第6話 きっかけ

 茨城県笠間市、常磐線友部駅とそこから分岐し小山へ向かう水戸線宍戸駅の中間に存在した筑波海軍航空隊、住宅街には不釣り合いな幅広いY字路が、かつてのV字滑走路の名残りであるとわれても想像に難しい。だが、そこからさらに進み『茨城県立心の医療センター』の入り口に立つと、約400mもの真新しい直線道路の奥に敷地の広さに不釣り合いな程小さく見える茶色を基調としたモダンな病棟が見える。病院の建屋に比べて異様に広い敷地。再び手前に視点を戻すと直線道路の中程左手に病棟とは対象的に古びた2階建ての鉄筋コンクリートの建物が見え、その向かい側には、コンクリートで作られた朝礼台のような構造物があり、前方に廃校のグランドのように雑草がまばらに生える広大な土地が広がる。そもそも今どき重厚なコンクリート柱で門を構え、広大な敷地をフェンスで囲んだ病院自体が珍しい。病棟とは対象的に古びた門柱の隣、フェンスの前に立つ看板の「筑波海軍航空隊記念館」という大きな文字と、零戦パイロットの格好でデフォルメされたキャラクターが全ての違和感を解きほぐしてくれる。そう、ここは旧日本海軍飛行場の跡地であり、直線道路中程の古びた鉄筋コンクリートの建物が司令部庁舎、朝礼台も当時のままグラウンドと共に残っている。

 昨夜の航空護衛艦「かが」での式典に茨城県知事として招かれた篠崎は、ジャーナリストの古川と意気投合し、古川が訪れたいと言っていたこの「筑波海軍航空隊記念館」を案内していた。車寄せのように左右に弧を描く玄関へのスロープは、車を乗り入れる幅はない。人が歩くスロープへの贅沢な作り込みは横に広がる建物全体に風格を与える。戦後、与えられた風格とは縁のない中学校などいくつかの学び舎を経て病院として余生を終え、取り壊されることとなったこの建物は、有志の手により記念館として公開、寄付や署名を募って取り壊しの延期を繰り返してきた。その後、特攻隊員を描き大ヒットとなった映画のロケ地として一躍有名になったが、それでも取り壊しの未来変わることがなかった。しかし粘り強い活動の末、建物の保存が決定、市の運営に移行し隣に展示館が新築された。周辺には終戦間際に作られたと思われる地下司令部も発見されており、ますます戦争遺構としての価値が高まっている。

 スロープから何かを感じ取ろうとするようにゆっくりと歩いた2人は、玉のように噴き出る汗も拭おうともせずにグラウンドを眺める。あの日、1945年8月15日、真夏の正午、ここに整列したであろう人々は、何を思い、何を考えただろうか。

 

 

-----つくば大学 工学部 環境エネルギー工学科 高エネルギー研究室-----

 大学の日曜の朝は人もまばらだ。初老の守衛から受け取った鍵で防火扉のように重い鉄の扉を開けると冷気が汗ばんだ腕を撫でる。

 あの守衛もそうだが、英語を話さない日本人は、いつも意味不明な笑みを浮かべやがる。ムカつくぜ。文明人面しやがっても中身は猿だ。黄色い猿め。

「ま、奴らもこれで猿に戻れるってわけだ」

 リチャードは、苛立つ自分をなだめるように言うと、ブラウンアイに悪戯な光を宿して頷くリックに、顔を振って中に入るように促す。

 ゆっくりと扉を閉めると、真っ暗になったように感じる。

俺みたいな高貴な青い目は、ジャップの黒眼より暗闇に弱いと言われてるが、ここに入るといつも思う。今日はいちいち苛立つ。リチャードが悪態を突くより早くリックが照明のスイッチを入れる。コンビニエンスストア一軒分はある室内の景色が一気に目に入る。

「結局あの堅物は来なかったな。そもそもあの戦争で世界一小さな元・植民地王国になっちまったのはオランダなのによ。」

リチャードが吐き捨てるように言った。もちろん声は抑えている。

「まあ、俺の母国、偉大なる大英帝国も過去の栄光にされたがな。アントンは俺達みたいに学生じゃないし、国の研究所の上司がタカサゴと友達だそうだ。」

 リックがおどけて応じる。

「ジャップかぶれってわけか。まあいい。じゃ始めるか。」

「ラジャー」

リックは軽く敬礼の真似をして大型のブレーカーを両手で引き上げる。

 部屋のあちこちから電磁接触器が回路を接続する鈍い機械音が響き、冷却ファンが一斉に唸る。数秒遅れた電子音の甲高い短音を合図にしたかのように次々とディスプレイが点灯し起動画面を表示する。それらの機器群の中央には、ティッシュボックス大の白い箱が鎮座する。他の近未来的な機器とは対象的なその箱の前面にはノスタルジックなデジタル表示器とダイヤル。そして『Enter』と刻印された四角形の押しボタンスイッチが乳白色に光る。冷却ファンの回転数が下がり、部屋のあちこちに置かれたディスプレーがそれぞれの役割の待機画面に遷移すると、デジタル表示器を埋め尽くしていた赤い『-』表示が、今日、今の時間の表示に変わった。

「本当にいいんだな?」

ダイヤルを回してデジタル表示を『1940 04 01』にセットしたリックがリチャードを振り仰ぐ。

「もちろんだ。ジョンが向こうで待ってる。間違えるなよ。戻りは1945年4月1日からだ。ジョンと一緒に戻ってくる。場所は同じく俺の祖父の家だ。」

「了解。ここでいいな。もう一度確認してくれ」

メモを見ながらリックがキーボードで座標を入力すると、隣のディスプレイの地図上にアイコンが点滅する。

「ああ、間違いない。」

リチャードがきちんと画面で確認したのを見届けたリックは、『そういえば』と前置きしてリチャードの瞳を覗き込むように聞く。

「名犬ジョンがあんたを覚えていてくれるといいな。ところで、何で4月1日なんだ?」

「あー、言ってなかったけど、大した意味はない。エイプリルフールだ。世界中の人間がバカをやっていい日だ。ファッキンなシステムを開発したジャップへの感謝の気持ちさ。」

なるほど、と相槌を打って笑ったリックには、リチャードの瞳の奥が鈍く淀んだことに気づく訳もなかった。



-----4月1日 茨城県 西茨城郡 宍戸町-----

「敵機ぃ!退避ーっ、退避ーっ」

自転車に乗った整備兵がサイレンの音に掻き消されないように声を張り上げる。黄ばんでくたびれた白い上下の作業着、染み込んだ大小様々な黒い油汚れが機体整備の過酷さを語る。

 飛行訓練のために整備員が暖機運転していた俺の愛機、教官用の濃緑色も新しい零戦52型が動き出す。プロペラの風に飛ばされぬように白い帽子を脱いだ整備員は、操縦席から左腕を機体の外に出して支えるようにして頭を横に突き出している。尾輪式の零戦は、地上では上向きの姿勢になる。このため地上を移動する際は前が見えないからあの整備員のように顔を横に出して前方を確認する必要がある。続いて特攻訓練用の色褪せた濃緑色の零戦21型が同じく整備員の操縦で地上走行していく。敵機が来るのにパイロットが飛び乗るのではなく整備員が森の中に飛行機を隠していく。そして俺も防空壕へ向かって走る。敵機が来るのに戦闘機パイロットの俺は防空壕へ。

-幸い上空に味方機はいない。-

 ふと安堵した思考に、海軍准尉の墨田は自らに皮肉を覚える。

 敵機が来るというのに味方戦闘機が上空にいないことを幸いと考えるのは軍人として恥ずべきことかもしれない。だがこの基地の役割は零戦を使った特攻隊員の育成だ。

 上下に主翼の付いた『赤とんぼ』と親しまれた練習機で、これから大空へ羽ばたくパイロットの養成を行っていたこの基地の役目は、昭和19年(1944年)秋からは戦闘機パイロットの養成へと変わり、零戦と零戦をベースに2人乗りの複座型にした零練戦が配備された。それも束の間で昭和20年2月になると戦局の悪化により零戦を用いた特攻要員の養成へと変わった。最近は特攻要員の育成に加え実戦部隊の任務も加わり、俺たち教官は、特攻要員の教育を行いながら戦闘任務もこなすこととなり、零戦52型と最新鋭の紫電改が少数配備された。どうせ死ぬなら大空で戦って死にたい。この国を守って大空で死ぬなら本望だ。だが、実戦部隊としての俺たちは燃料不足と本土決戦に備えて温存されている。だから普段飛び回っているのは特攻訓練を行っている使い古された零戦のみ。離着陸と編隊飛行に計器飛行そして急降下での突入訓練。着陸を除いて全て特攻のための訓練だ。まともな訓練を受けていない彼らが上空にいたら、敵にとっては格好の標的、空飛ぶ鴨だ。彼らは鷲にはなれず鴨のまま僅か2ヶ月間の訓練で巣立つ。死へ向かって。第1筑波隊から第8筑波隊まで1部隊8機8名だから64名。その殆どが20代前半の予備士官だ。

 俺なんかが逆立ちしたって入れない大学、しかも名門大学の卒業を切り上げられて予備学生となった彼らを特攻隊員として教育し、送り出す俺。この戦争が終わったら日本に必要なのは俺のような職業軍人ではなく、彼らのように高度な学問を習得した人間だ。なのに俺がやっていることは、彼らに必ず死に方を教えている。敵を倒し我が身を守るのではなく、我が身を散らして敵を倒すことを教えている。敵艦へ急降下する零戦は、まるで心中するのを嫌がるように浮かび上がろうとする。それを抑え込んで自分もろとも命中させる。「最後の瞬間まで目を閉じるな」そう教え込んでいるが、そんなことできる訳がない。多分実戦経験豊富な俺にも無理だろう。26歳の俺にとっては弟みたいな年齢の連中が必死になって死ぬための訓練をしている。

「俺も必ず行く。」

 走りながら忌々しげに空を睨んだ墨田准尉の視界の中で、米粒大の敵機が上昇と降下を繰り返している。

 時折陽光を反射させるそれは、多分銀色に磨き上げられたP51Dムスタングだろう。硫黄島が占領されてからは、B-29の護衛はもとより、昼間堂々と飛んできて飛行場に機銃掃射をしに来る。それだけじゃない。農作業している人や水田で遊ぶ子供達、学校まで銃撃していく。彼らにとってはついでの寄り道程度なのだろうが、民間人を照準して撃つとは正気の沙汰じゃない。いや、そもそも日本人を人間だと思っていないのだろう。やつらの12.7mm機銃6丁の前では、生身の人間なんて紙屑同然だ。

 いつもなら、真っ先にこちらを銃撃に来るが、北東の空を乱舞している。陸軍の水戸南飛行場を襲っているのかもしれないが。いや、水戸ならもっと小さく見えるはずだ。

-もしかして奴ら-

 2月の末、基地の所在地でもある宍戸地区で国民学校の生徒が敵戦闘機に銃撃されて死んだ。普段この基地の零戦に目を輝かせていたに違いない少年を、基地の目と鼻の先で惨殺された。あんな悔しい思いはまっぴらだ。

 隅田は待機所に駆け戻り自転車に飛び乗った。さっき整備員が森の中に隠した零戦のエンジン音がまだ聞こえる。あれならすぐに飛び立てる。教官機は、訓練中に敵機に襲われた時を考え、武装した新型の零戦52型が割り当てられている。21型も52型も零戦には変わりないが、武装も速度も防弾性も52型の方が上だ。

「待ってろよ!」



「飛行機なんか、大っ嫌いだ!」

 畦道(あぜみち)から足を踏み外して田んぼの中に転げ落ちた僕は、機銃を撃ちながら真上を飛び去った銀色の戦闘機の後ろ姿を睨む。ふと手の中ですっかり絞られた緑の塊に気付き投げ捨てる。手のひらからこの場に不自然な香りが鼻をくすぐる。そうだ、お母さんが草餅を作ってくれるからヨモギを取りに来てたんだった。

「飛行機なんか、大っ嫌いだ!」

僕は再び叫ぶ。鬼畜米英!アメ公の飛行機も嫌いだし、こんなに近くに基地があるのに助けに来てくれないゼロ戦も嫌いだ。

 田植えに向けて田おこしをしてある田んぼの土は柔らかく、足をとられてうまく進めない。やっぱり畦道で逃げるしかない。畦道は田んぼの枠みたいなもんだから、空から丸見えだろうな。僕は畦道を走り出す。轟音が近づいてくる。敵機に狙われたら真っ直ぐ前に逃げずに反対方向に逃げるんだって、基地の人が教えてくれたけど、そんな簡単にはできない。

 土に銃弾が突き刺さる連続音が近づいてくる。

「お母さん、もう駄目だ。ごめんなさい。」

足をもつれさせて転んでしまった僕は、心の中の叫びなのか、口に出したのか分からないけど、母に詫びていた。

 転ぶと同時に頭を抱え込んだ僕の真後ろで音が止み、僕は暖かい空気と何かが焼けるような臭いに包まれた。直後に僕の背中を聞きなれたエンジンの音が後ろから前へと物凄い勢いで過ぎ去る。


「坊や、早く逃げるんだ!逃げろぉっ!」

 必死で止める整備兵の山中を突き飛ばして離陸した俺は、低空を全速で駆け抜け、子供の銃撃に夢中になっていた卑劣なP-51Dに20mm機銃の一連射を加えた。磨き上げられた銀色の機体から分離した主翼がひらひらと舞い上がり、バランスを崩した機体は一瞬で乾田に突き刺さり炎上する。こんな輩には、ありったけの銃弾を撃ち込んで火だるまにしてやりたいところだが、そんな余裕はこの国にはもうない。それにくらべてアメ公は、敵地の上空で戦闘をするのに迷彩さえ施さないギラギラと輝く銀色の機体、胴体には大きな女性の絵を描きこんで、その殆どは挑発的なポーズを晒している。ヌードを描きこむ奴さえいる。どこまでふざけた連中なんだ。

-そんな奴らに好き放題にされてる俺達はなんなんだ。-

 前方の乾田に突如列を成した土煙が見え、悔しさに苛立つ間もなく全身の毛が総毛立ち反射的に左に機体を滑らせる。やはり気付かれた。さっき落とした奴の仲間が3機いたのは確認済みだ。奴らは目立ちすぎるし隠れようともしない。超低空で接近した俺の愛機は上面を濃緑色で塗装されているから奴らには見つからずに近づくことが出来たが、仲間が撃墜されてようやく気付いたのだろう。

 ハッキリ言って、不利過ぎる。奴らの方が高度が高い、速度が速い、数が多い。こちらは超低空、速度も遅い、ノロノロと上昇しようものならハチの巣にされてしまう。超低空を逃げ回ってチャンスを掴むしかない。相手が見えている限り、空戦は諦めた方が負けだ。



-----つくば大学 工学部 環境エネルギー工学科 高エネルギー研究室-----

「何してるんだね?」

 急にかけられたかすれ声は、振り返らずとも分かる。高砂教授だ。

ダイヤルを回してデジタル表示を『1945 04 01』にしたリックの指先が、いや、全身が凍ったように動かなくなる。しまった、高砂教授のニックネームは忍者、65歳、年相応の白髪頭に痩せた長身・猫背。とても忍者には程遠いが、足音を立てない歩き方で気配をあまり感じさせない。このため教授に他意はなくとも研究に没頭している学生をしばしば驚かせる。

「何してるんだ!」

 強められた声音に、リックは反射的にポケットから取り出したバタフライナイフを回転させると振り向きざまに立ち上がる。刃物の形に変形したバタフライナイフが立てた金属音と、鈍い声がほぼ同時に響いた。

 長身をくの字に折って横たわる高砂の白衣がみるみる赤く染まり早くもベージュの床をも染め始める。生死の淵を彷徨っているだろう高砂の口は何も発しない。が、リックは気にも留めずに操作を続ける。今日は日曜日、しかも夏休みだから誰も来ないかもしれない。だが早い時期に誰かに見つかる。俺たちの企みを悟られてはいけない。自分が触ったスイッチ類をハンカチで指紋を拭き取ると、キーボードを端末から抜いて入念に拭く。一度に押されたいくつものキーが戻る乾いた音が妙に耳障りだ。

-落ち着けよ。-

息遣いが荒くなっている自分に言い聞かせる。初めて人を刺した。だがどうってことはない。教授は悪い人じゃなかったがジャップはジャップだ。

 一旦深呼吸をしたリックは、接続しなおしたキーボードの上にハンカチを広げ、その上から操作する。これなら指紋も付かないだろう。俺たちが操作した内容を消さなければ。そして、いかにも教授が実験中『何者かに』刺されたことにしなければならない。そうだ、金も奪っておこう。いや、どっちがいいんだ。この研究目当ての殺人にするか、不幸にも強盗に狙われたことにするか。まあいい。どう判断するかはジャップの腐った警官の想像力に任せよう。とにかく、履歴を消して、教授が実験の最中刺されたことにすればいい。リチャードを戻すのは、事が落ち着いてからにしよう。さっさとここから離れて、血の付いたナイフやシャツを片付けないとな。

 履歴を消したリックは、次に教授がやろうとしていたプログラム-広域大気汚染交換実験-茨城県全体の大気を他の時代の大気と交換する設定を起動すると、ハンカチを取り、他の端末の同型のキーボードと交換した。



-----茨城県 東茨城郡 下中妻村上空-----

 しつこくて下手なP-51Dの銃撃を左へ右へと横滑りで避けているうちに満蒙開拓義勇軍 内原訓練所の上空まで来てしまった。視界の左隅には常磐線の線路が並行して伸びる。眼下の広大な敷地には満州開拓のための農作業訓練場が広がり、大小の木造平屋の建物が点在する。しかし、これを過ぎるとまもなく水戸の街だ。銃撃を受けながら市街地上空を飛ぶわけにはいかない。かといって急旋回をするには高度が低すぎる。一旦上昇して急旋回をすべきだが、上昇に転じた途端に撃ち落されるだろう。もう少しだけ粘ろう。硫黄島まで戻る燃料を気にして奴らが諦めるかもしれない。



-----つくば大学 工学部 環境エネルギー工学科 高エネルギー研究室-----

 声が出ない。

 どれぐらいここで倒れていたのだろうか?

 あの男は確かウチの研究室の。駄目だ、何も考えられないし、何も思い出せない。目が回る感じで酷い吐き気がする。

 高砂は横たわったまま何とも表現しがたい違和感がする腹部へと手を伸ばす。

 なんだこれは。目の前に運んだ右手の状況が信じられない。血だ。そうか、俺はあの時刺されたのか。おぼろげながらも断片的な記憶が組み合わせれ始める。

「何かされていたら歴史が変わってしまう。」

 それだけは意識が朦朧とした高砂にも明確だった。

 腹をやられているためか力の入らない足を引きずるようにして床を這い、残された腕力を振り絞って体を椅子の上に引きずり上げる。眩暈と吐き気、眠気まで出てきて制御卓に突っ伏しそうになるのを必死に耐える。何やら『広域大気汚染交換実験』に関連した何かを、茨城県全域に何かをしていたようだ。駄目だ、目まで霞んできた。

「何をやっていたんだ。ん?1945年?」

 滲んだ視野に映る『1945 04 01』と示された赤いLEDセグメント表示に凍り付く。だがそれも一瞬、遠のきそうになる意識を堪えることが厳しくなってきた。

「とにかく、エリアブロックしなければ、」

 エリアブロック機能。「時空転換装置」は、あくまで大気や水資源を過去と入れ換えて浄化するのが目的である。過去に移転した汚れた大気や水は、その豊富な汚染のない大気や水で希釈され、さらに豊富な自浄作用で無害化される。その際に地上まで過去と転換しないように現状をブロックし、歴史と切り離す機能がエリアブロック機能である。高砂は、まず茨城県全域をセットした。が、そこまでだった。力尽きた高砂の上体が制御卓にのしかかると、システム全体が弾かれたように動き出した。



-----茨城県 東茨城郡 鯉渕村上空-----

 陽光で輝く千波湖の水面が目に映る。その向こうには水戸の街並み。いつもなら心癒される景色が墨田に決断を促す。

「もはやこれまでか。」

 振り返る墨田の視界の中で、3機のP-51Dが我先に射撃位置につこうと乱舞している。あれじゃあ当たらん。しかし、このまま水戸上空に連れて行くわけにはいかない。旋回をするためには少し上昇しなければならない。その時、機体上面を敵に晒すことになる。下手の銃撃でも必ず当たる。

 もう一度後方を覗うが状況は変わらない。こればかりは運を天に任せるしかない。

 スロットルを上げて増速し3,2,1、無意識にカウントダウンをする。

「ゼロ」

 操縦桿を若干引いて、左に倒しこむ。零戦が右よりも左旋回の方が得意なことは体に染みついている。 再び振り返った墨田の視野が真っ白になる。逆光の類ではない。眩しいというよりも、真っ白だ。

-あ、俺は撃たれたんだ。死ぬというのは、こういうことなのか-

 諦めというよりは安堵している自分に苦笑する。前も後ろも上も、みんな真っ白だ。

 一瞬の後、爆発音で我に返る。自分がさっきまでいた場所にコンクリートの巨大な橋が出現し火炎で包まれている。火炎は2つ、3機目は橋にぶつけたのか、尾部が大破してバランスを失い、弾かれたボールのように大塚池に水柱を上げる。湖畔に洋風の住宅が立ち並ぶが、あの形は大塚池だ。

「なんだこれは。」

 180度旋回を終えた墨田の目に、高さの異なる大きなビルが映る。明るい灰色のビルは側面の殆どをガラス張りにしている。

「どうなってるんだ。」

畑や水田に林、茶色と緑で彩られた大地は、灰色の道路と大小様々な建物そして少しの緑に色彩を変えている。

「何だあれは」

灰色の道路を埋める、よりどりみどりの原色系の粒、それらが自動車であるのに気づいて声を失う。

 無線で基地を呼び出すが、もともと調子の悪い無線機はいつも通りに雑音を発するだけだった。

「とにかく基地へ」

 前方の筑波山が見慣れた姿であることに妙な親近感を抱きつつ、基地へと急いだ。

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