社長夫人と副社長
社長夫人で経理部長の茜と南副社長は社長任せにせずに工場の処理状況を直接確認するようになった。そのついでにたびたび環境事務所にも顔を出した。小笠原社長の車はフォルクスワーゲンビートルなのに、二人の車はおそろいのトヨタレクサスGSハイブリッドだった。小笠原商事の経営実権は事実上この二人が握っており、小笠原社長はせいぜい工場担当役員扱いだった。
「今日も工場を見てこられたんですね」環境事務所に寄りこんだ茜に伊刈が言った。
「ええ最近毎日来てるわ。社長ではだめだってことがよくわかったから、これからは私と副社長が工場も管理します」
「牛舎は見られましたか」
「牛舎ってなに?」
「第二処分場と言ったらいいでしょうか」
「そんなところ知らないけど」
「それじゃご案内しましょう」
伊刈は茜と南をXトレールに乗せて米沢工場長に教えてもらった廃牛舎の現場に案内した。泥道にレクサスを誘導するのは忍びなかったからだ。
「ここですよ。長靴をお貸ししますから履き替えてからついてきてください」
茜は素直にパンプスを脱ぎ、ミニスカートの生脚にゴム長靴という小学生のような姿で伊刈のあとについてきた。
「伊刈さん、これはどういうことですか」谷津に流し込まれた大量の食品残渣が放つ腐敗臭に絶句しながら南が聞いた。
「見てのとおりですよ。無許可処分場設置あるいは不法投棄といってもいいかもしれません。発覚すれば許可取消し、いや刑事事件にもなるでしょうね」
「もう発覚してるじゃないですか」
「警察にはまだ通報していません。改善してくれればいいんですよ。小笠原商事には立ち直る実力があるでしょう。許可を取消すことが僕の仕事じゃない。現場の問題を改善し、立ち直れる会社が必要なんです」
「この現場を不問にしてくれるってことですか」
「そんなことは言ってません。改善をお願いしているんです」
「ここを片すにはどれくらいかかりますか」
「わかりませんが最近の二年間に入荷した食品残渣の少なくとも半分がここに投棄されていると思います」
「それじゃ受注額にして二十億円じゃないですか」
「残りの二十億もどこに行ったかわかりませんよ」
「伊刈さん、これは大変なことですね。こんな会社にしてしまったとは情けないことです。こんなつもりじゃなかった。会社を大きくしたかっただけなんです」
「南さんの仕事は契約を取ることですからね」
「工場でちゃんと処理してくれてるとばかり思ってました」南は泣きそうになりながら現場を見つめていた。
「伊刈さん、もういいかしら。これ以上いたらあたし倒れそう」茜が悪臭に鼻をつまみながら言った。その言葉に反してちっとも倒れそうには見えなかった。
茜はしたたかだった。環境事務所に毎月報告書を提出して搬入制限の指導に従っているように見せかけながら、実際にはなんらの措置も講じておらず、佐渡を初め何人かのブローカーを介した農地造成偽装投棄も続けていた。伊刈も根気よく連日の立入調査で違法な産廃の搬入と出荷を差し止めようとした。伊刈と茜のタイマン勝負が続いた。
「なぜ荷が減らないのですか」環境事務所に立ち寄った茜に伊刈が言った。
「お客様にお願いしているのですが他に振替える施設が見つからないと言うんです。もうちょっと待っていただけませんか」そんなやりとりが続くばかりで工場の廃棄物保管量はかえってどんどん増えていった。
「原料ヤードと熟成ヤードの区別が完全になくなってしまいましたね。これではもう工場は動いていないのと同じですよ」
「そう言われましても出すところがないんです」
入荷した食品残渣が工場のあらゆる場所に直接持ち込まれてそのまま積まれていた。もはやローダーで切り返すスペースもなかった。八メートルある熟成ヤードの建屋の天井まで残渣が満杯になり、数百トンもの加重で鉄板の壁が歪み鉄骨の柱が基礎から抜けて動いてしまった。これ以上積めば建屋が崩壊し兼ねなかった。しかし工場がどんなにひどい状況でも茜は受注を減らすつもりはないようだった。
「全面的な搬入中止を命じます」伊刈はソフトランディングでの改善はムリだと判断して厳しい措置を命じた。もはやギリギリの状況だった。
「しょうがないわね」茜は諦めたように言った。
「客先に搬入中止を知らせる文書を作ってFAXで送ってください」
「わかりました」
翌日、茜は契約先に搬入中止を告知するFAXの文案を持参した。
「これを昨日のうちにすべての取引先に送ったわ。送付リストも持ってきたからほんとに送ったか確認してちょうだい。これでいいのね」
しかし実際にFAXを送信したのはどうでもいいスポットの顧客だけで大口の顧客には送信していなかった。茜は見せかけだけ昼間の搬入を停止し、伊刈のチームが工場から引き上げた五時以降に搬入を続行させた。翌朝点検してみると廃棄物は明らかに前日よりも増えていた。
「どうして売上高を維持することにそんなにこだわるんでしょうか。施設の能力が受注に見合わないことは十分理解していると思うんですが」悪化する一方の現場を見ながら喜多が伊刈に問い掛けた。
「一度休業したら逃がした客は戻ってこないから踏み切れないんじゃないか。それとも京浜エコタウンに巨額の投資をする計画があるからかな。南副社長は商社出身だろう。この時期に売上高が減ると銀行融資が難しくなり、資金計画が狂えば都の応募に落選すると心配してるんだろう」
「それじゃ黒幕は副社長ってことですか」
「それはどうかな。社長夫人は会社はもうだめだと観念して積み逃げするつもりなのかもしれないな」
「現場を保全するにはマーキングするしかないですよ」遠鐘が言った。
「うんそうだな。名案かもしれない」伊刈が頷いた。
その日のパトロールでは遠鐘の提案どおりに赤いラッカースプレーで搬入された汚泥の末端にマーキングし、ポールまで立てて写真を撮った。これが功を奏しようやく表面的には工場への搬入が止まった。それでも受注は減らさずにどこか別の搬入先に直接振り替えている懸念はぬぐえなかった。
「工場を正常化するには場内を一度きれいにする必要がありますね」汚泥が道路まで溢れそうになっている現場を前にして伊刈が茜に言った。
「どうしたらいいかしら」
「このままではいつまでたっても汚泥は熟成しませんね。どこか別の場所に移動しないともうどうしようもないですね」
「わかったわ。移動場所を探せばいいのね」茜が大きく頷いた。まだ会社再建を諦めていないのだと伊刈は思った。
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