第9話 仲裁と制裁

「いつも悪いね」


「いえいえ、気にしないでください」


 昼休み。弁当を持参して華恋とベンチに腰掛ける。


 ただし彼女と2人きりではない。反対側には最近頻繁に行動を共にしている鬼頭くんが座っていた。


「白鷺さんって料理上手だね」


「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」


 俵型のオニギリを食べながら2人が言葉を交わす。やや遠慮がちな口調で。


「んむんむ…」


 彼がここにいるのは自分が誘ったから。女子生徒と2人きりで過ごすより男子がいてくれた方が気が休まるという理由で声をかけた。


 もちろんその事に対して華恋は不満を露に。本人不在の場所で文句を連発。


 更にはお弁当にかける手間まで増やしてしまった。その事が彼女の怒りの炎に油を注いでしまっていた。


「……ふぅ」


「どうしたの?」


「最近さ、優奈の様子が変なんだよね」


「優奈?」


「あぁ、えっと鬼頭くんの妹さんの名前だね。妹いるんだよ」


「へぇ」


 疑問符を浮かべた華恋に助言を出す。2人が兄妹だという情報を彼女はまだ知らなかったので。


「それで具体的にどう変なの?」


「なんていうか怪しい」


「怪しい?」


「隠れて男とコソコソ会ってる気がする」


「お、男?」


 口から裏返った声を放出。持っていた箸を落としそうになった。


「出掛ける時にどこ行くか聞いても教えてくれないしさぁ、バイト無い日にも頻繁に外出するし」


「へ、へぇ…」


「あとは部屋でケータイ見ながらニヤニヤしたりとか」


「ニヤニヤ…」


 まさかあの真面目な彼女がそんな顔をしているなんて。普段の様子からはまるでイメージ出来ない。


「でも何かあったのか聞いても教えてくんないんだよなぁ」


「……あはは」


「どうすりゃ良いと思う、俺?」


「さ、さぁ?」


「むぅ…」


 不満を垂らすように鬼頭くんが呟く。ベンチにもたれかかると視線を空に移した。


「んっ…」


 まだ彼の言っている男の陰が自分だと決まった訳ではない。他の仲の良い男友達の可能性もあるから。けれど彼女と2人っきりで遊んだ事があるというのもまた事実だった。


「う~ん…」


 左側で鬼頭くんが、右側で華恋が。そして自分自身も食事の手を止めて唸り続けていた。




「はい、そこ座る」


「うぃす…」


「仕事中にボーっとしちゃダメじゃないですか」


「すいません…」


「いくら妹さんの事が好きだからといっても妄想は自宅に帰ってからにしてください」


「いやいや…」


 放課後になるとバイト先の喫茶店へと向かう。後輩とパートさんの3人で回す珍しいシフト。


 しかし考え事をしていたせいかミスが目立った。トレイを床に落とす度に頭を下げるの繰り返し。


 幸運にも店長が出掛けていたので叱責だけは免れた。代わりに後輩に注意されて恥ずかしい思いをする羽目に。


「先輩って感情の切り替え下手ですよね。その日の気分がそのまま反映されてるっていうか」


「落ち込んでる時に元気を出すのって難しくない? 笑顔なんか作れないよ」


「それでもやらないといけないんですよ。私達がやってるのはそういう仕事なんですから」


「了解しました…」


 トースターで焼いたパンを持つと2人で席に腰掛ける。空いた時間を利用した腹拵え目的で。


「それ塗りすぎじゃないですか? ベットリしてますけど」


「両面をタップリ塗ったのが好きなんだよ」


「それだとパンの味がしないじゃないですか。マーガリンを食べてるのと変わらないですって」


「マーガリンだけだとちょっとね。パンとの絶妙なコラボレーションがたまらない訳さ」


「油分の過剰摂取は体に悪いですよ?」


「う~ん、そうとは分かっていてもやめられない…」


 基本的な食材は使ってもお金は取られない。ガムシロを混ぜた水をジュース代わりに飲んでいた。


「優奈ちゃんってさ」


「はい?」


「付き合ってる男の人とかいる?」


「……ど、どうしたんですか。いきなり」


 小言から逃れるように恋愛絡みの話題を振ってみる。昼休みのやり取りを思い出しながら。


「別に深い意味はないよ。ただどうなのかなぁと思っただけで」


「は、はぁ…」


「やっぱり聞いちゃマズかったかな?」


「ていうかその質問って私への当て付けですよね?」


「え? 何で?」


「うち、女子校なんですけど」


「あっ!」


 指摘されて思い出した。彼女が通っていたのは生徒がもれなく女子のお嬢様学校だという点を。


「で、でも中学の時は男子もいたんでしょ?」


「まぁ普通の公立ですし」


「その時から仲良くしてる男の子がいるという可能性も…」


「ゼロですね」


「そ、そうすか…」


 こちらの質問を遮るような台詞が返ってくる。空気が微妙に悪くなってしまった。


「もしかしてお兄ちゃんに調べてこいって頼まれましたか?」


「いや、そういう訳ではないんだけどね」


「……そうですか。最近、あのバカ兄もそんなような事を聞いてくるから、もしかしたらって思ったんですけど」


「ほう」


「ウザいから無視してるんですけどね。でもスルーすればする程しつこく聞いてきて」


「た、大変だね」


 むしろ鬼頭くんには知られないように情報を聞き出したい。とはいえいきなりこんな質問をしたら誰だって警戒するだろう。


「無視しないでハッキリいないって言い切っちゃえば?」


「言いましたよ。けど信じてくれないんです」


「うわぁ、質が悪い」


「やっぱり妹が男の人と仲良くしてたら気になるものなんですかね?」


「どうだろ。気にならないと言ったら嘘になるけど、恋人が出来たらどうこうってのは無いと思う」


「大人しく認めるって事ですか?」


「そうなる……かな」


 口では毅然とした態度を示したが実際にその立場に立たされたら分からない。ショックを受けるのか、それとも無関心を貫き通すのかは。


 そもそもうちの家族は初めから家族ではなかった。繋ぎ合わせたパズルのように最初はバラバラ。なので妹に対しての感情が一般的な兄弟姉妹とは違う気がしていた。


「先輩、うちのお兄ちゃんと入れ替わりせんか?」


「え? 僕が優奈ちゃんの兄貴になるって事?」


「はい、そうです」


「ほうほう」


 イメージを膨らませていると願ってもない提案を持ちかけられる。頬の筋肉を緩ませてしまうような意見を。


「けどさ、お兄ちゃんだって悪気があって疑ってる訳じゃないよね?」


「それは分かってますよ。でもしつこい人間は嫌いです」


「どうやったら彼氏がいない事を認めさせられるのか…」


「え?」


「う~ん…」


 逆なら可能だった。本人に会わせればそれで済む話だから。しかしいない事を立証するのは難しい。悪魔の証明だった。


「先輩。その考え方、間違えてますよ」


「な、なんで? おかしな事言ったかな」


「恋人がいない事を知ってもらいたいんじゃないんです。私に干渉するのをやめてほしいんですよ」


「だからそうする為には彼氏なんかいないとハッキリ理解してもらって…」


「じゃあ、もし私に恋人が出来たらどうするんですか?」


「……あ」


 そのシチュエーションは想定していなかった。仮に交際相手がいないと立証出来ても本当に作った時に文句をつけられては意味が無い。好きな男性を作っただけで兄妹喧嘩。いくらなんでもそれは可哀想だった。


「だからあのバカ兄が考えを改めない限り何も解決にはなっていないんです」


「ごもっともです…」


「先輩からも言ってやってくださいよ。ビシッと」


「う~ん、でも優奈ちゃんが言っても聞かないのに周りの人間が説得出来るとは思えないなぁ」


「はぁ……やっぱり無理なのかなぁ」


 彼女が俯きながら溜め息をつく。抱え込んでいるストレスを吐き出すように。


「お兄ちゃんって学校で仲良くしてる女の子とかいないんですか?」


「え? な、何で?」


「向こうに好きな人が出来れば私への関心も薄くなるだろうし、男の人と付き合ってても文句は言われないかなぁと」


「仲良くしてる女子かぁ…」


 まだ新しいクラスになって日が浅いから断言は出来ない。ただ鬼頭くんが仲良くしている女子がいる事は知っていた。


 しかも仲良くではなく、ほぼ間違いなく好意を寄せているレベル。自分の勘違いでなければ。


「学校だと硬派気取りですか?」


「いや、そうでもないけどね」


「え?」


「女子かぁ……う~ん」


 頭の中に1つの作戦を浮かべた。成功率の低い打開策を。


 やりたくはないが他に良い案が捻り出せない。仕方ないので実行する意思を固めた。




「やだ」


「だよね…」


 帰宅すると客間を訪れる。対面早々に要求を告げたが一蹴する言葉が返ってきた。


「それってさ、私に犠牲になれって事でしょ?」


「違う違う。飛躍しすぎ」


「じゃあ、どういう意味なのよ?」


「ちょっとだけ鬼頭くんと仲良くしてもらって意識を惹きつけてくれないかなぁと思って」


「それが犠牲でなくて何だって言うんだ、コラァッ!」


「ひいぃぃ!?」


 華恋が握り拳で机を叩く。破壊してしまいそうな勢いで。


「私にあの男と付き合えっての? 冗談でしょ」


「別にそこまでしろとは言わないけどさ」


「似たようなもんじゃない。そもそも私に得する事がないし」


「僕からのお願いって事ではダメ?」


「ダメ。いくら何でも理不尽すぎるわ」


「だよねぇ。はぁ…」


 好きでもない相手にアプローチしろなんて不条理でしかない。自分がその立場に立たされたらやはり拒むハズだ。


「絶対に協力しないからね。やるなら1人でやりなさいよ」


「……分かってるってば」


「つか何でそこまで肩入れすんの? 放っておけば良いじゃない」


「う~ん、でも可哀想な気がするんだよね」


「どっちが? 妹ちゃんの方?」


「どっちも」


 しつこく付きまとわれる優奈ちゃんも可哀想だけど、妹に邪険に扱われている鬼頭くんにも同情。他人事とは思えなくて。


「お人好しだね、アンタも」


「そ、そうかな」


「でもさっきの作戦には協力出来ないからね」


「はい…」


 誉められた事は嬉しいが心の底から喜べない。人間関係の複雑さだけが身に染みてきた。


「あの男ってそんなにシスコンなの?」


「かなり。2人が直接会話してる所は見た事ないけど、優奈ちゃんの話を聞く限りは」


「心配なのね、可愛い可愛い妹が」


「その度合いがオーバーなのが問題なんだよなぁ」


「アンタもちょっとは見習いなさいよ」


「……どうしてそういう話になるのさ」


 華恋が椅子の上で足を組む。腕も交差させながら。


「明日、本人に話を聞いてみようかな」


「シスコン兄貴の方に?」


「うん。とりあえず鬼頭くんを何とかしないと問題は片付かないっぽいし」


「ついでに妹に対する属性をどうやったら身につけられるのかも聞いておきなさい」


「やだよ…」


 目の前にいる人物も中々に理不尽極まりない。唯我独尊で傍若無人。


 優奈ちゃんが言っていた通り、自分達が入れ替わったら全て丸く収まるだろう。シスコンの兄にブラコンの妹の組み合わせで完璧だった。




「ちょっと良い?」


「ん?」


「優奈ちゃんの事で話があるんだけど」


 翌日、休み時間の教室移動中に鬼頭くんに声をかける。華恋がいないタイミングを見計らって。


「昨日さ、仲良くしてる男の子の話を聞いてみたんだよね」


「で、どうだった?」


「そういう相手はいないって」


「……ダメかぁ。やっぱり教えてくれなかったか」


「そうじゃなくて本当にいないんじゃないかな? 嘘を付いてるようには思えなかったよ」


「そんなハズはないんだよな。この前出かけた時もうっすら化粧してたし」


「この前っていつ?」


「先週の土曜日」


「へ、へぇ…」


 それは以前に後輩と遊んだ日。駅前でマンガの貸し借りや、ファミレスで食事をした日だった。


「昔は出かける時も行き先教えてくれたのに」


「昔って中学生の時だよね?」


「あの頃は純朴だったなぁ。今も可愛いんだけどさ」


「き、きっと高校に入ったのをキッカケに大人になりたかったんだよ。化粧を始めたのもそれが理由なんじゃないかな」


「そうなのかなぁ…」


「だよ、多分」


 話を無理やり別方向にねじ曲げる。自身の潔白を証明するように。


「アイツ、今度はいつ出掛けるだろ」


「どうして?」


「もし外出するなら後をつけて現場を押さえる」


「そ、それはやめようよ! マズいって」


「でももうこれしか方法ない気がする」


「いやいや…」


 そんな事をされたら彼女とバイト以外でも会っている事が発覚。3人でバッタリ遭遇なんて状況だけは何としても阻止しなくてはならなかった。


「でも俺だと追跡は難しいよな。同時に家を出たら怪しまれるし」


「そうだね。だから尾行なんて真似は…」


「赤井くんに頼んでも良いかな?」


「……えぇ」


 ゴツゴツした手がソッと肩に置かれる。すぐ目の前には爽やかな笑みが存在していた。




「という訳でスパイに任命されました」


「はぁ……っとにもう」


 放課後のバイトで休み時間中の出来事を報告する。食事休憩中に。


「どうして信用しないかな、人の言う事を…」


「もはや病気の域に達している気がする」


「何か硬い物で頭を殴らないと治らないかもしれません。ガツンと一発」


「うえぇ……いくら身内でもそれは犯罪になっちゃうよ」


「そうなんですよね。だから代わりに先輩お願いします」


「い、嫌だよ。例え捕まらないにしても血を見るのには抵抗がある」


 彼女がテーブルに置かれていた灰皿を移動。差し出されたが慌てて元の位置に戻した。


「で、先輩はこれからどうするんですか?」


「どうしよう。尾行するって言っても容疑は晴れてるし、本人にはバラしちゃってるし」


「男と会ってなかったと報告しても、お兄ちゃんがそれで納得するとは思えませんしね」


「そうなんだよなぁ…」


 やはり問題を解決させるには鬼頭くん自身が考えを改めないと駄目だろう。かといって何を言っても彼は聞く耳を持たない。


「いっそ開き直っちゃおうかな」


「え? どういう事?」


「たくさんの男性と仲良くさせてもらってますって嘘情報をバラまくわけですよ」


「それは……また大胆な」


 引いてダメなら押してみろという理論らしい。考えていなかった方法だった。


「でもそんな事言ったら怒らないかな?」


「怒るでしょうね。でも別に構わないです」


「何で?」


「だって怒りをぶつけたくても、その相手の男性は存在していないじゃないですか」


「……なるほど、確かに」


 どれだけ疑おうとも証拠なんか出てこない。無い物を見つけだすなんて不可能だから。


「ただ1つだけ問題があって…」


「何?」


「そんなふざけた嘘を流したらお兄ちゃんは余計に私を束縛するようになりますよね?」


「あぁ、だね」


「そうすると先輩と一緒に遊んだり出来なくなります」


「は、はぁ…」


 互いに顔を近付ける。内緒話でもするかのように。


「あとお兄ちゃんが私を尾行したとするじゃないですか?」


「うん」


「もしその時に私が会ってたのが先輩だとしたら…」


「……ヤバいですな」


 それは疑惑の人物が自分だと思われても仕方ない状況。実際その通りなのだが鬼頭くんの怒りを全て受けきれる自信も度胸もなかった。


「さすがに先輩にそこまで迷惑はかけられませんからねぇ」


「う~ん。いや、でも…」


「どうかしましたか?」


「1つアイデアを思いついたんだけど」


「何です?」


 咄嗟に考えた作戦を打ち明けてみる。身内を1人巻き込んだ内容を。


「……それ、上手くいきますかねぇ」


「ダメ元でやってみよう。何もしないで手をこまねいてるよりはマシだもん」


「でもその作戦、先輩の妹さんに迷惑がかかる気が…」


「問題はそこなんだよね。協力してくれるかどうかがさ」


 昨日は聞く耳を持たず跳ね返されてしまったぐらい。力を貸してくれる可能性は低い。


 ただ華恋を上手く誘導させる作戦も考えていた。鬼頭くん共々、2人揃って騙す方法を。


 帰ってから早速本人の部屋に突撃。秘密の会議を始めた。




「話って何? 私にとって嬉しい事?」


「どうだろ。微妙かな」


「ん?」


「用件ってのは昨日の続きなんだよね」


「……ちっ、それかよ」


 開口一番に本題を切り出す。笑顔だった彼女の表情は即座に仏頂面に変化した。


「んで、昨日の続きが何だって?」


「え~と……優奈ちゃんと話し合った結果、1つの結論に辿り着きまして」


「どんなよ?」


「鬼頭くんは優奈ちゃんに彼氏がいないという情報を信じてくれない訳でしょ?」


「そうみたいね。で?」


「なら逆に仲良くしてる男の子がいると打ち明けてみてはどうかという話になったんだよ」


「ほう」


 予め考えてきた説明を思い出しながら喋る。伝えていい事とバラしてしまってはいけない情報に気をつけながら。


「その男の子を鬼頭くんが認めれば万事解決、という訳さ」


「良いんじゃない? 上手くいくかどうかは知らないけど」


「ただ不安はあるんだよね。認めさせるのに失敗したら余計に2人の仲が険悪になる可能性があるし」


「その男が頑張るしかないわよ。殴られようが首を絞められようが耐え抜くぐらいの根性を見せないと」


「それはちょっとヤバいかな…」


「んで、どうしてその話を私にしてきたの? 私、する事なくない?」


「あぁ、えっと…」


 口に手を当てて咳払い。心の中で決意を固めると華恋の顔を見た。


「その男の子役を僕がやる事になっちゃった」


「は?」


「優奈ちゃんに聞いたら仲良くしてる同世代の男子はいないって言うし。だから他に適任者がいなくて」


「適任者…」


 これは本当の話だった。中学時代から今も連絡を取り合っている男子がいないんだとか。


「それで一応、華恋にも話をしておこうかと思ったんだけど」


「……アンタ、何言ってんの」


「え?」


「そんなのダメに決まってんでしょうがっ!」


「うわっ!?」


 恐る恐る彼女の反応を窺う。椅子から立ち上がったかと思えば全力で飛びかかってきた。


「なんで雅人が彼氏役やらないといけないのよ、ふざけんなっ!」


「別にふざけては…」


「調子乗ってんじゃねぇぞ、この野郎っ!」


「え、えぇーーっ!?」


 襟首を思い切り掴んでくる。カツアゲでもする不良のように。


「どうしてそんな提案引き受けちゃったの?」


「その場の流れで…」


「ダメったらダメ! 私は絶対に許さないからね!!」


「ぐえぇえぇぇ!? く、苦しい…」


 更にそこから激しい攻撃が追加。首を前後に激しく揺さぶられてしまった。


「ちゃんと断ってきなさいよ! 雅人が言わないなら私から文句つけに行くからね、その後輩の子の所に!」


「で、でも断ったら優奈ちゃんが困っちゃうし」


「そんなの知らないっつの。余所様の家の問題じゃない」


「華恋にとっては他人かもしれないけど、僕にとっては大事な同僚なんだよ。見捨てるなんてとんでもない」


「だってフリとはいえデートするんでしょ? 手を繋いだり」


「そりゃあ時と場合によってはするかもね」


「私、その現場を目撃したらその後輩の子に襲いかかっちゃうかもよ? それでもやるの?」


「えぇ…」


 彼女の言葉に嫌な光景を浮かべてしまう。女子が女子に馬乗りになっている姿を。もはや嫉妬を飛び越えた逆恨み。実際にそんな真似されては大事件だった。


「どうすんの。断るのか続けるのかどっちだ、あぁ!?」


「わ、分かった。分かったからとりあえず落ち着こう。ね?」


「がるるるる…」


 襟首を掴む指を1本1本はがす。動物をあやす飼育員のように。


「まぁ、反対してくるとは思ってたよ。華恋が素直に頷く訳ないもんね」


「分かってんなら何でそんな話引き受けたのよ」


「実は頼みがあって…」


「あん?」


 ここからが本題だった。上手く彼女を乗せて作戦通り行動してもらわなくてはいけない。それは至ってシンプルな物だった。


 学校で鬼頭くんと2人きりになってもらう。相談があると言えば彼は喜んで付いて来るだろう。その内容が『最近、兄にストーカーまがいの事をされて困ってる』といったものだ。


 彼女にそう相談された鬼頭くんは間違いなく自分と優奈ちゃんの関係について思い浮かべるハズ。兄に付きまとわれる妹の気持ちを華恋に代弁してもらおうという作戦だった。


「ど、どうかな」


「それを私にやれと?」


「嫌なら無理にとは言わないよ。その場合は僕が彼氏のフリをする作戦で…」


「それはダメ!」


 彼女が口を塞ごうと手を伸ばしてくる。寸前でそれをかわした。


「ふぅ…」


 この作戦の最大のメリットは誰も傷つかなくて済むという点だった。自分が彼氏役を演じなくてもよくなるし、華恋が必要以上に鬼頭くんにアプローチしなくて済むから。


「う~ん、う~ん…」


「どうする?」


「……私が雅人に付きまとわれてるって設定で話をすれば良いの?」


「そうそう」


「でもアンタはそんな事してくれないから何て言えば良いか分からないし…」


「いや、適当で良いって。こんな事されてるって妄想で構わないから」


「妄想…」


 大人しくなった彼女が目を閉じて黙考を開始。それは吉兆を窺わせる仕草だった。


「どんな内容でも良いの?」


「あまり過剰なのはダメだよ。僕のイメージが悪くなる」


「じゃあ夜中に私の部屋に来た雅人が私を襲うっていうのは?」


「……は?」


 しかしその期待は別の角度で消滅。淫乱全開の台詞が返ってきてしまった。


「ダ、ダメかな…」


「ちなみにその襲うってのは華恋がさっき言った意味と同じ?」


「うぅん、違うよ。エッチな方で」


「なら却下」


「あ、やっぱり?」


 分かっていて聞いてきたらしい。開いた口が塞がらない。


「仕方ないなぁ、あんまり乗り気じゃないけどやってみようかな」


「お? 協力してくれる気になったの?」


「だってしょうがないじゃん。この提案飲まないと雅人があの後輩の子とデートしちゃうんだし」


「やった、サンキュー」


 彼女が組んだ手を天井に向かって伸ばす。その動作に応えるように小さく手を叩いた。


「でも約束してよね。彼氏役は絶対やらないって」


「へいへい」


「それとこの貸しは高いから。後でしっかり払ってよ?」


「……お、覚えてたらね」


「忘れたらブッ飛ばす。全ての記憶がなくなるまでブッ飛ばす」


「ひえぇぇぇ…」


 そんな真似をされたら思い出せる物も思い出せなくなってしまう。華恋の凍りつくような目を記憶の中に深く刻み込んだ。




「ん~…」


 そして翌日になると早速作戦を実行に移す事に。といっても自分にやれる事はほとんど無く、ただ華恋の邪魔をしないように場を離れているだけ。


 2人の姿が見えない廊下をウロウロ。用もないのにケータイのメッセージ履歴を確認する作業をかれこれ20回以上は繰り返していた。


「お~い」


「あ…」


 アプリでもやろうかと考えていると待ち人が登場する。大きく手を振った女子生徒が声を出しながら近付いて来た。


「お待たせ」


「お疲れ。どうだった?」


「ふふふ、バッチシよ」


「おぉ、マジか」


 彼女の顔の横にOKサインが並ぶ。そこには頼まれ事をやり切ったという満足感と僅かな焦燥感が混在していた。


「で、どうだった? 鬼頭くん」


「ん~、特には何も。ただ意外とは言ってたかな」


「意外?」


「雅人がそんな事する人間には見えなかったって。だから驚いてたわよ」


「へぇ」


 どうやら誠実な印象を持ってくれていたらしい。嬉しいような恥ずかしいような微妙な心境だった。


「ちなみにどうやって話したの?」


「え~と……色々しつこく干渉されてて出かけようとする度にどこに行くかを聞かれたり、パソコンの履歴を漁られたり」


「ふむ」


「他にも彼氏の有無の確認、交友関係の制限…」


「ほうほう」


 それは事前に打ち合わせした通りの内容。優奈ちゃんが鬼頭くんにされている行為でもあった。


「後は人目も憚らず抱きついてきたり、無理やりキスしようと迫ってきたり」


「はぁ?」


「家では手錠をかけられて生活させられていて、気に入らない事があればすぐ暴力を振るってきたり」


「ちょ…」


 けれど安堵感を抱けたのは序盤だけ。途中から話が有り得ない方向に脱線。


「それから…」


「まだあるの!?」


「着替えてる所を盗撮、部屋に侵入して下着の物色」


「おいおい…」


「胸を揉んできたり、お尻を触ってくるセクハラなんか日常茶飯事で、それから…」


「もうやめてくれぇーーっ!!」


 耳を塞ぐと大声で叫んだ。話を無理やり打ち切るように。これ以上余計な情報が頭の中に入ってこないようにする為に。


「あれ、もう良いの?」


「……それ本当に鬼頭くん話したの?」


「まぁ何個かは嘘だけどね。でもいくつかは本当に話したよ」


「なんて事だ…」


 打ち明けたエピソードの取捨選択が気になる。ただそれを確認するだけの余裕が心の中に無かった。


「……後半はただの犯罪者じゃないか」


 クラスメートに最低の変態野郎と思われてしまったかもしれない。だとしたらこれからまともな付き合いを続けていくのは難しくなるだろう。


「あ~あ…」


 とはいえ肝心の問題は別の所にあった。鬼頭くんの気持ちがどうなっているのかという事。


 その答えを直接本人に聞く事は出来ない。なので数日後に妹の方に尋ねてみた。




「最近どう? 家庭内環境の方は?」


「まぁまぁですよ。あんまり干渉してこなくなりました」


「おぉ。なら作戦成功って事かな」


 2人して駅までの道のりを歩く。バイトが終わって暗くなった住宅街を。


「学校ではどんな感じですか?」


「どんな感じって、いつも通りだけど」


「そうですか…」


「ん?」


 隣を歩く後輩のテンションは低い。ミッション成功に喜んでいるとは思えないような有り様だった。


「何かあったの?」


「最近元気がないというか、以前よりグッと口数が少なくなってきたというか」


「落ち込んでるんじゃないかな。もしかしたら嫌われたのかと思って」


「う~ん…」


「心配? お兄ちゃんの事」


「一応は。これでもずっと一緒に過ごしてきた家族ですし」


「なるほど…」


 頭上を見上げると綺麗な三日月を発見。流れ星でも現れそうな星空が広がっていた。


「けど今あんまり心配すると、またシスコンに逆戻りしちゃうかもよ?」


「そうなんですよね。優しくすると引っ付いてくるかもですし」


「それに時が経てば自然と立ち直れるさ。いつまでも落ち込んだままの人なんていないよ」


「はい…」


 自分自身も経験があるから分かる。どれだけ辛い経験をしたとしても過去の出来事として割り切れる日が来るんだと。


 もちろん後悔や心苦しさが完全に消え去る訳ではない。それでもこうして普通に接する事が出来るようになっている例だってあった。


「大人しいぐらいが丁度良いのかもしれませんね」


「うちの妹も、もう少し大人しかったらなぁ…」


「そうですか? 随分と礼儀正しい人だと思いましたけど」


「いや、あれ本性じゃないから。普段は全然違うキャラだし」


 話題が少しずつ別の人物に移行する。作戦に協力してくれた乱暴者に。


 以前に顔を会わせた姿は別物でいつもは敬語なんか使わないと説明。その事に関しては彼女も信用してくれたが、暴力的だという点については納得してくれなかった。


「先輩に殴りかかってくるんですか? あの優しそうな妹さんが」


「本当なんだって。口より先に手を出してくるんだから」


「え~」


「壁を殴って怪我した事も何度かあるよ」


「嘘だぁ」


 力説に対して否定的な言葉ばかりが返ってくる。明らかに本気にしていない反応が。


「そこまで疑うなら見に来るといいよ」


「良いんですか? なら遠慮しないで行っちゃいますよ」


「あ……ダメだ」


 お客さんが来たらまたあの性格になるだけ。観察するなら本人にバレないようにしなければ意味が無かった。


「や、やっぱり今のは無かったという事で」


「そうですか。残念です」


「ごめんね」


「先輩と一緒に遊べないのが残念です」


「へっ!?」


「ん…」


 空気が微妙に気まずくなる。険悪な物ではなく照れくさい物に。


「え~と、次の休みにまた一緒に遊ばない?」


「はい、分かりました」


「え? 良いの?」


「んん? ダメと答えた方が良かったですか?」


「そ、そんな事はないです…」


 彼女が何を考えてそんな台詞を言ったのかは分からない。ただ居心地は悪くなかった。


「ならどこに行こう」


「そうですね。どうせ休みなら遠出するのも良いかもです」


「遠い場所か…」


 自宅には招けないが外出は可能。むしろ知り合いに遭遇したくない状況を考えたらその方が都合が良いだろう。


「詳しい事は後で決めよっか」


「了解です。じゃあ痴漢とかしないように気をつけて帰ってください」


「……した事ないよ」


 正確な目的地を定める前に駅へと辿り着く。帰宅後にメールをする約束を取り付けて解散した。



「じゃあ出かけてくる」


「気をつけてね、行ってらっしゃい」


「父さんへのお土産を忘れるんじゃないぞ。いいな?」


「え~と、エロ本で良い?」


「あぁ、もちろんだ」


 そして出掛ける日はあっという間に訪れる事に。母親にビンタされる父親を尻目に自宅を出発。


 話し合いの結果、行き先は繁華街にあるタワーに決まった。県内を代表するシンボルなのにお互いに今まで一度も行った事がなかったので。



「今日は天気悪いですね」


「だねぇ…」


 海城高校近くの駅までやって来ると頭上を見上げる。先に来ていた待ち合わせ相手と共に。


「天気予報見てきました?」


「いや、まったく」


「雨降るみたいですよ。降水確率60パーセントとか」


「げっ!」


 視界いっぱいにはどんよりとした曇り空が存在。外出には不向きな状況だった。


「ダメじゃないですか。ちゃんと確認してこないと」


「……面目ないです」


「だから手ブラだったんですね」


「うひぃ…」


 あまりにも幸先が悪すぎる。天候も叱られる状況も。


「どうしよう。雨降るならタワーに行ってもなぁ」


「あの辺りにあるお店だけでも見る価値ありますよ。だから行きましょう」


「そだね。他に候補も考えてないし」


「もし雨降ってきたら私の傘が使えますからね。相合い傘です」


「そ、そりゃどうも…」


 戸惑っている間も隣にいる相方は飄々とした発言を連発。情けない年上をしっかりとリードしてくれていた。


「え…」


「……お兄ちゃん」


 しかし駅に入ろうとしたタイミングで中から1人の人物が出てくる。いつも教室で顔を合わせているクラスメートが。


「な、何で…」


 その光景を目の当たりにした瞬間に全身の動作は停止。向こうもこちらの様子に気付いていた。


「どういう事だよ、これ」


「へ?」


「何でお前が優奈と一緒にいるの? 遊びに行く相手ってお前だったのかよ」


「いや、あの…」


 どう行動するべきか迷っていると鬼頭くんの方から近付いてくる。威圧的な表情を浮かべながら。


「メールや電話も頻繁にやってるよな。ずっと俺を騙してたのか?」


「そ、それは…」


「ちょっと、どうしてそんな事知ってるのよ」


 脅迫ともとれる言動に思わず後退り。怯んでいると間に優奈ちゃんが割り込んできた。


「俺は今こいつと話してんだよ。お前、邪魔」


「私のケータイ勝手に見たの? そうなんでしょ」


「見てねーし。ただ家での様子見てそう思っただけだっての」


「適当男…」


 2人が対峙する形になってしまう。人が行き交うロータリーで。


「いつからだよ。こんな事してたの」


「お兄ちゃんには関係ないじゃん。私がどこで誰と会ってようが自由なんだし」


「いいから答えろって」


「……ふんっ!」


 場の空気は最悪。最も恐れていた事態に突入していた。


「行こ」


「え? え?」


 仲裁に入ろうとしたが逆に後輩に手首を掴まれる。強く引っ張られたせいで転倒しそうになった。


「おい、待てよ」


「いでっ!?」


 ければその動きはすぐに止められてしまう。反対側の腕を掴む鬼頭くんによって。


「どこ行くんだよ。まだ話は終わってないだろ」


「アンタとする話なんかない、消えろ」


「何ぃ!?」


 行動を制限され八方塞がりの状態に。2人が言葉を発するにつれて腕を掴む力もどんどんと増していった。


「いつからそんな生意気な口利くようになったんだよ、お前は」


「私は昔からずっとこうだよ。変わったのはお兄ちゃんの方じゃん」


「ふざけんな。少し前なら俺の言う事なら何でも聞いてたじゃんか!」


「いつまで私を子供だと思ってるの? もう小学生の時みたいに後ろを付いて回ってる歳じゃないんだからね!」


「まだまだガキんちょのクセに何言ってんだ」


 やがて睨み合いは口論へと発展する。公共の場で繰り広げる兄妹喧嘩へと。


「2人とも、少し落ち着いて。周りの人達に見られてる…」


「……っと」


 戸惑いながらも仲立ちを開始。抑制の言葉に過敏に反応したのは意外にも鬼頭くんの方だった。


「あっ、おい」


「いてっ!?」


 その隙を見て優奈ちゃんが再び逃走を試みる。彼女を止める力は結果的に自分の腕に伝達する事に。


「お前が何も話さないってんならコイツに聞いてやる」


「……え?」


「殴られたくないなら正直に言え。こうやって2人っきりで会うのは何回目だ?」


「ぐわっ!」


「初めてじゃないよな? 前から会ってたんだろ?」


「は、離し…」


「ちょっとやめてよ!」


 腕を拘束していた手が首元に移動。喉を圧迫するように襟首を締め付けられた。


「お前の事、信用してたのに……だから相談したのに」


「く、苦し…」


「そうならそうと正直に言ってくれたら良かったのに。どうして黙ってたんだよ」


「いたっ!?」


 苦しみから逃れようと必死に抗う。けれど先に鬼頭くんによる力が全身に付加。


「いちち…」


 どうやら突き飛ばされたらしい。咄嗟に手を突いたおかげで頭を打たずに済んだが腰にダメージを負ってしまった。


「俺を欺くような真似しやがって…」


「……え?」


「2人でグルになってからかってたのかよ」


「ち、違うよ。それは違う」


「ならどうして黙ってたんだ!」


「……別に君を騙そうとか、そういうつもりは無かったんだ」


 激しい罵声に怯んでしまう。思わず顔を背けてしまうレベルで。


 信じてくれなんて安易な台詞を吐いても聞く耳を持ってはくれないだろう。それぐらい目の前にいる人物は理性を失っていた。


「あ…」


 ふと彼の体の一部に視線を奪われる。小刻みに震えている拳に。


「ぐっ…」


 それは怒りと悔しさの表れ。負の感情が高まった時に出てしまう現象なんだと理解出来た。


「何してんだ、くらあぁあぁああぁぁっ!!」


「え?」


 どう逃げ出そうか考えていると予期せぬ方角から声が飛んでくる。甲高い女性の罵声が。


 もしかしたら近くでたまたま別の乱闘が行われていたのかもしれない。同じ時間、同じ場所で。そんな悠長な事を考えていると怒号と共に激しい足音が近付いてきている事に気付いた。


「……は?」


「いってぇ!?」


 警戒するように辺りを見回す。直後に目の前にジーンズを穿いた足が出現。更にはすぐ前に立っていた鬼頭くんが地面に向かって倒れ込んだ。大きな悲鳴を上げながら。


「え、え…」


 隣に立っている人物を見上げる。目にはサングラスをかけて、長い髪を後ろでダンゴ状に束ねている女性を。この位置からだとハッキリ顔を確認する事は出来ない。だがその風貌から誰なのかすぐに分かった。


「か、華恋っ!」


「……ぐっ」


「どうしてここにいるの!?」


「やっば…」


 慌てて名前を呼ぶ。地面に手を突いて立ち上がりなから。


「何て事するんだよ。暴力はマズいって」


「……んっ」


「いや、もうバレてるから」


「あぁ、もう!」


 やはり自宅にいるハズの妹だったらしい。観念した彼女は背けていた視線を元に戻した。


「何なのよ、コイツは」


「お、落ち着いて。頼むからこれ以上暴れないでくれ」


「だって雅人に手を出そうとしてたじゃん。無理やり押し倒して」


「それは…」


 恐る恐る倒れている人物を見る。殴られたであろう右頬を押さえて呆然としているクラスメートを。


「大丈夫?」


「あ、あぁ…」


「立てる?」


「ん、サンキュー」


 どう声をかけるべきか悩んでいると彼の元に優奈ちゃんが接近。肩を借りてゆっくりと立ち上がった。


「何の話してたの? 穏やかそうな感じには見えなかったけど」


「それは…」


「なんとなく予想はつくけどね。コソコソ会ってた現場を見られちゃったんでしょ」


「……ん」


 華恋に指摘を受けて黙り混む。内容がこれでもかというぐらいに的を射ていたので。


 きっと腸が煮えくり返っているのだろう。しかし彼女の怒りの矛先は別の方に向けられた。


「アンタ、私の雅人に何してくれてんのよっ!」


「え? いや、俺はただ…」


「この大事な顔に傷が付いたらどうしてくれんのさ。責任取れんの?」


「え、えぇ…」


「雅人に手ぇ出す奴は私がブッ飛ばす」


 人差し指を伸ばしながら脅し文句を吐き出す。自宅にいる時のように荒々しい口調で。その言動がキッカケで場が凍結。正面に立つ2人は目を丸くしていた。


「あ…」


 同時に別の異変にも気付く。頬に当たる冷たい水滴の存在に。


 見上げると空全体が黒い雲に覆われている状態へと変化。それはまるで今の自分達の関係を表しているかのような天候だった。


「……行こ、お兄ちゃん」


 しばらくすると優奈ちゃんが鬼頭くんの腕を引っ張る。この場から離れるように促しながら。


「いや、俺はコイツと…」


「いいからっ!」


「ここまで来て引き下がれるかよ」


「……ならもう知らない」


「お、おい」


 だが彼は提案に対して強く反発。そのリアクションを見て優奈ちゃんはこちらに近付いて来た。


「先輩、ごめんなさい…」


「え?」


 彼女が小声で何かを発する。ハッキリと聞き取れない言葉を。


「あっ…」


 そのまま駅とは違う方向に向かって逃走開始。追いかけようとしたが出来なかった。


「どこに行くつもり?」


「どこって…」


 華恋が腕を掴んでくる。詰問の台詞と共に。


「離して」


「やだ」


「いいから離してくれよ!」


「嫌っ!」


 至近距離で睨み合いを開始。ついでに声も荒げた。


「くっそ…」


 すぐにでも後を追いかけなくてはならないのに。デートの続きをしたいというやましい考えがあるからじゃない。頭を下げてきた時の彼女は泣いているように見えたからだ。


「優奈っ!」


 そして自分の代わりに鬼頭くんが駆け出す。雨粒を気にしない全速力で。


「行こ」


「……ん」


 その光景を見て反発する気はゼロに。追いかける必要性が無くなってしまった。


 華恋に腕を引っ張られて駅の中へと入って行く。振り返った先には濁った街並みだけが広がっていた。

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