私を忘れないで
六佳
第1話
僕が彼女と出会ったのは、病院の中だった。
当時、僕は交通事故に遭い、逆行性健忘とやらになったらしかった。
らしかった、というのも、「逆行性健忘は事故以前の記憶の欠落がある」という説明は聞いたが、僕には事故の記憶も、記憶の欠落の自覚も無いからだ。
幸い、事故の怪我は軽かったらしい。「頭を強めに打ったものの、外傷はほとんどなかったよ。怪我に関してはよかったんだけどね……」と医者が言っていたのをなんとなく覚えている。
僕は、診察や検査が終わると病院内を散策することにした。
なんせ、大きな総合病院だから、患者が多くて会計まで何十分か待たされるのだ。
付き添いの母はひどく心配していたが、さすがに着いてこようとするのは、恥ずかしいのでご遠慮いただいた。
考え事をしながら散策していたので、気付けば迷子になっていた。
入院病棟に来てしまったことはわかったが、情けないことに、戻る道がわからなくなったのだ。
案内板を見つけたが、現在地の表示がなかなか見つからない。
僕が案内板の前でうんうん唸っていると、彼女が話し掛けてくれたんだ。
「待合室がある棟なら、2階か1階の連絡通路から戻れるよ」
優しい声だった。
彼女は車椅子に乗っていて、身体は全体的に細かった。一目で入院患者だとわかったが、表情はちっとも暗くなかった。声と同じように、優しい眼だった。微笑むと、空気が少し暖かくなったような気さえした。
でも、何故、僕が待合室に戻りたいってすぐわかったのか。僕がそう尋ねると、彼女は悲しそうに笑った。
「君みたいな元気そうな人、入院してるわけないもの」
彼女に言われて、やっと僕は気付いた。確かに、入院病棟に居る元気な人は、お見舞いか迷子くらいだ。お見舞いの人間は、きっと受付やナースステーションで病室の場所を聞いてくるだろうから、案内板を見ているのは、迷子くらいということになる。
彼女の表情を曇らせてしまったことが、僕の心に突き刺さる。心臓が刺すように痛いとはこういうことか。
「失礼なことを聞いた。ごめん」
「ううん、いいんだよ。その代わり、また遊びに来てね」
彼女はすぐに許してくれて、僕は必ず遊びに来ると約束をした。
*****
最近聞いた話だが、彼女は幼い頃から「
もうすぐ、彼女と出会って1年程経つ。
もうすぐ、彼女の20歳の誕生日が来る。
*****
僕は通院日以外も、毎日のように彼女の病室に顔を出していた。
ちなみに、母は未だに心配しているが、彼女のことを話すと、病室に通うことだけは許してくれた。
彼女はここ数ヶ月で、車椅子に乗ることすら、めっきり減ってしまった。もともと細かった身体は、もっと痩せ細ってしまい、動かすこともできないようだ。
そして、毎日のように僕に同じ事を言う。
「私を忘れないでね……」
僕は毎回、彼女の手を取ってこう答える。
「忘れないよ。約束する。絶対に忘れない!」
でも、彼女は毎回悲しそうに笑うんだ。出会った日のように。
彼女はきっともうすぐ亡くなる。しかし、僕はこれからも長い人生を生きていくことになるだろう。その差が、人生の理不尽な長さの差が、彼女をこんな表情にさせているのかもしれない。
この病室に通うのを辞めることもできる。だが、僕はそうしない。日に日に弱っていく彼女を見捨てることはできないし、何より僕が嫌だった。できるだけ、彼女の側に居たいのだ。
*****
とうとう迎えた、彼女の20歳の誕生日。特別な日だ。
父のアドバイスで、花束を買った。花屋のお姉さんの視線がとても恥ずかしかったけど、彼女が喜んでくれると思うと、嬉しさの方が勝ってしまった。
彼女の病室に行くと、そこに彼女は居なかった。慌ててナースステーションに行き、何があったか尋ねると、面会謝絶になっていた。病室も移動し、家族以外は会えないらしい。
せめてと思い、病室の前まで行くと、彼女の両親が病室に入ろうとしているところだった。
彼女の両親は僕を見つけると、深々と頭を下げた。
「あの子の側に居てくれてありがとう。あの子は、あなたのおかげで、
そう言った声は震えていた。彼女の母親の、すぐ下の床にポタポタと滴が落ちる。
「あの、これ……お誕生日おめでとうございます。多分、部屋には持ち込めないですけど……どうしても、お祝いしたくて……」
僕の声も震えた。なんとか笑顔を作ったが、涙をこらえるので精一杯だった。
彼女の両親が顔を上げる。母親はすぐ俯いて、静かに涙を流し、父親は真っ赤な目で僕に微笑みかけてくれた。
彼女の父親が泣けないのに、僕なんかが泣くわけにはいかない。
彼女のための花束を渡して、僕は病室を後にした。
廊下の角を曲がる瞬間、彼女の母親の泣き叫ぶ声が聞こえた。
*****
目覚まし時計の音で目が覚める。いつも通り、洗面所で顔を洗ってから、リビングへ行く。
「母さん、おはよう」
母を見つけて挨拶をする。しかし、返事をしてくれたものの、母は何故だかとても暗い顔をしている。
どうしたのか尋ねようとしたら、父がリビングに入ってきた。父に挨拶をしようとして、父も暗い顔をしていることに気付く。
「えっと、何かあった?父さんも母さんも、暗い顔してるけど……」
僕は尋ねる。二人は答えない。沈黙が流れる。
何が何だかわからない。僕は困惑していると、ようやく母が口を開いた。
「今日は、どこか行くの?」
「えっ……」
一体何を言っているんだろう。
「どこって……学校に行くけど……」
僕が答えると、母は怒ったような、悔しそうな顔をして、数秒後には泣き崩れてしまった。
僕はさらに困惑する。学校に行って何が悪いのだろう。
床にうずくまり、泣き続ける母に、父がそっと寄り添う。母の背中を、小さい子どもをあやすようにさすり、なんとか宥めようと声を掛ける。
「お医者様が言ってたじゃないか。いつか治るかもしれないって。毎年のことだ。そろそろ慣れるしかないと思うよ」
「治らないわよ!もう5年もこうなのよ!慣れもしないわ!私達もそうだけど、あの子がどんな思いだったか!」
今度は怒り始める母。恐る恐る母に箱ティッシュを差し出すと、母はやや乱暴にそれを受け取り、鼻をかんでゴミ箱にティッシュを投げた。
ティッシュはゴミ箱の縁に当たり、床へと転がる。それを拾って、改めてゴミ箱に入れようとすると、ゴミ箱の中のレシートが目に入る。花屋のレシートだ。
花を買う習慣は両親にはないし、ましてや自分が買った記憶などない。そして、日付が気になった。
何故、5年後の日付なのだろうか。
「ねえ、このレシート変だよ?5年後の日付って……」
両親に問い掛けると、母はまた泣き崩れ、父は僕から目を逸らしてテレビをつけた。
おかしい。テレビのニュースも5年後の日付を言っている。
父を見ると、父は今にも泣き出しそうな顔になっていた。
「お前は、5年前に事故に遭った。それから毎年、今日の日付になると、1年分の記憶を失っているんだ……お前、まだ自分が高校生だと思ってるだろ?でもな、お前はとっくの昔に高校を卒業したよ」
わけがわからないことを言い出す父が怖くて、僕は後退りする。
「父さん、どうしたの……?」
「あなた、病室のあの子のこと知ってる?」
次は母がわけのわからないことを尋ねてきた。病院のあの子って誰だ。そもそもどこの病院のことだ。
僕の困惑が顔に出ていたのだろう。母は、僕を見ながら唇をぎゅっと噛んで、涙を流していた。
その責めるような涙に、僕は動けなくなった。
*****
「今年も来たね」
ちょっと疲れた表情の医者が、そう言って、父と同じような事を説明し始めた。
今は近所の大きな総合病院の診察室に居る。
困惑して固まる僕を、両親2人がかりで無理矢理支度させ、車に突っ込んで、ここまで連れて来たのだ。
僕は今23歳で、高校卒業の少し前に、交通事故に遭ったらしい。そして、逆行性健忘とやらになったらしい。
「頭を強めに打ったものの、外傷はほとんどなかった。怪我に関してはよかったんだけどね……」
パソコンに表示されたカルテを見ながら、医者は遠い日を思い出すように言った。いや、僕が覚えてないだけで、本当に5年前のことを思い出しているのだろう。
両親は質の悪い冗談を言うタイプではないし、医者も同じ事を言っているのだ。これ以上疑っても不毛だと思い、僕は、僕の記憶の欠落について信じることにした。
「逆行性健忘だけだと思ってたんだけど、事故から1年後に、君の記憶は1年分消えていた。その翌年の同じ日、前の年と同じように記憶が消えていた。もうわかってると思うけど、事故後の君の記憶は1年分しか持たない……」
すぐに異常に気付いてあげられなかった私達の責任だ、と医者は頭を下げた。
僕は、自覚が無いことで謝られても困るし、医者を責める気にはなれなかった。
*****
診察や検査が終わり、会計までの数十分間。
暇を持て余すことになったので、僕は病院を散策することにした。
そういえば、僕はスマホを持っていない。数年前に、交遊関係を断ったかららしい。
一応、連絡用にと両親からガラケーは持たされているが、電話以外は使えないと言われている。おそらくだが、僕の通院や検査にはお金がかかる。いろいろできるスマホではなく、安いガラケーで充分だ。
そして、事故から数年後の僕は、友人との時間の差が怖くなったのだと思う。今の僕が怖いのだから、きっとそうだ。
僕はこのまま、1年毎に記憶を失うのだろう。
治る見込みがないわけではないが、治療法があるわけでもないと聞かされている。それは、「治らない」という意味にしか聞こえなかった。
同級生が就職して社会の役に立ち、友人が結婚して幸せな家庭を築いたとしても、僕だけが毎年18歳のまま取り残されるのだ。こんなに怖いことがこの世にあるなんて、思いもしなかった。
ふと、周りを見ると、見覚えのない病棟に着いてしまっていた。様子を伺うに、どうやら入院病棟らしい。
しかし、情けないことに、考え事に熱中しすぎて、どこから来たのかわからなくなっしまった。
案内板を見つけたが、現在地がなかなか見つからない。
僕が案内板の前でうんうん唸っていると、誰かが僕に声を掛けてくれた。
「あの、あなた、もしかして、迷子かしら?」
「えっと、その……はい。恥ずかしながら」
僕は照れ隠しにヘラッと笑って返事をする。
僕に声を掛けてくれたのは、僕の両親と同年代と思われる女性だった。彼女の目は真っ赤に腫れ、憔悴しきった顔をしている。
なんとなく、きっとご家族が亡くなったんだな、と察した。
彼女は親切にも、僕に戻る道を教えてくれた。辛そうなのに、僕に笑いかけてくれて、優しくしてくれる、とてもいい人だ。
僕がお礼を言って戻ろうとすると、奥の方から彼女より少し年上ぐらいの男性がやってきた。
その男性は僕を見て一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで、こう言った。
「花束をありがとう。私達はこの街を離れることにしました。お元気で。」
花束とは何の事だろう。お元気で、と言ってもらえるような関係でもないし。
数秒考えて、僕はある可能性に気付く。きっと、僕が記憶を失う前に出会っていた人達ではないだろうか。
確信は持てないし、覚えていませんなどと言えば失礼かもしれない。この街を離れると言っていたし、おそらく二度と会うことはないだろう。
僕は話を合わせることにした。
「いえ。どういたしまして。」
僕は今、ちゃんと笑えているだろうか。朝から困惑してばかりで、表情が上手く作れない気がする。
僕は二人に軽くおじぎをして、先程教えてもらった、待合室への道を戻り始めた。
すると、すぐにポケットの中の携帯電話が震えだした。焦って携帯電話を開けると、母からの着信だった。
電話が許可されている階段に行き、応答する。
母はまだ少し涙声だったが、会計が済んだから戻って来てほしいとのことだった。
すぐ戻る旨の返事をして、僕は電話を切った。そしてすぐに、どこで待ち合わせるか聞くのを忘れていたことに気付く。母も電話をしてきているので、きっと外か階段だ。
今どこに居るか聞こうと思い、僕は携帯電話の発着信履歴を開く。
リダイヤルですぐ電話するつもりだたが、僕の指は固まる。
発着信履歴にある、僕の知らない――いや、覚えていない名前に、目を奪われた。
この人に関しては何も思い出せないし、顔や声すら浮かばない。
それでも、空気が暖かくなったような気がして、何故か涙が溢れた。
去年の僕にとって、大切な人だったのだろうか。その名前は、発着信履歴をほとんど埋めていた。埋め尽くしていた。
その名前の最後の履歴は、昨日の夜の着信だった。
僕は電話に出たらしく、数分程通話した記録がある。
僕は、去年も記憶の欠落について説明を受けていたのだろうか。受けていたのであれば、最後の日に、この子にお別れを言えたのだろうか。
どうしてだかわからないけど、この子は、もうどこにも居ない気がした。
僕は着信履歴を眺めつつ、誰もいない階段で、止まってくれない涙を、しばらく袖で拭い続けた。
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