第8話 矛盾

「何だありゃ」

関東平野に孤島のように突き出た筑波山。その環礁のように連なる低い山々で囲まれた八郷盆地を右手に緩く大きな左旋回を終えた時、南の空に違和感を感じた鳥谷部は目を細める。霞んだ地平線の先に、いや、地平線よりも手前に何かがある。白い塀のような何かが。霧にしては違和感がある明瞭さ。

「キョウジュ、地平線が不自然じゃないか?」

「ゴリ、こちらも確認した。何だろう塀のように見えるが、あの辺は利根川じゃないか?」

 利根川は茨城県の県境を流れる川で、流域面積は日本一である。

 確かにそうだ、いつもならそこには利根川が茨城県を縁取るように流れる。

「そうだ、利根川の辺りだな。もう少し近付こう。高度はこのまま。」

 ゴリの語気が勢いづく

「ゴリ、俺のレーダーを対地モードに切り替える。そっちは対空モードのままで行こう。」

 なるほどな、心の中で呟く。

「了解、キョウジュ、それにしても対空モードで何も映らないのが不気味でな、そっちは映ってるか?」

「いや、こっちも機影なしだ、1機も飛んでない空なんて、こういう

日もあるんだな。じゃあ、対地モードに切り替える」

 キョウジュこと高山がセレクターを対地モードに切り替える。画面の探知距離を延ばしていった指が止まる。探知しうる水平方向いっぱいに広がる障害物。

「なんだ?」

 キョウジュとあだ名されるほど冷静・沈着・頭脳派の高山が似合わない驚きを発する。

「どうした?」

「壁だ、探知範囲いっぱいに広がってる。」

「壁だって?ん、こっちも捉えた、対空モードでも巨大な塊が、高度は、300mだ。」

ゴリのレーダーには高度300mで横方向に蛇行する像が浮かび上がってきた。

「百里タワー、エイワン、こちらマンモス01、現在霞ヶ浦上空、利根川付近、いや、利根川に沿って、障害物あり、高度300m。オーバー」

 ゴリは信じられない光景に飲み込まれぬよう意識して区切りを付けながら無線に吹き込む

「こちらエイワン、マンモス01、了解。高度300mというのは、障害物が高度300mを飛行中ということか?オーバー」

 いつもよりトーンを落とした基地司令の声が響く。慌てているつもりはないが、うまくエイワンに伝わってないらしい。

「エイワン、マンモス01、障害物は飛行物体ではない。地上から高さ300mの塀のように見える。レーダーの反射波もあるので、実体のあるものと推定する。オーバー。」

「エイワン了解。障害物の先は見えるか?オーバー。」

「マンモス01、今のところ見えない。」

鳥谷部は目を細めて見るが地平線を邪魔するように広がる白い壁の向こうは霞んで見えない。

「02ネガティブ(駄目だ)」

高山の声が入る。

「エイワン了解、霞ヶ浦上空で旋回して待機、指示を待て。オーバー。」

「ラジャー。霞ヶ浦上空で待機する。」

鳥谷部は高山に指示を出して速度を落とすと霞ヶ浦上空に進路をとった。


-----茨城空港ーーーーー

「まだまだ飛ばないよ。準備中だ。」

灼熱の展望デッキ。目の前の2機のボーイング737−800型機に釘付けになっていた子供達を説得して冷房の効いたホールへ戻ろうとした荒井は、一瞬真っ白に包まれた。眩しいというよりは白。霧のようにぼんやりした白ではなくペンキのような明確な白。そう、一瞬白で塗り潰されたような。そして音も奪われた。耳が塞がれたような違和感。本当に一瞬のことだった。

 すぐに視界と音が戻ったが、その時になってやっと子供達の事に目が向いた自分に、父親としての未熟さを感じる。

 屈みこみ、子供達を両腕で抱える妻のノースリーブから出た細くしなやかな腕。母性本能のなせる反射なのか、それともその華奢な体で子供2人を産み、育ててきた強さなのか、いずれにしても俺がこんな事じゃ子供達を守れないな。心の中で苦笑する荒井を、妻が不安そうな眼差しで見上げている。あまりに突然の異様に立ち上がれずにいるようだった。

「大丈夫。雷みたいなもんさ。どこかで気中放電が起きたんだよ。」

そうだ、俺には家族全員を守る役割がある。荒井は妻を抱えるように優しく立ち上がらせると、努めて明るく言った。真っ青に抜けるような空。夏らしく遠くに見えた入道雲もいつの間にかなくなっていた。雷なんて起きる要素はないが、エンジニアである夫の言葉に安心はするだろう。

「そう、なんか涼しくなったわね。雷の後みたい」

不安の消え去った妻の声音と表情に安心した荒井は、子供達を連れて先にロビーに行くように伝えると、再び大空を見渡す。確かに涼しくなった。雲一つない青空なのに日差しも柔らかい。入道雲はどこへ行ったのだろう。

いずれにしても、子供達は見るものは見たし、まあそれはマニアな俺もだが、正面の旅客機の折返し便は夕方だ。明日の仕事を考えると、夜は家でのんびりしたい。そもそもあの一瞬の真っ白が何だったのか気になるし。

「そろそろ帰るか」

呟いた荒井の耳に新たな音が届いた。

−これは。。。−

F−2がエンジンを始動するコンプレッサーの音だ。平日しかお目にかかれないと思っていたが、紛れもなくそれは基地エリアから聞こえてくる。ただ、正面の管制塔前の駐機場には1機も自衛隊機は見当たらない。そう今日は日曜日、訓練をするはずはない。ということは。

 荒井は視線を右の滑走路端へ向ける。アラートハンガー。スクランブル発進のために待機している戦闘機を納める格納庫の扉がいつの間にか開いている。そして、濃紺と青みがかったグレーの洋上迷彩のF−2戦闘機が滑るように進み出る。

 初めて見るスクランブル発進に不謹慎ながらもマニアの血が騒ぐ。スクランブル−緊急発進−するということは国籍不明機が領空に接近している一刻を争う緊急事態だ。これにあたる隊員の緊張と「もしかしたら」ということを考えると喜べる事態ではない。それは荒井も承知している。が、

「おーい、大樹、彩佳っ、F−2だっ、スクランブルだ。すごいぞ」

マニア根性が常識の壁を一瞬で破壊した。ロビーに戻り子供の手を取り走り出した時には、緊張感も国際情勢の危惧も荒井の頭の中から消し去られていた。目の前のF−2。何ヶ月ぶりだろうか、大手建設機械メーカーの日滝建機で開発設計の仕事をしている荒井には、趣味で平日休みを取れる余裕はない。

「頑張れ−」

アフターバーナーの轟音に負けないぐらい大きな声で応援する子供達の声に我に返る。

「頑張れー」

荒井も声を上げる。

そうだな「頑張れ」だな。5歳の息子と3歳の娘に何かを教えられたようで微笑ましい気分になる。自分はいつからこんな人間になったのだろうか、マニアだから?大人だから?

「さ、中に入ってアイスを食べよう。お父さんが買ってあげる。」

子供達の気持ちが嬉しくて小遣い制の固い財布の紐が思わず緩む。


ーーーーー霞ヶ浦上空ーーーーー

霞ヶ浦上空を大きな円を描いて旋回した2機のF−2戦闘機は南へ機首を向けて次の旋回点まで直線飛行を始めた。白く霞んでいた壁の向こうが彩を見せ始める。

「なにぃっ?」

鳥谷部は違和感の原因に気付くと、全身に鳥肌が立つような恐怖を感じた。こんな感覚は初めてだ。

無い。百里基地を離陸して間もなく目に入る成田空港。「こんな近くで大丈夫なのか?」と不安を感じるほど上空からは近くに見える成田空港が、無い。壁の向こうの景色には、それがあるべき場所には畑のパッチワークと森林が広がっている。

「キョウジュ。成田空港が見えるか?」

「無い、成田が無い。ゴリ、こりゃあ一体どうなってんだ。何か全体的にいつもと違う感じがしないか?報告しよう。」

いつもはどこかの教授のように知的で冷静な高山の声が上ずって早口になっている。

「了解。」

「百里タワー、エイワン。こちらマンモスリーダー。」

鳥谷部は深呼吸をしてから基地を呼び出した。

「マンモスリーダー。こちらエイワン。オーバー」

石山司令の声が先を促す。

「こちらマンモスリーダー。日本語で続けます。壁の向こうが見えました。ですが、成田空港がありません。」

「成田が無い?やはりあの白い光は核攻撃だったのか?」

「いえ、そうではありません。破壊されたのではなく、最初からそこになかったような感じに見えます。」

「ゴリ。どういうことだ、もっと客観的に言ってくれ。」

「エイワン。キョウジュです。簡潔に申し上げると、成田空港は存在せず、畑や山林になってます。破壊されたような跡はありません。」

さすがキョウジュだな、鳥谷部は2番機を振り返る。

 俺はこういう事は苦手だ。やっぱりアイツはキョウジュで俺はゴリだ。

どうでもいいことに感心する。それぐらい何か大きな不安が目の前にある

「エイワン了解。一眼レフを持ってるな。成田空港があった場所を撮影し、帰還せよ。んー、何だあれ?」

「マンモスリーダー。ちょっと待て。」

無線の向こう側のどよめきと、矢継ぎ早なエイワンの指示が鳥谷部達のレシーバーに溢れる。


ーーーーー茨城空港ーーーーー

「え?いやいやいや、ありえないでしょ。」

開いた口が塞がらない。というのはこのことだろうか、いや、それ以上に驚いている。顎が外れそうになった。というのは言い過ぎかもしれないが、とにかく驚いた。子供達の口の周りのソフトクリームを拭って、もう一度飛行機が見たい。と言う子供達に「もう何も飛ばないよ。飛行機にバイバイしようね。」と荒井がデッキに連れ出した時だった。今度は聞いたことのない音が耳に飛び込んできた。いや、正確には聞いたことのある音なのだが、重さが違う。セスナのようなエンジン音だが、あんなに軽い音ではない。地を這うような低い轟き。

「あ、ゼロ戦、お父さんゼロ戦。カッコいいねー。」

「そ、そうだね、カッコいいねー。」

荒井の笑顔が引きつる。

濃緑色の機体、確かにカッコいいけど、日本に飛べるゼロ戦があるなんて聞いたことないぞ。どこかのマニアが密かにレプリカでも作ったとか。

まあ、きっと金持ちのオッサンか誰かが零戦に相応しくないカジュアルな恰好で乗ってるんだろうな、挙句にジェットパイロットみたいなヘルメットを被って。

 それにしても空自(航空自衛隊)の基地に降りるとは大胆だな。

カメラの望遠レンズを向けた荒井は今度こそ顎が外れるほど驚いた。

「何だ、何で?ガチな。あれは」

言葉にもならず、無意識にシャッターを切る荒井のファインダーに風防を開けたコックピットが映る。そこには使い古した飛行帽に水泳のゴーグルを大きくしたような飛行メガネを付けた浅黒い顔の男が居た。歳は30前後に見える。よく特攻隊を題材にした映画で見る終戦間際のパイロットの姿だった。


ーーーーー百里基地管制塔ーーーーー

「こちら百里管制塔、進入中の航空機、応答せよ。」

スクランブル発進したパイロットの報告に慎重に耳を傾けていた管制塔がレーダー室からの警告で騒めく。

 レーダーが突如探知した目標が近すぎるのだ。一斉に双眼鏡を向ける面々、「なぜ?」を意味する様々な言葉が飛び交う。もちろん混乱しているわけではない、それぞれの役割の中で飛び交う「なぜ?」目の前に見えるものは日頃の訓練の想定外だが、その想定外にも備えるためにも訓練している。

「日本語でも呼びかけろっ。」、「警備隊を完全武装で駐機場に出せ。」、「地上作業員は屋内に退避。」

先程までスクランブル発進させた部下と交信していた「エイワン」こと石山第七航空団司令が、矢継ぎ早に指示を飛ばす。小柄で人懐こい童顔。制服を着ていなければ幼稚園の園長先生がハマり役。陽気な大酒飲みで、趣味は飛行機と人材育成の石山は、そんな見た目と裏腹に非常事態にはめっぽう強い。

「警備隊はラヴに機関銃を載せて行くように。」

石山の言うラヴとは、軽装甲機動車(LAV)のことで、大きさこそ大型SUV程度で4つの車輪に4ドアと聞けば自動車だが、装甲板で角張った見た目と太く大きな車輪、屋根の上には銃座を装備したれっきとした装甲車だ。その銃座に石山は機関銃を載せろと言っているのだ。いつも機関銃は載せていない。基地内を巡回する際にも銃座には盾のような装甲板があるのみだ。そこにあえて機関銃を搭載して行けと命ずる石山の命令、電話の相手に伝えるのを躊躇する部下の後を押すように石山は付け加えた。

「あれは本物だ。今現在、日本国内に飛行可能な零戦はいない。」

-それなら、どこから来たんですか?-

 返そうとした言葉を部下は飲み込んだ。

 自分が問おうとしていることが、どれだけ矛盾に満ちたことなのか、それに、その答えを自分が受け入れる自信などないのだから。

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