第17話 裏切りと涙
「んっ…」
ウーロン茶の入ったグラスを口元に持っていく。中身を乾燥した喉に流し込む為に。
「え~と、久しぶり」
「そうですね」
「元気……だった?」
「……まぁ」
すぐ目の前には2ヶ月ぶりに顔を合わせる人物が存在。ソファの上に体育座りしている元後輩がいた。
「ん~…」
鬼頭くんに誘われて家に遊びに来たのに何故かその本人は外へ。1人取り残されて狼狽えていると優奈ちゃんが声をかけてきてくれたのだ。
「そういえばもう夏休みだね。そっちの学校も?」
「はい。怠惰な日々を過ごしています」
「最近暑いよね。もう外に出るのが億劫でさ」
「私はクーラーの効いた涼しい部屋に1日中いるので暑さを感じていません」
「ふ、不健康すぎやしませんかね。それ…」
空気が微妙に気まずい。ケンカをした訳でもないのに見えない隔たりが存在。
「最近どう? 何か変わった事とかあった?」
「いえ、まったく。新しいバイトも見つけてないですし」
「なかなか良い条件の場所って無いよね。学生は特に」
「というより探してないんです。やる気が起きなくて」
「そ、そうなんだ…」
以前に鬼頭くんに聞いていた通り彼女からは覇気が感じられなかった。オーラが完全にゼロの状態。最初は暗い室内にいるせいかと思っていたがそうではなかった。
「先輩はまだバイト続けてるらしいですね。恵美から聞きました」
「特にやめる理由もないからね。とりあえず高校いる間は続けようかなと」
「はあぁ…」
会話中に溜め息が発生する。部屋の空気を更に重い物へと変化させる仕草が。
「そういえばお兄ちゃん遅いね。どこまで行ったのかな」
「地獄じゃないですか」
「どうしたんだろう。何かトラブルにでも巻き込まれたとか」
「もういっそこのまま帰って来なければ良いのに」
「それは色々と困るような気がするんですが…」
話が上手く噛み合わない。彼女から返ってくる答えは全てこちらの思惑を打ち砕くような内容だった。
「……先輩は自分の人生楽しいですか?」
「へ? さ、さぁ。どうだろうね」
「ん…」
「どうしていきなりそんな事を聞くの?」
「意味はありません。何となくです」
「そ、そう…」
話題を模索していると相手から質問を振られる。中身のない問い掛けを。
ご両親は揃って外出中らしい。夏休みとはいえ平日だから仕事なのかもしれない。
「紫緒さんってなかなか面白い人だよね。騒がしいけど慣れると楽しい子だ」
「あの子、基本的にお馬鹿ですからね。元気なのが唯一の取り柄なんです」
「最近も毎朝一緒の電車で登校しててさ。うちの妹達とも仲良くなっちゃって」
「……それは良かったですね」
「あっ…」
咄嗟に手を口元に移動。失言をごまかすように慌てて塞いだ。
「え~と……優奈ちゃんは夏休みの予定ってある?」
「1ヶ月間、一度も外出しない耐久レースにチャレンジする予定です」
「や、やめようよそれ。体に悪すぎ」
「もう私には他にする事が残されていないので」
「じゃあどこか遊びに行こうよ。せっかくの夏休みなんだからさ」
「遊びに……ですか」
話を露骨に切り替える。断られるのを覚悟して。
「そうそう。海とか山とか遊園地とか」
「えっと…」
「プールとかも良いかも。涼しくて気持ち良さそう」
「……プール」
「女の子の可愛い水着姿とか拝めるかもしれないしね、あはは」
「むぅ…」
冗談めかしで高笑い。だが目の前にいる人物はクスリともしていなかった。
「ご、ごめんなさい…」
「どうして謝るんですか?」
「……なんとなく」
へこんでいる後輩を励まそうとしたハズなのに。自身にダメージを蓄積しただけで終了してしまった。
「私なんかと行っても楽しくないと思いますけど…」
「そ、そんな事ないって」
「プロポーションも悪いですし。水着を着ても子供にしか見えないので」
「別に構わないよ。胸が小さくても平気平気」
「……そうですね。背も小さいし胸も小さいし器も小さいし、ダメダメですね」
「すいませんでしたぁあぁぁっ!!」
彼女が膝を抱えて顔を埋める。その姿を前に土下座して必死に謝罪した。
「なら遊園地は?」
「この時期はどこも混雑してると思いますよ」
「それは仕方ないって。人混みにウンザリするとしても家に引きこもってるよりずっと有意義だと思う」
「でも先輩の妹さんに悪いですし…」
「良いよ、そんな事いちいち気にしなくても。黙ってたらバレないもん」
もし華恋に外出現場を発見されたら怒られるだろう。けれど悪事を働いてる訳ではないのだから堂々としていれば良い。
「先輩は良い人ですね。私なんかの為にわざわざ気を遣ってくれて」
「そんな事ないよ。ただ最後の夏休みだから全力で満喫したいんだ」
「なら私なんかより他の人達と遊ぶ事をオススメします」
「優奈ちゃんとどこかに行きたいんだよ。バイトしてないなら大抵の日は暇なんだよね?」
「まぁ、そうですね…」
抵抗する意見をはねのけ遊びの約束を取り付ける。半ば強引に。
それからしばらくして鬼頭くんも合流。家を出てから1時間以上も経過しての帰宅の原因は立ち読みだった。
3人になった後は適当にゲームで遊び、夕方頃に退出。駅前の本屋に立ち寄ると雑誌を1冊購入。夕焼けが綺麗な住宅街を歩いて帰った。
「ねぇ、そろそろ泊まる場所予約しようよ」
「そうだね。行き当たりばったりでも良いけど、やっぱり確保しといた方が安心だもんね」
「ん? 何読んでるの?」
「レジャー雑誌。どこか良い遊び場はないかなぁと」
「へぇ、珍しいじゃん。私はどこでも良いよ、雅人が一緒なら」
「……誰が君と行くって言ったんですかねぇ」
晩御飯を済ませた後は華恋と2人して部屋に籠る。旅行の打ち合わせの為に。
「はぁ? じゃあ誰と行くって言うのよ」
「えっと……颯太」
「ふ~ん、男2人でプールや遊園地ねぇ」
「べ、別に良いでしょ。たまには男同士、友情を深め合ったって」
「ただ遊びに行くだけならね。でも目的は別にあるんでしょ?」
「別の目的?」
発言の不自然さを彼女が指摘。伸ばした指で顔を指してきた。
「アンタ達の目的はずばりナンパ。女の子と出逢いたいだけでしょうが!」
「はぁ?」
「それ以外に考えられないわ。じゃなきゃわざわざ男2人で遊園地とか行くハズないもんね」
「え? え?」
「あのバカが一緒だもん、間違いないわ。その時は私も付いて行くから」
「あ、あの……本当にただ普通に遊びに行くだけなんですが」
「んなもん、そうですかと素直に信用する訳ないでしょうが。怪しい行動は全て取り締まる」
妙な流れに突入する。予想を遥かに下回る勘違い路線に。
「どうして訳わからない解釈するんだよ。華恋だって友達と普通に遊びに行ったりするじゃないか」
「……絶対にナンパとかしない?」
「しないって。そもそもそういうタイプじゃないじゃん」
「ま、まぁ…」
「それにナンパ目的で行くならこうして雑誌読んでる所なんか見せないし」
「言われてみたら確かに…」
女の子と遊びに行くのだから声かけなんかするハズがない。そんな真似をしても可愛い後輩に愛想を尽かされるだけ。
「なら我慢する…」
「ふぅ…」
本心はごまかしつつ理屈で華恋の主張を封殺。この日はおおまかな行き先を決めて宿泊先を予約をした。
「元気?」
「暑くてダルくて死にそう…」
「だらしないなぁ。そんなに苦しいならクーラーつければ良いのに」
バイトが休みの昼間、知人宅を訪れる。団地で母親と2人暮らししている友人の家を。
失恋のショックを引きずっているのか彼女は未だに落ち込んだまま。どこかの引きこもりな後輩と同じような言動を連発していた。
「お母さんが節約しろってクーラーの温度上げるのよ。扇風機は壊れちゃってるしさ」
「確かに蒸し暑いね。この部屋サウナじゃん」
「でしょ? だから毎晩死んでるってわけ」
「どうやって蘇生してるの?」
ただ血色はさほど悪くない。へばっていても食事はしっかりとしているらしい。
食欲が湧くだけマシだろう。何も口に入れなかったら本当に餓死してしまうから。
「智沙って夏休み中、暇?」
「あぁん? 何で?」
「いや、予定ないならどこか遊びに行かないかなぁと」
「は?」
友人が床に大の字で寝転がったまま睨み付けてくる。磔にされたガリバーのように。
「……急にどうした。暑さで頭がやられたのか?」
「違うよ。皆でって意味」
「あぁ、なるほどなるほど」
「別に良いでしょ。高校生、最後の夏休みなんだもん」
「そうか。あと半年で卒業だもんね…」
言葉にすると嫌でも意識せずにはいられない。もう少しで今の生活とはお別れなんだという事実を。
憂鬱な気分を吹き飛ばしたいのか彼女は突然の提案を快く了承。ついでに幹事を任せてきた。
「ケータイ見せて」
「い、嫌だよ!」
「ほれ、早く」
「ちょっ…」
帰宅してから自室で謎の攻防戦を繰り広げる。猜疑心に塗れた華恋と。
「怪しい。いつもなら隠そうとしないのに」
「たまたまだよ。疑いすぎだって」
「絶対女の子と会話してるんでしょ。やましい事がないなら見せなさい」
「だから嫌だって言ってるじゃないか。どうしてそこまで人の私生活に介入してくるの? 嫁じゃあるまいし」
「……よ、嫁っ!」
追及に対して毅然とした態度で対応。何故か彼女の顔が真っ赤に変色してしまった。
「なら履歴だけ確認させて。そしたらすぐ出て行く」
「ゲームやってるから駄目なんだってば。接続切らないといけなくなるでしょ?」
「む~……本当に女の子と会話してないの?」
「してないってば。しつこいね」
咄嗟に嘘をつく。視線を逸らしながら。
「絶対の絶対?」
「……うん」
「信用しても良いの?」
「あ、当たり前じゃないか」
「ならもし嘘だったらどうする?」
「えぇ…」
要求がおかしい。まず自分が女の子と連絡を取り合っていたとしても何も問題は無い。前提が間違えていた。
「ねぇ、もし今の言葉が嘘だったらどうするの? 何かしてくれるの?」
「お、お風呂入って背中流してあげます」
「えっ、マジで!?」
「あ、ごめん。やっぱ嘘」
「よ~し、約束したからね。忘れないでよ」
「ひいぃ…」
口は災いの元を実行してしまう。場を繕おうとした発言が仇となってしまった。
「分かった。そこまで言うなら疑うのやめる」
「ふいぃ…」
「追及しすぎて嫌われたら元も子もないし」
「嫌いになんかならないよ。例え喧嘩したとしてもさ」
「私は……分かんないかな」
「え?」
「もしかしたら嫌いになっちゃうかもしれない。雅人の事とか、この家の事とか全部どうでも良くなっちゃって」
会話中に思いがけない言葉が耳に入ってくる。不意を突くような台詞が。
「時々思うんだ。歳を重ねて大人になって、その時に私は何をしているんだろうって」
「大人…」
「それを考えたらどうでもよくなっちゃう時があるの」
「変な事言わないでよ……縁起でもない」
「雅人はどう? ない? 自分の将来を想像したら投げやりになっちゃう時」
「そりゃあるけどさ…」
周りでは否応なしに受験やら就職やらの単語が氾濫。うんざりする事が度々あった。
「私は大人になる事が怖い。今のままがずっと続いてほしいって思ってる」
「無理だよ、時間は誰にも止められないんだから」
「雅人もいつか私の前からいなくなるのかなって。そう考えたらどうでもよくなっちゃう時があるの」
「この流れで脅すのやめよう。何も出来なくなっちゃう」
「違うって。別にそういうつもりじゃないから」
反論する意見に更に反論を重ねられる。声のトーンから察するに嘘偽りないであろう本心で。
「幸せになれるかな、私も」
「なれるさ。頑張れば」
「……ねぇ」
「ん?」
「絶対に私の事、裏切ったりしないでよね?」
「うん…」
いつの間に賑やかだった空気が穏和な物に。肯定の返事を聞いた華恋は安堵した表情を浮かべて部屋を出ていった。
「ふぅ…」
1人になると椅子に腰掛ける。頭上にある天井を見上げながら。
「兄妹か…」
今は同じ家で暮らすただの家族。けどいつかはその関係も変わってしまうのだろう。
どちらかが自立した時か。もしくは親しい異性を作った時か。それはいつになるか分からない。ただ不確定な妄想より遥かに近い現実だった。
「……バカだなぁ、本当」
華恋の言葉を否定しておきながら自身も過去に依存。現状維持を心の底から望んでいた。
強気な態度でいられたのは彼女の気持ちが他へ向いてしまう事なんか無いという思い込みのせい。本心なんかではない。
「ん…」
ずっとこのままでいたい。華恋と今の関係のままでいたい。恋人にはなれなくても破綻させるような真似だけはしたくない。
「仕方ないか…」
だとするならば裏切るような行為は避けるべき。進め始めた計画を撤回する決意を固めた。
「はあぁ……動きたくない」
「もう昼だよ。いい加減起きなって」
「だって暑いもん。起きたくないもん。動きたくない」
「怠け者の見本みたいだ…」
バイトの無い暇な日。団地住まいの友人宅を再び訪問する。
相変わらず彼女は物ぐさな日々を過ごしているらしくパジャマ姿に寝ぼけ眼な状態。とても男を部屋に上げているとは思えない様相がそこにはあった。
「雅人、お茶」
「どうして客に頼むのさ。喉が乾いたなら自分で持ってきなって」
「あんたねぇ、アタシが水分不足で体調崩しちゃっても良いっていうの? えぇ!?」
「本当に最近ワガママ度が増えてる。まるで颯太みたいだ」
「ふざけんなっ! あんな遅刻サボり魔スケベ野郎と一緒にするな!」
「そこまで言わなくても…」
部屋主がダラダラと布団から起き上がる。大胆にもヘソを露出した格好で。
「あぁ~ん、眠い眠い。死ぬまで寝てたいよぉ」
「不規則な生活は体に毒。休み明けとか辛くなるし」
「あんた、アタシの代わりに学校行って来てぇ。ついでにトイレも行って来てぇ」
「暑さで頭がイカれてしまったか…」
仕方ないので伸ばした手で肩を固定。そのまま激しく前後に揺さぶった。
「うへぇ、あへぇ…」
「なんて声を出すんだか。もう目覚めたでしょ?」
「はあぁ……せっかくウトウトしてたのに。起こしやがって、バカバカバカ」
「どうせ暑さで目覚めてたクセに。ほら、早くトイレ行ってお茶飲んできなよ」
「ちっ…」
友人がようやく重い腰を上げる。ヨタヨタと部屋を出ていき、しばらくするとグラスを片手に帰還した。
「かーーっ、ガラガラの喉に流し込む麦茶は最高だ!」
「オッサンみたい。それで話なんだけどさ…」
「アタシ、遊園地かプール行きたい。動物園や水族館は見るだけになっちゃうからハシャげる場所で」
「な、なるほど…」
提案を無かった事にしようと考えていたのに。返ってきたのはかなり積極的な答えだった。
どうやら失恋の気持ちはある程度吹っ切れたらしい。ダルいのは夏バテの影響だった。
「出かける日は雅人がバイト休みの日でしょ? 日程は任せるわ」
「な、なら決まったら電話する。最悪、前日に連絡でも大丈夫?」
「おっけぇ。どうせ大した用事もないし」
「ん、ならそうするね。水着買いに行くの面倒だから遊園地にしようかな」
「プールならアタシの水着姿が拝めるわよ。本当に遊園地で良いの?」
「あ、大丈夫です。間に合ってますんで」
面子が友人と妹2人。水着姿なんか見ても欲情しない自信がある。気まずくはなりそうだが。
「まぁ、いいか…」
流れで予定を組んでしまったが仕方ない。皆で遊びに行くのだから華恋だって怒ったりしないハズだ。
問題はもう1人の方。友人宅を出た後、電車に乗って後輩の家へとやって来た。
「わざわざ暑い中お疲れ様です」
「あの……お兄ちゃん、また出て行っちゃったんだけど」
「え? うちには兄なんていませんよ」
「いやいや…」
訪問直後に鬼頭くんに出迎えられる。用件を伝えると前回同様に中へと案内。しかし何故か入れ違いに外出してしまったのだ。
「また本屋かな。立ち読みしに行ったとか」
「本気でそう思ってます?」
「……理由はともかく時間を潰せる場所には行ってると思う」
恐らく気を遣って姿を消してくれたのだろう。2人きりの時間を設ける為という動機で。
「えっと、前に言った遊びに行く話の事なんだけど…」
「どこでも良いです。うちにあまりいたくないので外に出られるなら屋外でも屋内でも」
「あれ? でも前は家に引きこもってたいって言ってなかった?」
「あのバカ兄とずっと自宅で過ごしているうちに考えが変わりました。家にいたくないです。外に出たいです」
「それは良かった…」
「ですから遊びに行く場合は兄を誘わないでください。どうか宜しくお願いします」
「りょ、了解」
目の前の人物が丁寧にお辞儀。クッションをお腹に抱えながら頭を下げてきた。
「それでどこに行くんですか? 山とか涼しそうですよね。避暑地とか」
「山か……ちなみに無理やり誘っちゃったけど大丈夫? 本当は別に予定があるとか」
「大丈夫ですよ。かなり暇ですから」
「そっか…」
ここまでハッキリ言われたら今更無かった事になんて出来やしない。2人共あんなに乗り気じゃなかったのに。なぜ計画を中止させたくなったタイミングでやる気を出してくるのか。
「山に行くなら電車に乗って……軽く見積もっても2時間以上はかかっちゃうかな」
「山に行くのは良いんだけど何するの? ただ行くだけ?」
「そりゃあ美味しい物を食べたり、高い場所からの綺麗な景色を眺めたり。いろいろ出来ますよね」
「熊とか出ないかな。蜂とかブンブン飛び回ってそう」
「ならやっぱりやめときますか?」
「そうだね、そうしよう。移動に時間もかかるみたいだし」
悩んでいると彼女の口から思わぬ台詞が発信。意気込んでその提案に乗っかった。
「じゃあ先輩が前に行ってた遊園地みたいなレジャー施設とか」
「ゆ、遊園地系はちょっと…」
「……なら海かプールですか」
「どうして顔赤くしてるの?」
「いやぁ、それはだって…」
まだ水着になる事に抵抗があるのだろうか。そんな事をいちいち気にしていたら何も出来やしない。ただこの予定をキャンセルしたい人間にとっては好都合だった。
「やっぱり外出自体やめておこうか。どこに行っても人が多そうだし」
「え…」
「ダ、ダメですかね。アナタ様が乗り気でない気がしたのですが…」
「……分かりました。なら我慢して水着になります」
「いや、あの……え?」
話が通じていない。微妙な齟齬が発生していた。
「べ、別に無理しなくても良いんじゃないかな。肌を露出したくないならさ…」
「でも私がそんなワガママ言ってたら、せっかく誘ってくれた先輩に悪いし……それに出掛けられなくなるのはもっと嫌だし」
「そ、そうなんだ」
「だから平気です。先輩の行きたい場所を好きなように選んでください」
「……はい」
行き先の選択肢を一方的に与えられる。その素直さに呼応して思わず首を縦に振ってしまった。
「はぁ…」
話し合いを終えた後は真夏の尋常じゃない暑さの中を歩く。途中で購入した棒アイスで体温調整をしながら。
結局、鬼頭くんとは会わず終い。どうやら徹底的に気を遣ってくれているらしい。
「う~む…」
帰宅してからは洗面所で顔を洗い自室に直行。床に正座してこれからの行動を思案した。
「どうしようなぁ…」
無効にしようにも相手は既に行く気満々だし、上手く断れる理由が思いつかない。だが行けば華恋は確実に激昂する。
怒られる事は怖くない。傷付けてしまう展開を危惧していた。
『絶対に私の事、裏切ったりしないでよね?』
「ん…」
淋しそうな表情で告げられた言葉が何度も思い浮かぶ。再生と巻き戻しを繰り返した映像のように。
「……あ~あ」
まさか自分が女性関係で頭を悩ませる日が来るなんて。数年前の環境からは想像も出来なかった。
「黙って行っちゃおうかな…」
考え付いたのは一番楽で手っ取り早い方法。成功すれば誰も悲しまなくて済む作戦。
「いや、ダメだ…」
彼女は勘が鋭いから必ず気付く。後ろめたい事をしていないのなら毅然とした態度を貫くべきた。
「……やっぱりちゃんと話そう」
全てを打ち明けて許可を貰い、その後で遊びに行けばいい。それなら彼女を騙す事にはならない。
女の子とデートするのに家族の許しが必要というのも滑稽な話。けどうちの妹はそうしないと納得しなかった。
「ん?」
「あ、下りるとこだったんだ。ゴメン」
「悪い悪い」
あれこれ思考を巡らせながら廊下を歩く。そして階段までやって来たタイミングでバッタリ本人と遭遇した。
「二階に何か用だったの?」
「暇だったから雅人の部屋に漫画借りに行こうかと思って。ついでに様子を見ておこうかと」
「あぁ、なら好きなの持って来なよ。勝手に漁って良いからさ」
「うぅん、やめとく。雅人はどうして下りてきたの? トイレ?」
「え~と、華恋に話があって」
「私?」
一階までやって来た所で会話を開始。濁さずに用件を切り出した。
「暇なんでしょ? ちょっと部屋行こ」
「まぁ良いけど…」
不思議そうな表情を浮かべる妹を引き連れ移動する。彼女の私室になっている客間へと。
「で、話って何?」
「あぁ、うん。そういえばもうすぐだね、旅行」
「……そうね。雅人はもう準備した?」
「いや、全然。まだ何の支度もしてないや」
「そっか…」
クッションを借りて壁にもたれかかった。窓を開けて縁側に腰掛ける相方を横目に。
「話って旅行の事?」
「違うよ。え~とさ、今度みんなで遊園地に行かない?」
「遊園地?」
「うん。智沙と2人で話してて最後の夏休みの思い出にどこか遊びに行かないかって流れになって」
計画のいきさつを大雑把に説明する。友人の失恋の件は伏せて。香織にはまだ話していない事と、ハッキリとした日付も決まっていない事。自分達だけで勝手に進めてしまった予定を簡潔に伝えた。
「良いじゃん。皆でお出掛けとか楽しそう」
「でしょ?」
「最近なんか怪しいと思ってたらそういう事だったのね。隠さずに私にも教えてくれたら良かったのに」
「……はは、そだね」
窓からセミの鳴き声と共に生暖かい風が入ってくる。クーラーのついていないこの部屋はジメジメした。
「そっかぁ。楽しみだなぁ」
「あ、あの……もう一個話があって?」
「ん?」
「女の子とお出掛けとかしたらダメですかね?」
覚悟を決めて次のテーマを持ち出す。今回の協議の最重要課題を。
「女の子…」
「成り行きで一緒に遊びに行く事に。といっても誘ったのはこっちなんだけど」
「誰? 私の知ってる子?」
「知ってる……っちゃあ知ってるかな。一応会った事はあるし」
「……あの後輩の子?」
「うん、まぁ…」
自分にとって後輩は該当する人物が2人存在。だが指摘されたのは優奈ちゃんの方なんだろうと何となく悟っていた。
「い、行っても良いかな?」
「何が?」
「だから、その……遊びに」
「む…」
場に不穏な空気が流れる。居心地の悪い空気が。
「……あれからも連絡取り合ってたんだ」
「違うって。鬼頭くんに誘われて家まで行ったらたまたま会っちゃったんだよ」
「ふ~ん…」
「本当だって。それまで一度も連絡なんか取り合ってないから」
「たまたま再会した子を突然デートに誘ったんだ。人見知りのアンタが?」
「そ、そうだよ」
別に間違えた事は言っていない。嘘だってついていなかった。
「そっか。いつの間にか大胆になっちゃったわね」
「そうでもないけど…」
「初めて知り合った時は私に対してもオドオドしてたのに。気付かないうちに積極的になっちゃって、まぁ」
「いや、今でも人見知りは治ってないよ。初対面の人には緊張して上手く話しかけられないもん」
「でも女の子はデートに誘えるようになりましたよ、と」
「……何が言いたいのさ」
皮肉めいた発言が飛んでくる。嫌味とも牽制ともとれる台詞が。
「どうやって誘ったわけ?」
「一緒にどこか遊びに行かないって。せっかくの夏休みだし」
「本当に雅人の方から声かけたの?」
「そうだよ。最初は拒否されちゃったけどね」
「ん…」
恐らく優奈ちゃんの方から誘ってきたと疑っているのだろう。彼女を庇っていると勘違いされていた。
「断られたのにどうしてまた誘ったの? 嫌がってる子をしつこく誘ったら悪いじゃない」
「最近、引きこもり気味らしくて外に連れ出してあげようかと思い…」
「それはそれは高尚な考えですこと」
「これ1回きりにするからさ。ダメかな?」
「何でそれをいちいち私に聞いてくるの? 勝手に行けばバレなかったのに」
「それは…」
問い掛けに対して言葉が詰まる。内容が直球すぎて。
「だ、黙って行ったりしたら華恋が怒るかと思って」
「……アンタの中で私は鬼嫁ポジションになってる訳ね。軽くショックだわ」
「ダメ……ですかね?」
「行きたきゃ行けば良いんじゃないの。どうせ止めても無駄だろうし」
「え? ほ、本当に良いの?」
思わず体が前のめりに。肯定を表した言葉にテンションが上がった。
「私は誘われてないのに……やっぱりダメかぁ」
「だ、ダメ? ダメなの!?」
「いや、そういうこっちゃなくてね…」
「ほ? どういう事?」
「あぁ、くそっ。何でコイツはいつもこうなのよ」
「んん?」
状況が理解出来ない。自分の頭が悪いのか彼女が言葉足らずなのかは不明だが。
「と、とにかく行っても良いって事だよね?」
「……ねぇ、やっぱり私はダメだった?」
「え?」
「女の子にはなれなかった? 雅人にとって私は妹のまま?」
「どうしたの、急に…」
「別れた時と同じ? この家を出て行った時と変わってない?」
「さっきから何が言いたいのさ」
話が見えてこない。この流れが行き着く先の見当がつかない。ただ漠然とした不安だけが心を覆い尽くしてきた。
「私はダメだった。やっぱり忘れられなかった」
「それは見てれば分かるけど…」
「なんか悔しいなぁ。こんな事なら戻って来なかった方がマシだったかも」
「……悪かったよ、ゴメン」
自然と口から謝罪の言葉が漏れる。誰の何に対して謝っているのかは分からない。1つだけハッキリとしているのは目の前にいる人物を傷つけてしまったという事。
「わざわざ報告に来てくれてありがとうね。内緒で出掛けてたら、そっちのがショックだったかも」
「うん。まぁ、最初は黙ってようかと思ってたんだけど。ただ事前に話しておけば余計なトラブルにならないかなぁって」
「私は負けちゃった訳だ。その後輩ちゃんに」
「負けたっていうか、勝ち負けとか関係なくない?」
「そうよね、雅人の言う通りだわ。私は勝負する事すら叶わなかったわけだ」
「お~い、人の話聞いてる?」
「はぁ~あ……所詮、現実はこんなもんか」
呼び掛ける声に返事が返ってこない。会話の中に度々スルー行為が発生していた。
「無理やりキスしちゃった事あったよね。ゴメン」
「あれはビックリしたよ…」
「手錠かけて拘束したり、コスプレしてメイドごっこしたり……何やってたんだろ、私」
「悪ふざけにしては道具にお金かけてるよね。普通そこまでしないもん。それ相応の見返りでも貰えない限り」
「見返りくれなかったじゃん。誰かさんは」
「えぇ……こっちのせい?」
理不尽極まりない。そのどれもが一方的なワガママに振り回されただけなので。
「笑えるわよね。アホ丸出しじゃん、私」
「あはは…」
「アハハハハハ」
室内に乾いた声が響き渡る。深刻な空気を和ませてくれるような台詞が。けれど彼女と目が合った瞬間、抱いた安堵感もすぐに消えてしまった。
「……また泣いてるし」
「だって、だって…」
「最近、本当によく泣くよね。そんな泣き虫だったっけ?」
彼女が体を震わせている。何度も目元を擦りながら。
「こっちが泣かせたみたいな状況だけど……やっぱり僕のせい?」
「どうだろ。惨めだから泣いてるのかも」
「別に誰も華恋の事を責めたり馬鹿にしたりなんかしてないし」
「うぅん、違うの。今までしてきた努力が全て水の泡になった気がして悔しいだけ」
「自分自身に八つ当たりしてるって事?」
「かな? よく分かんないや。これからどうしたいのか」
側に寄ろうとしたが途中で思いとどまった。今だけは近付いていけない気がしたから。
「もう何にも考えられない。やっぱり私はここでもダメダメな人生だった」
「そ、そんな事言わなくても。幸せなんてこれからたくさん経験出来るさ」
「もし雅人が後ろからギュッて抱き締めてくれたとしても全く幸せになれないぐらいどうでもいい気分」
「いや、そんな真似はしないけども…」
「そうだよね、しないよね。する訳ないもん。そんな事してくれたって同情みたいで全然嬉しくない」
「やっぱり遊びに行かない方が良かった?」
「今更やめてどうするのよ。そんな真似されても余計辛くなるだけ」
「ゴメン…」
遠慮と叱責の言葉が何度もぶつかる。その発言内容の大半はヤケクソに塗れていた。
「遊びに行くのは構わないわよ。私に止められる権利なんかないし」
「でも…」
「別に邪魔したりとかしないからさ。安心して楽しんできて」
「……む」
彼女の言葉の真意は分からない。本音なのか、ただの強がりなのかは。ただ今の自分の心配はデートの妨害ではなく、自暴自棄な華恋自身の態度にあった。
「今までゴメンね。色々と迷惑かけちゃった」
「迷惑だなんて思った事は一度もないし。だから謝らないでくれよ」
「本当に? 実は何度もあるんでしょ?」
「ま、まぁ…」
「やっぱりね。普通はそうだよね。こんな奴のワガママに引っ張り回されたらさ」
「……自覚はあったのね。ワガママだって」
「当たり前じゃん。なかったら真性のお馬鹿ちゃんだよ、私」
「ん…」
ならそのワガママを貫き通していたのは好きな相手を慕っていたからなのだろう。けれど今だけはその感情が彼女を苦しめる原因になっていた。
「私の分まで幸せになってね…」
「変な事言わないで。縁起でもない」
「私は……もう雅人の足手まといにならないようにするから」
「そこまで気負わなくても。今まで通りで良いんじゃないかな。普通に仲良くしていれば」
「うぅん、それはダメだよ。だって私はアンタの妹だもん」
「華恋…」
淋しそうな顔がすぐそこにある。思わず名前を呟いてしまう程の悲痛な表情が。
「ねぇ、1つだけお願いがあるんだけど」
「何?」
「私が雅人を好きだったって気持ちを忘れないでほしいかな」
「……忘れる訳ないじゃん。こんなインパクト強いエピソード」
「そうじゃなくてさ、無かった事にしないでほしいって意味」
「あ…」
互いに平静を取り戻した後は会話を再開。場の空気は信じれないぐらいの穏和な物になっていた。
「……分かった、約束する。けど華恋もちゃんと守ってよ」
「何を?」
「幸せになるって。人生投げ出すなんて絶対に許さないから」
「は~いはい、分かりましたよ。お兄ちゃんに怒られたら逆らえませんからね」
「まったく…」
2人して頬を緩ませる。仲直りした友達同士のように。
ずっと放置していた溝を埋められた事を実感。しかしそれは都合の良い思い込み。この時の自分は華恋の気持ちを全くもって理解していなかった。
普通の兄妹に戻れただけ。それが今までの生活と何が変わるのか。想像と現実は違っていた。
そしてその事に気付くのはこの日から数日後。知らない間に彼女はこの家から姿を消していた。
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