゃあ……私の命日も知ってますよね?」


 思いがけない問いかけに、琉菜はたじろいだ。


 沖田さん?

 どうして、そんなことを聞くの?


「あの……知って……ます。……けど」知らないなどという嘘をついても仕方がないと思い、琉菜は戸惑いながらも正直に答えた。

「いつです?」

「そ、それは……」


 言えるわけない。

 近藤局長の死でさえ、沖田さんがショック受けないようにって黙ってなきゃいけないくらいなのに。

 自分の命日なんか知ったら、ショックが大きすぎる。


「言えません」琉菜はきっぱりと言った。

「……そうですか。それならそれでいいんです」


 沖田はそれから何事もなかったかのように朝食に手をつけた。

 琉菜は食器をあとで取りに来るからと部屋を出た。



 沖田さんは、たぶん昨日これを言おうとしたんだ。あの猫のことで悟ったんだ。

 考えないようにしてたけど、たぶん、もう沖田さんの刀には殺気がない。

 あの時、刺客を倒したのが最後の力だったのかもしれない。


 もう、いよいよ近づいてるんだ。

 あたしには、どうすることもできないの?

 ああ、未来で、もっと勉強して、医大……が無理でも看護学校とか行ってれば、結核の治療に何か役立ったのかなぁ……


 歴史にタラレバはない。歴史は変わらない。そう思い直すと、琉菜はふらふらと井戸端に近づいて、ぺたりと座りこんだ。


 ずうっと前から覚悟してたじゃん。別れが来ることは。

 あたしが動揺しちゃダメだ。

 最後には、笑顔を見せて別れたいから。

 そうなれるように、強くならなきゃ。

 大丈夫。あとひと月以上ある。

 ゆっくりゆっくり、心の準備をすればいい。


 そして琉菜はハッとあることに気付いた。


 ああ、そうか。

 沖田さんも、心の準備をしたいのかな

あたしは、”その日”に向けて覚悟を決める猶予があるけど……もしかしたら、沖田さんも。

 でも、やっぱり本当のことは言えないよ……



 しばらくして琉菜が食器を取りに行くと、沖田は縁側に座ってぼんやりと外を眺めていた。

 琉菜はなんとなく声がかけづらくて黙って食器を片付けようとしたが、沖田が琉菜に気付いて手招きした。琉菜は吸い込まれるように近づいていって、沖田の隣に座った。


「琉菜さん。さっきはいきなり変なこと言ってすみません」

「いえ……」

「こういうのはどうですか。毎朝、その日一日私が生きられるのかどうか、教えてください」


 えっ、と、琉菜は息を飲んだ。同時に、慌ただしく思考を巡らせる。確かに、「何月何日にあなたは死にます」よりは、「今日一日、あなたは生きられますよ」の方がポジティブかもしれない。


 二の句を告げない琉菜を見て沖田は少し微笑むと、ぽつりぽつりと話し始めた。


「安心したいんです。その日一日死なないとわかったら、一日楽な気持ちで過ごせる。死ぬとわかったら、覚悟も決まる。もちろん、京に上ってからは、私はいつだって今日、明日、死ぬかもしれないと覚悟して毎日を生きてきました。剣に生きて、剣で死ねたら本望だし、近藤先生の盾になって死ねればこれ以上のことはないと思ってきました。だから、死を恐れるなんてことはありませんでした……でも」


 沖田は、左手でそっと琉菜の頬に触れた。


「琉菜さんに思いを告げてしまったから、琉菜さんも、私のことを思ってくれてると知ったから、この世から離れがたくなってしまいました」

「沖田さん……」


 琉菜は、胸がきゅうと締め付けられるような心地がした。幸せだけれど、悲しい。


「有り体に言ったら、死ぬのが怖くなったってことですね。もう、私は武士ではないのかもしれません」沖田は、ぱっと笑顔を見せた。その笑顔が、意図的に作られているのだと、琉菜は感じた。

「大丈夫です。沖田さんは武士の中の武士です。それだけは、あたしが保証します」

  

 琉菜は、沖田の手を握って「でも」と続けた。


「もう、いいんじゃないですか。沖田さんは、武士だけど、もう鬼でも狼でもありません。無理に強くいなくちゃとか、死を恐れないとか、そういうのは、もういいんじゃないですか。これからは、沖田さんのやりたいように過ごしてください。弱いところだって、どんどん見せてくれて構いませんから」


 沖田は少し驚いたように目を丸くした。


「ありがとう。琉菜さんには敵いませんね」

「それはこっちの台詞ですよ」

「……それで、どうなんですか?教えてくれますか?」


 琉菜は、頷いた。


「ただし、条件があります」


 そんなことを言われるとは予想外だとでも言わんばかりに、沖田は「何ですか?」と尋ねた。


「えーと……いや、やっぱりいいです」

「なんですか、気になるじゃないですか」

「いや、その恥ずかしいというかおこがましいというか……」

「余計気になりますよ。怒らないから言ってください」


 琉菜は沖田から目を逸らし、地面に視線を落としてつぶやいた。


「琉菜って、さん付けなしで、呼んで……欲しいです」


 顔を上げると、どぎまぎしたような沖田が視界に飛び込んできた。次の瞬間、沖田はがばっと琉菜を抱き寄せた。


「る、琉菜……」

「ちょ、沖田さん、そんなぼそっと、顔も見ずに!ずるいですよ!」

「仕方ないでしょう。琉菜さ……琉菜が、あんまりその……可愛らしいから……」


 琉菜は今自分の顔は真っ赤だろうと思った。そして、沖田もきっと顔を赤くしているんじゃないかと思った。照れ臭いのをごまかすように「ふふふっ」と笑うと、


「沖田さん、大好きです」


 口をついて、言葉が出た。

 沖田はそれに応えるように、琉菜を抱く腕に力を込めた。

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