ベースボール波乱

古新野 ま~ち

第1話

波乱とは限定された空間や関係を想定している。ビルの倒壊は大事故であるが人知れぬ森の土砂崩れは誰も気にしない。将棋やチェスのようなものでは駒がプレーヤーによってコントロールされている、その中での攻防のみがゲーム性を高め数多の人を魅了する。長距離弾道ミサイルやスナイパーや対戦相手の暴力行為によりゲームが左右されることはないが、その制御された安定な世界は霧散する。故にゲーム内における恐慌には波乱盤上という言葉ができた。嘘である。


瞬く間に焼き上がったイカ焼きをパックにつめて店内に出すよう指示するが御角野乙美は上の空である。イカの焼ける悲鳴に似た断末魔にも聞こえるそんな音を鉄板の上で奏でている。


「というか、こんなの誰が買うんですか。イカ焼きっていってもほとんど卵とだしのはいった粉じゃないっすか」

「僕に聞かれても困りますよ、発注したのは部門長かあるいは強制ですし」

ペタンペタンとヘラで叩いてうがぁと獣のような欠伸のような声をあげる。

「退屈なんよぉ。あんたみたいな木偶の棒が集まったところかと思ったら残念なほどまともな人が多いし何より作業が多い。わりにあわん」

安須さん、と僕を呼ぶのはハラダさんだ。彼女は朝のうちから夕方までパート勤務してくれているありがたい方である。

陳列していたオードブルが崩れて見映えが悪くなっていると河内あたりの舌が丸まったまま発音する語調でいう。 下げておいてください、了解です。

「さっき爺さんが持ち上げようとして手を滑らしとった」

「見てたなら言ってくださいよ」

イカ焼きの値つけが終わったようだ。

「オードブルをやってみるのも暇潰しになるかなって思ってん」


松坂の調子はどうかとシラカワさんがミシマさんに聞く。ミシマさんは微妙だと思うと答える。ハラダさんがあれほどニュースで取り上げていたにも関わらずですかとペットボトルの茶を飲みながら会話に参加する。ミシマさんは私にはこの不調が予測できていましたと返すがシラカワさんに嘘をついてはいけないと笑いながら咎められていた。

「この人らはなんの話してんの」

耳もとで乙美がささやく。

「野球の話やな。松坂っていうかなり有名がいてその話」

「野球は知っとるけど、そんなにおもろいんか」

「僕は観てへんから知らんな」

乙ちゃんは野球を知らないのかな、とミシマさんは笑顔になった。高齢な男性の徴である持論癖が備わっている。その癖は主に彼が携わる水産つまり魚の事情、政治ただし与野党両成敗的視点、そして野球しかしセ・パリーグに限る、で発露する。奈良は香芝市の住宅地で育った彼の語尾あたりに嘲笑を加えたような言葉使いが乙美には耐え難いようだった。女の子なので仕方ないでしょうと結論ずけたシラカワさんが乙美を擁護するかのように言う。


休憩室に備え付けたテレビは東京のレストランを紹介している。ぼんやりと眺めるがほとんど頭に残らない。僕の生きている水準のようだ。

女の子とはいえ今後男性と会話するタネになるから野球とオリンピックくらいは押さえておいて損はないですよとハラダさん。

13時になると彼女たちより遅く休憩に入った僕たちだけになった。

「んで、野球ってどんな感じなん」

「YouTubeでよければ」

松坂 甲子園 と検索して彼が有名になった所以を物語るバラエティー番組の映像を流した。

「で? なんで彼らは暑いところで熱くなる運動をやってるの」

「そういうもんやからとしか言えへん。理由とかしらんし」

乙美はたいへん愉快そうだった。


育った街には小さな野球場があった。小さくとも高校野球の奈良予選はここで開かれていた。父は幼い頃に贔屓だった南海ホークスから今となっては福岡の精神柱となったホークスだが昔は大阪の弱いチームで王さんは生卵をぶつけられるほどだったと事あるごとに思い出しては懐かしむ彼が、面倒ではあるが懐かしむものがあることに羨望した。

終業後最寄りのコンビニでスポーツ紙を買い今の野球について調べ始めた。


翌日、テレビでイチローが記者会見していた。どうやら今シーズンからは選手として活躍しないことを決めたらしい。

「乙美のせいか?」

「ウチはまだ何もしてな

い」


休日テレビを観ていた。目を覚ました時間の情報バラエティーはモーニングバードであり、羽鳥アナウンサーが困惑を隠しきれない様子で野球界に激震がおこったと伝えている。他局のとくダネも同様だった。

なんと女性のプロ選手がセ・リーグのいや日本野球界の元締めたる巨人軍に入団したのだ。選手の名は「御角野乙美」背番号は1番であり父のような人々の感傷を踏みにじるに等しい行為であった。しかし、入団会見の中継が行われた11時以降は誰も気にしなくなったのかバイキングでさえ淡々と伝えているのみだ。坂上忍も非常に落ちついた様子であった。

「まあ皆さん何も気にしないでください」との一言から始まった異例の会見はテレビでは朝以降、編集され2分以下となって放送された。


彼女に愛称がついた。一昔前なら「美人すぎる野球選手」だが「オツちゃん」と言われていた。このことで後に中年男性を指し示すオッちゃんに似たイントネーションが嫌やからやめたと証言することになる。ネットではオツちゃんが、小津ちゃん、O2ちゃん(酸素の元素記号)、お通ちゃん(漫画『銀魂』の登場人物)、お通じちゃんといったスラングが生まれた。

翌日、休憩室ではミシマさんとヨネザワさんが会話しているところに闖入する形となった。そのとき行われていた会話というのが、乙美ちゃんがプロ選手になってて非常に驚いた。私も驚きました。歴史が変わった気がしたんですけど、今まで女性がいなかったのがおかしのですよね、そうですね私たちの職場ならとうの昔に女性が大部分です、間違いないです。


セキグチさんとヤナシタ店長はうちのバイトからこれほど有名な人が出てきて身内のことのように嬉しいとのことだった。大学生のアルバイトであるサカキバラくんは乙美さんとの写真でも撮っておけば合コンの掴みとして完璧だったのにと歯噛みしている。


乙美は素晴らしい成績をおさめた。打率は前人未到の7割である。当たればホームラン、当たらなくても三塁打確定、塁に出られなかったときは乙美が「面倒だから三振にしといて」という注文が通ったときか「家帰るから後全部三振にしといて」の要望が通ったときである。そんな時はマウンドでは呆然とした投手がロージンを勢いよく叩きつける。

乙美はどのようなアイドルでさえかなわないほどの魅力を備えていたようで男性ファンが球場におしかけた。巨人スタンド阪神スタンドそしてバックスクリーンを中心に展開される乙美スタンドである。乙美スタンドの特徴としては乙美が打席にたつと近隣住民の心臓がとまってしまうかもしれぬほどの声援が送られる。応援のあまり喉から血を流すファンも多く乙美スタンドはいつも血まみれになるそうだ。また白濁液も流れる。男女問わずに魅了する彼女はプレー中にも幾度となく事件を起こした。


その1、投手勃起事件。打席にたつ前の乙美がバットをにぎりしめて躍動感のあるスウィングでイメージをかためる。そのとき大きな膨らみをもつ乳房がふんわりと揺れる。

おそらく阪神中日広島DeNAヤクルトという第一線で活躍する投手の性的事情は会社員である僕のそれとは比較できないほど豊穣なものだと推察される。しかし、彼女の素振りを目にするとユニフォームを突き破る(正確にはファスナーを壊す)ほど勃起してしまう。人によっては精液が垂れ流れてしまいそれが全国中継されてしまう。そのときテレビの前にいた男性諸兄はほぼ全員パンツの中が濡れてしまったらしい。故にその映像についてはネットの中のみで騒がれただけであった。


その2、予告ホームラン事件。

もはや漫才などのお笑いでしか行われないバックスクリーンにバットを向けて投手の気分を逆撫でる予告ホームラン、彼女はそれを絶対に行いホームランを打つ。しかし1度だけ予告ホームランを打てずファールボールになってしまった。彼女にも失敗があるのかと全員が優越感に浸ろうとした。しかし、驚くべき事が明らかになった。ファールボールの飛んでいった先にはとある人物がいた。その人はスマホに気をとられすぎてファールボールに気がつかず頭に直撃した。気を失ったためすぐに病院へ搬送された。意識は戻ったものの彼は入院をすることになった。

そもそも、彼が頭に攻撃をくらう理由はなんだったのか、それはスマホのなかにあった。彼がTwitterでお通じの打席(笑)と書き込んでいたところであった。



翌月、何事もなかったかのように乙美は出勤した。その日、目をさましたら枕元に彼女がいたのだ。

「巨人はどうしたん」

「テレビ観たら? 退団がニュースになってるで」

御角野乙美選手が巨人軍退団を決定がそれなりに騒がれていた。そして高橋監督を囲んだ取材陣が代わる代わる質問を投げ掛けているが彼の虚ろな目を見るとこのような事態に巻き込まれたことに同情するしかなかった。

職場の休憩室では狂乱という他ない事態となった。久しぶりやねぇ、と愛想よくミシマさんに言う乙美にたいして彼は何も言えなくなっていた。野球について、元プロに何を言えばいいのか分からなかったうえに最終成績は打率6割、本塁打30、打点48、といったものであった。

「でもさ、野球って参加しても何かが変わるわけでなかったんよ」

「へぇ、なにか目的があったみたいな言いっぷりですね」


後日、とある球団のスタメンが発表された際、多くの人がもはや疑問にも思わず、しかしテレビやラジオではしっかりと放送された。

1番遊 ティラノサウルス、2番左 雷電爲右エ門、3番右 ウルトラマンタロウ、4番投 柳瀬早紀、5番補 マウンテンゴリラ、6番中 千手観音、7番一 イチロー1、8番二 イチロー2、9番三 イチロー3、監督 スティーブン・スピルバーグ


ティラノサウルスとウルトラマンタロウという少年たちの夢を叶えつつ故人の力士が蘇生した奇跡と仏の奇跡に動物の力と三人のイチローがタッグをくみIカップグラビアアイドルがフォトジェニックな肢体を魅せる。そしてバックスクリーンでは人類の遺産にも等しい映画が流れている。

「なにこれ」

「飽きたからこんなので適当に片付けておきたくなった」

乙美はお気楽な妖精なのであった。

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ベースボール波乱 古新野 ま~ち @obakabanashi

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