第2話

 私は、物心ついたときから、病院で暮らしていた。


 病気で、二十歳はたちまで生きられないかもしれないと言われている。もう何年も前に教えられたことだから、最近は悲しいと思うこともなくなってきた。


 私は、日課である、病院の廊下の散歩をする。

 外出は無理だが、病院内で、お医者さんや看護師さんから見える範囲であれば、散歩を許されているのだ。ベッドの上にずっと居たら、ただでさえ少ない体力がなくなってしまうから。


 いつものように、入院病棟を一周していると、案内板の前でうんうん唸っている男の人を見つけた。

 私服で、元気そうな人なので、きっとお見舞いか迷子だろう。


「大丈夫ですか?どちらに行かれますか?」


 私が声を掛けると、男の人は「待合室」とだけ言った。

 無愛想な人だと思ったけど、とても泣きそうな表情をしているので、何かあったんだろうと思った。


 お友達のお見舞いに来たら、状態があまり良くなかったとかかな。

 私は心配になって、思わず尋ねた。


「あの、何かありましたか?本当に大丈夫ですか?」

「……僕……僕は……」


 男の人は、その場に膝を付いて、声を抑えて泣き始めてしまった。どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 知らない人だけど、なんだか私まで悲しくなってきた。


 私は男の人の横にしゃがんで、彼の頭を撫でた。私と同じように入院している小さい子が泣いてるとき、同じようにしていたからだ。


「何か、辛いことがあったんですね。実は、私もちょっと辛いです」


 慰め方がわからなくて、つい謎の共感をしてしまった。

 男の人はびっくりして涙が引っ込んだようで、私のことをぽかんと見ていた。


 恥ずかしい。そう思ってももう遅い。手は引っ込めたけど、一度してしまった行動や発言をなかったことにはできない。


 私が顔を赤くしていると、男の人は、困ったような顔で笑った。目を細めたから、目に残っていた涙が、彼の頬を伝って落ちた。


 胸がちょっと苦しくなった。この気持ちを、何と呼ぶのか、私は知らなかった。


 私達が案内板の前でしゃがみこんでいると、お互いの両親が、それぞれ違う方向から走ってきた。

 病院の中は走っちゃいけないけど、私達を心配してのことだったらしい。


 男の人の両親は、早く帰りたそうな様子だったが、男の人がそれを拒否した。


「君がいいなら、もう少しお話したい」


 私は、病院の外の話し相手ができることを嬉しく思い、是非と返事をした。彼の両親も最初は渋っていたが、私の両親がいいなら、と最終的には許可してくれた。私の両親は、快く受け入れてくれた。



 *****



 私の病室に6人はちょっと狭かったけど、私の体力があんまり無かったので、お話は病室で聞くことにした。

 私達の両親は気を遣ってか、少しだけ離れたところに椅子を並べ、大人同士でお話している。


 私はベッドに座り、彼はベッドの横の椅子に座った。

 そして、私は彼のいろいろな話を聞いた。


 去年、高校卒業の少し前に事故に遭ったこと。

 そのことを、彼は覚えていないということ。

 事故から1年程経った今朝、1年分の記憶を失っていたこと。

 それが、来年以降も続くかもしれないこと。


 それは、とても辛いことだと思った。彼の心は、高校を卒業できないまま、毎年記憶の欠落について自覚が無い日を迎えるかもしれないのだ。彼の両親も、記憶を失くした彼と、毎年向き合わなければいけないかもしれない。


 私は悲しくなって、我慢できなくて、泣いてしまった。

 周りのみんなが心配そうに私を見ていたが、止められなかった。


「それは、辛くて、とても怖いですね……せっかく、助かったのに……」

「ありがとう。君は、優しいね」


 彼は笑った。その目はさっき泣いたせいで赤く腫れている。

 それでも、私を安心させるために笑っていると感じた。彼の方こそ、優しいのだ。


「そういえば、君もちょっと辛いって言ってたけど、何かあったの?」


 彼はそう尋ねてきたが、「入院してる子に何かあったのなんて、失礼だね。ごめん」とすぐに頭を下げた。

 ほら、やっぱり、優しい人だ。


 私は涙を拭いて、精一杯の笑顔を見せた。


「私、あと4年、生きられるかどうかなんです……悲しくはないです。でも、病院の中は少し寂しいから、たまに遊びに来てください」


 ずっと、お友達が欲しかった。病院の中にもお友達は居るけど、外の世界に触れたかった。


 彼は、また泣き始めてしまって、それでも何度も頷いてくれた。



 *****



 それからというもの、彼は毎日のように遊びに来てくれた。


 私が食べられる物をちゃんと確認して、美味しいものを買ってきてくれた。

 スマホで外の写真を撮って、いっぱい見せてくれた。

 外であった楽しいことを、教えてくれた。


 私には何も返せるものがなくて、ある日、もっと外の世界に居てもいいと伝えたら、一旦断られた。


「僕は、楽しいからここに来てるんだ。君の優しさには、甘えてしまっているけど……ごめん。来年からは、僕のことなんか気にせず生きて」


 彼が、申し訳なさそうな顔をしていたので、私は大きく首を横に振った。そういう意味で言ったんじゃない。


「来年、もしあなたが忘れていても、私は覚えてるから!また、一からお友達になるから!再来年も、その次も!」


 私が生きている限り、あなたを毎年見つける。

 そう決心した、1年目の夏だった。



 *****



 彼と出会ってちょうど1年後、彼は、案内板の前でうんうん唸っていた。


 それを見つけたとき、頭に衝撃が走ったような気がした。


 彼は、この1年で、入院病棟の地図を覚えていて、迷うことなどなかった。再び案内板で唸っているということは、記憶を失っているということだ。

 そこで、私は気付いた。もしかしたら、記憶の欠落が二度と起きないかもしれないなんて、期待を抱いていたことに。


 泣きそうになるのをぐっとこらえて、袖で目元を覆う。

 少し深呼吸して、彼に話し掛けた。


「もしかして、迷われてますか?案内しましょうか?」


 案内を口実に、また遊びに来てくれるようにお願いしよう。


 彼との2年目が始まった。



 *****



 3年目の彼も、同じように案内板の前に居た。さすがに、彼の記憶の欠落は毎年起きるのだと確信した。


 でも、1年目の約束通り、私は3年目も彼とお友達になった。


 彼は毎年、美味しいものを買ってきてくれた。


 3年目、彼のスマホはガラケーに変わっていた。

 記憶の欠落により、周囲に置いていかれることが怖くなって、交遊関係を絶ってしまったらしい。


 外での楽しいことを話す頻度も、年々減っていた。

 きっと、彼の中でのショックは、毎年大きくなっている。彼の心は18歳で止まっていても、彼の体は年をとるのだ。その年齢差は、当たり前だけど、毎年広がっていく。それに伴って、ショックが大きくなっているのだろう。


 それと同時に、彼の心が麻痺してきたのではないかと思う。彼は、1年目のように、自分の境遇について泣くことは二度と無かった。


 私はというと、2年目3年目と、自分の寿命については話さなかった。なんとなく、寿命のことで同情を買っているような気になったからだ。

 ただ、ずっと入院していることは伝えているので、私がもう長くないことは察しているかもしれない。



 *****



 3年目の冬、私は車椅子を使い始めた。もう、自分の力で歩くことすら難しい。私はもうすぐ19歳になる。あと何ヵ月生きられるかわからない。


 来年は、彼と出会うのはやめたほうがいいかもしれないと考え始めた。彼は、きっとすぐに私のことを忘れてくれるだろう。それでも、私が死んだ後の何日か、何ヵ月か、彼は悲しさで苦しむかもしれない。その姿を想像すると、怖くなった。



 *****



 4年目も、案内板の前で唸っている彼を見つけた。

 今年は出会うのをやめようと思っていたのに、私は彼を見つけたとき、嬉しくなった。


 きっと今年が、私の最期の年だ。だったら、わがままを通してみよう。

 これは、私のわがままだ。最期まで彼と過ごしたいという、最期のわがままだ。


「待合室がある棟なら、2階か1階の連絡通路から戻れるよ」


 彼に声を掛けて、目が合うと、嬉しくて微笑んでしまった。今年も彼の出会えた。


 彼は少し驚いたような顔をして、口を開いた。


「どうして、僕が待合室に戻りたいってわかったの?」


 その質問は、去年もされた。さっきまで嬉しかったけど、この出会いの瞬間はやっぱり慣れない。

 私が死んだ後、彼が私を忘れてくれることがありがたいのに、今は私を忘れてしまっていることが、ちょっと悲しい。


「君みたいな元気そうな人、入院してるわけないもの」


 質問に答えると、彼はやってしまったという顔になった。

 その顔を見て、私は自分の悲しさが表情に出してしまっていたと気付く。

 彼はすぐ謝罪してくれて、私もすぐ許した。そして、慣れた言葉を口にする。


「その代わり、また遊びに来てね」

「わかった。必ず来るよ」


 彼の回答も、毎年変わらない。私はまた、嬉しくなった。



 *****



 4年目はきっと最期になるから、私は、自分の寿命について彼に伝えた。私はきっと、もうあと数ヵ月で死ぬのだと言うと、彼は唇を噛み締めて、黙り込んでしまった。


 きっと、記憶の欠落について話すべきか悩んでいるのだろう。彼は今年、記憶の欠落について、私に話していない。

 私がそれを知っていることも、彼は知らない。


 自力でベッドから起き上がれなくなった私を見つめて、彼はずっと黙っている。


「小さい頃からわかってたことだから、そんな顔しないで。でも、お願いがあるの」


 私はそう言うと、彼は十数秒悩んで、「何?」と聞いてくれた。


「私を忘れないで」


 我ながら、残酷なお願いだと思った。

 彼は毎年、お医者さんから記憶の欠落の説明を受けている。今年も受けているはずだ。

 そんな彼に、「忘れない」なんて、出来るわけがない。それでも、確実じゃなくていいから、彼の心のどこかに棲まわせてほしかった。


 彼は、震える手で私の手を取り、こう答えた。


「忘れないよ。約束する。絶対に忘れない!」


 嘘つき。出来ないくせに。忘れちゃうくせに。

 でも、そう言ってくれた彼の優しさが嬉しくて、私は笑顔になった。


 これから死ぬまで、毎日のように「忘れないで」って言うだろうけど、残酷な私を許してね。



 *****



 私は、とうとう20歳の誕生日を迎えた。

 だけど、もう、無理だと思った。今日が本当に最期なんだと思った。


 昨日の夜、病室は移動になり、いっぱい管を繋がれた。家族以外には会えないと言われた。

 お医者さんや看護師さんが付きっきりで私を診ている。私の心電図の音と、周りの大人達の話し声が、病室に響いている。


 せっかく誕生日なのに。今日が、彼の記憶が持つ最後の日なのに。


 病室の外から話し声が聞こえてきたかと思うと、お母さんの泣き叫ぶ声が聞こえてきた。


 泣かないで。私は、お母さんの娘で幸せだよ、って言いたいのに、呼吸器や管が邪魔で声が上手く出せない。


 お母さんの泣き声が止まって数分後、両親が病室に入ってきた。

 お父さんの手には、花束が抱えられていた。


 お父さんがそっと、私の前に花束を差し出す。誕生日だからかな。

 お礼を言いたくて口を動かすけど、やはり上手く声が出せない。それを見兼ねたお父さんが、管を外すようにお医者さんに言った。

 お医者さんや看護師さんとお父さんはしばらく相談していたが、私の人工呼吸器や管はほとんど外された。


 やっとお礼を言える。


「お父さ……お母さん……私、幸せだよ……二人の娘で……幸せ……泣かないで。私は……悲しくない、から……ありがと……」


 人工呼吸器を外してもらっても、声が掠れて上手く喋れなかったけど、二人は顔を近付けて、私の話を熱心に聞いてくれた。涙を溢しているけど、その顔は笑っている。

 よかった、私の気持ちはちゃんと伝わったみたい。


「なあ、この花束な、父さん達からじゃないんだ。これは……」


 お父さんが何か言ってるけど、すごく眠い。私がまぶたを閉じると、お母さんが私の肩を揺らして起こそうとしながら、嫌だと叫んでいる。


 私は小さく「まだ大丈夫」と呟いて、一旦眠りについた。



 *****



 まぶたが重い。でも、お父さんの話を聞かなきゃ。

 目が開けると、お母さんが私に抱きついてきた。ずっと側に居てくれたみたいだ。


 私が寝ている間、管や人工呼吸器を着けていたらしく、またそれらを取ってもらった。


 お父さんを探すと、すぐ見つかった。お母さんの横に居た。

 お父さんは、改めて花束を差し出す。


「これは、彼がくれたんだ。『お誕生日おめでとう』って。『どうしてもお祝いしたい』って、言ってくれたんだ……」


 頭がぼうっとして、お父さんの言葉を理解するのに少し時間が掛かった。理解できたら、すごく嬉しくなった。


 彼と、最期にもう一回話したい。


「電話……電話、したい……」


 私がそう言うと、両親はお医者さんに頼み込んで、私のスマホを病室まで持ってきてくれた。

 お母さんは彼に発信して、スマホを私の顔に当ててくれた。

 私が自分で動けなくなってから、電話はいつもお父さんかお母さんがこうやって、掛けさせてくれていた。


「もしもし?」


 2回の呼び出し音の後、彼はすぐに電話に出てくれた。

 いつもより優しい声に聞こえる。花束を持ってきてくれたということは、彼もきっと私の状態をわかっている。


 私は頑張って、息を吸った。


「花束、ありがとう……すごく、嬉しい……」

「うん、どういたしまして。よかった、喜んでくれて」


 彼の声が震え始める。


「あのね、私ね……知ってたよ……あなたの、記憶のこと……4年前から……」


 電話の向こうで、彼が息を呑むのがわかった。


「私、たち……4年前から、お友達……だった……毎年、出会って、た」


 花束をくれたのは、今年が初めてだったけど。だから、余計に嬉しかった。


「『忘れないで』なんて……いじわる、だったね……ごめんね」

「そんなことない!僕こそごめん!何回も忘れて……」


 彼の、鼻をすする音が聞こえる。優しい彼は、出会ったときからけっこう泣き虫だ。

 つられて、私も涙を我慢できなくなる。お父さんが、私の涙をハンカチで優しく拭ってくれる。


「私のこと、忘れても、いいよ……でもね……私、あなたのこと……好きだった……幸せに、なってね……」


 私はきっと、初めて出会ったあの日、彼の優しさに心を奪われたのだ。


「忘れたくない……忘れたくない!僕も、きっとずっと君のことが好きだった!覚えていないだけで、毎年君の笑顔に恋をしていた!」

「……嬉しい……さよ、なら……」


 母に電話を切ってもらった。


 嬉しい。すごく嬉しい。

 よかった。彼の人生に呪いをかけたくなかったから、彼が記憶を失わないなら、私は告白できなかった。彼の気持ちも知ることができなかった。

 でも、きっと、明日には1年分の記憶を失う彼になら、この告白は呪いにならないだろう。酷い話だけど、初めて、彼の記憶の欠落に感謝する。


 幸せだ。満足だ。周りの人から、充分すぎるほど、たくさんのものをもらってしまった。


「お父さん、お母さん……ありがとう……愛してる……幸せに……」


 私は、体から力が抜けていくのを感じながら、深い深い眠りについた。

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私を忘れないで 六佳 @Rhodonite

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