第2話
「植物状態は基本的に治療できないわよね。諦めるように諭すのが良いんじゃないかしら」
フランたちは王子の居室を移動して別の部屋へ来ていた。置いてある家具は、先ほどの部屋に比べると劣るが、それでも上等なものだ。ウィリアムにあてがわれた客室である。黄金の装飾が目立つのは、ウィリアムの趣味なのだろう。
「そんな物分かりの良い王妃様なら、こんなことにはならん。私は危うく首が飛ぶとこだったんだぞ」
ウィリアムは曲がりなりにも聖職者だ。他人を説得する術もある程度身につけている。わざわざ招かれたことから、信用もあったはずだ。それでも上手くいってはいないようで、やはり依頼人の王妃様の人格がとんでもないことがわかる。
「この状態になったのはいつ頃からかしら」
フランは客人用のやたらふかふかした椅子に腰かけている。ウィリアムが落ち着きなく部屋をうろうろしている様子とは対照的だ。それでも治癒や蘇生を生業としている職業病からか、状況の再確認と治療に向けての検討が始まる。
「一週間前だ。私がここに招かれたのは3日前で、その時点では既に王室お付きの治癒術士があらゆる方法を試していた。だが効果は得られなかった」
「治癒術の基本って人間が持つ自己治癒能力の増強促進だもの。不可逆であることが多い脳の障害は治せないわね」
身体の傷については、その傷をふさぎ修復する仕組みが備わっている。だが、脳は一度傷がついたものは治らない。傷付いた細胞の代わりとなる神経細胞が供給されないと考えられているからだ。代わりに生きている他の細胞が機能を引き継ぐこともあるが、大規模な障害であれば、それも望みが薄い。
「そうだ。人間が本来持っている治癒能力や生理的作用を利用する内科的治癒術式では効果は得られん。外部から物理的なアプローチを行う外科的術式も無意味だ。異常を除く訳でもなく、傷があり、それを塞げば機能が回復するようなものではないからな」
脳機能障害のうち、例えば腫瘍などの異物によって組織が圧迫されて起こるようなものであれば、それを取り除くことで回復を試みることもできる。だが、今回のようにそもそもの脳が機能を停止した場合はそもそも対象外だ。
「私が診たら全ての脳細胞が壊死している訳はなかったわ。頭頂葉と後頭葉は怪しいけど、前頭葉と側頭葉は無事のようね。血液の流れもまだある。ただ神経伝達が止まっているだけみたい」
脳のうち、頭のてっぺんから後ろにかけて存在する脳の領域は頭頂葉と呼ばれる。人間の感覚に関わる部分だ。そして後頭部に位置する後頭葉は視覚に関わっており、目が見たものを認識する。これらの組織が駄目になっていると言うことは、つまり、外の世界を認識する術を失った状態だ。
そして、額に当たる前頭葉は人間の思考や理性、言葉を話したり身体を動かすことに関わっている。つまり、その人間をその個人足らしめる“ふるまい”を司る部分だ。こめかみの側頭葉はその人間の記憶を蓄積する領域である。
つまり王子様は、外の世界を認識する組織を再建し神経伝達を再起動させることが出来れば、記憶や“ふるまい”という人間性を維持できる可能性が残されている状態だった。
「そうだ。脳の組織が全て死んでいる訳ではない。だから、治癒術で脳細胞の動きを活性化できれば可能性はあったが、外からの一時的な刺激では回復には至らない。何より局所的ではなく、複雑な脳全体の活動を治癒術で維持し続けることは不可能だ」
既存の治癒術でも、一時的に細胞の機能を活性化して、神経伝達物質の分泌を促し、脳の神経発火を起こすことは出来る。それでも、脳の複雑な機能を全てを再起動するには至らなかった。
こうして治療法を検討してみても、突破口は無さそうだった。最低限の生命を維持するのが関の山だ。
「お手上げね。ただ、身体を動かすってことなら死霊術士でも呼んでみたら」
「馬鹿を言え、そんな提案をしたら今度こそ首が飛ぶ。何より王子の肉体には魂が宿ったままだ。死霊魔術も適用外だ」
死霊魔術は魂の離脱した肉体に疑似的な魂を宿し、簡単な命令を聞かせる魔法だ。そこに脳の機能は関係ない。肉体を主導的に動かすのは、魔法で記述された命令だからだ。つまり、ただの魔法の操り人形であり、外の世界を認識する必要もなく、ただ肉体が動けば良いとされる。
「魂が宿ったままと言うことは、蘇生術も試してみたのよね。仮に脳の機能が復旧しても肉体を動かす魂が離脱してしまっては意味がないもの」
脳の機能が回復しても、その肉体に魂が宿らなければ、それは正常に稼働しないと考えられている。魂には重さがあり、生物が死ぬとき、体重がいくらか軽くなるとの報告もあった。概念的なものとされる魂だが、それは確かに存在して、器となる肉体を動かしているのではないかというのが、治癒術士や蘇生術士の基本的な考え方だ。
その魂を捕まえて肉体に呼び戻す技術として、蘇生術は発展した。フランは専門外どころが、理屈を教えられても実践ができない。蘇生術は存在を正確に認識できない魂という概念を、捕まえて呼び戻すという、治癒術以上に特殊な能力が必要とされるからだ。
「結果は案の定芳しくなかったがな。そもそも、魂が離脱するのは肉体が完全に停止したときと考えられる。王子の肉体は緩やかではあるが、今もなお活動状態にある。それは器である肉体を動かす魂が、まだそこにあることの証左だ」
だから、ウィリアムという専門家がいることは心強い。フランの知見を捕捉してもらえる。肉体の回復については、フランとマーブルの魔法の出番だが、魂の扱いについてはどうしようもない。
「王子様の魂は、今も肉体に宿ったままということね。じゃあ、脳の機能さえ復活すれば、回復の見込みはある訳だ」
「そうだ。だが、現状の治癒術や蘇生術では一度停止した脳の機能を復活させる技術は確立されていない」
魂はまだ肉体にある。脳の機能を再起動できれば良いのだろうが、肝心の神経伝達を再開させる術がない。機能の怪しい頭頂葉や後頭葉の再建という課題もある。既存の治癒術や蘇生術では限界があることは明らかだった。
「マーブル。他に何か手があるか。貴様は通常の治癒術とは一線を越えた技術を持っている。こう言いたくはないが、最後の希望というやつだ」
フランは膝の上で指を組み思案を巡らせているようだった。頭の中の知識を総動員しているのか、瞳はどこにも焦点が合ってないように見えた。そして口を開くとき、マーブルという家系が17代に渡って蓄積された知見が、ひとつの答えを導き出す。
「治すことができなければ、作り直せばいいのよ」
ウィリアムはフランが言った言葉の意味を咀嚼できないのか、思わず足を止めて口を半開きにしていた。
治すのではなく、作り直す。肉体が持つその本来の力を利用して回復させることを基本とする治癒術とは異なる考え方だった。
「私ね、脳の損傷を、“再生”の技術を使って回復させた事例を一つ知っているわ」
フランは表情を変えることなく言ってのける。今まで再確認してきた、既存の常識を覆す話だった。
「それは、何代目のマーブルの話だ」
フランが良く過去のマーブルを引き合いに出すことを、ウィリアムも知っている。マーブルの魔法は、他の治癒術とは異なった道筋を経て独自の技術にたどり着いている。だから、ウィリアムはその行いを忌み嫌いはすれども、有用であることを否定はしない。
「これは17代目のマーブル。つまり、私の話ね。そして患者はヴィクターよ」
「そうだったのかフラン。脳はそのまま揃えたって言ってたじゃないか」
突然話題に出てきて、しかも明らかに重大な話だったから、ヴィクターは潜っていた背嚢から思わず外に飛び出していた。この部屋にはウィリアムとフランしかいないから、姿を見せても騒ぎが起こることはない。
「作り直して、すべて揃えたのよ。流石に全部が無事って訳じゃなかったから」
フランは悪びれる様子もなく、ヴィクターを抱え上げた。なだめるように頭を撫でてくる。心地よくても、それでほだされて良い話ではない気がした。脳のどこまでがフランに作られたのか、それはヴィクターの人間としての存在の根幹にを関わる話のように思えるからだ。
「その生き物、まだはべらせておるのか。相変わらず趣味が悪い。だが、興味深い話だ。続けてくれ」
ウィリアムの遠慮のない言葉に、フランは頬を不満気に膨らませた。ヴィクターは特に気にしてないと、目線で合図を交わす。
「マーブルの魔法の特徴ってウィリアムは知っているわよね」
「その異名のとおり“継ぎ接ぎ”だろう。外科的治癒術式の応用で、人だけではない他の生物さえ利用して、肉体の失った機能を再建し増強する。だから外法とそしられたのだ」
マーブルは、生物に等しく定められた肉体の滅びと、それに伴う魂の離脱を防ぐ方法として、あらゆる手段を使って滅ぶことのない肉体を“継ぎ接ぎ”によって作り出すことを目指した。それが世間には受け入られなかったから、忌み嫌われた。人間の“かたち”を失わせる技術であり、生まれ持った運命を否定する技術だからだ。肉体が滅ぶことを前提に社会や倫理が組み上がっていたから、認められなかったのだ。
「“継ぎ接ぎ”の技術はマーブルにとっては基礎の基礎なのよね。でも、マーブルはその時の当主によって研究したことも違うから、他にそれぞれ独自の技術を確立していることが多い」
あるマーブルは素材の組み合わせから、新しい機能を作り出すことを得意とした。肉体の機能の解析に心血を注いだマーブルもいる。その時々のマーブルが、独自の研究を積み上げることで、様々な技術と知見を蓄積しているのだ。
そして、それを当代のマーブルが全て受け継いでいく。だから、フランは過去のマーブルに敬意を払い、その持てる術を生かすことを考える。
「私はその中でも“作り直すこと”。つまり“再生”を得意としているわ。そしてヴィクターは、私の“再生”の技術の結晶なの」
再生の技術の要は、あらゆる細胞に分化する多能性幹細胞の作製と、その分化のコントロールだ。生物の肉体は、ひとつの受精卵から、そこに存在する幹細胞が様々な組織に分化し、発生と呼ばれる過程を経て形成されていく。幹細胞には肉体を形成する全ての種類の細胞に分化し、自己増殖する能力を持った全能性幹細胞があり、そこから分裂した多能性幹細胞が、やがて皮膚や筋肉、神経や内臓の組織を作る組織幹細胞に分化する。
ヴィクターは、その全能性幹細胞を維持した肉体を持っている。必要に応じて、必要な組織を作り出す。劣化したものを切り捨てて、新しいものを作り直すことも可能だ。
その身体を維持するために積み上げた知見が、フランが独自に身に付けた、過去のマーブルにはなかったものだ。
「脳に特異的に存在する神経細胞に分化する幹細胞を、私の魔法で体細胞を初期化して作り出す。それを利用すれば、脳の組織は再生させることはできるわ」
脳には新しい神経細胞を供給する機能は無いと考えらていたが、フランは脳に特異的に存在する神経幹細胞を発見していた。皮膚などの分化が終わった体細胞を初期化することによって、多能性幹細胞を作り出す技術も確立している。あらゆる組織の再生が、今のフランには可能だった。
「機能停止した脳組織の代わりを作り出して入れ替えるのか。なるほど、それなら頭頂葉と後頭葉の組織の再建は可能だな」
ウィリアムがフランの言葉に納得した様子で、目を輝かせる。専門家だからか、理解も早い。だが、フランの技術には課題がある。再生させた組織が正常に動き、既存の肉体と噛み合うかは、また別問題だ。
「でも、ヴィクターは脳の神経伝達は生きていたから、それを補うかたちで足りない部分を再生させて上手くいっただけなの。つまり、機能が生きている脳から、神経伝達経路を再生させた脳組織につないで、それに火を入れることで回復させた。けれども、今の王子様は、そもそもの脳が機能を停止している状態だから、同じ試みをしても失敗するだけね」
脳の機能の根幹を為すのは、脳組織を形成する神経細胞の神経伝達にある。その経路の多様性が、新しい記憶やふるまい、経験として蓄積されていく。つまり、神経伝達が生きていれば、作られた神経細胞でも、そこに新しい経路が結ばれることで、正常に稼働する可能性がある。
ヴィクターは、脳の機能が生きていたが、王子様はそうではない。神経伝達を復活させる別のアイデアが必要だった。
「つまり、手がない訳だな。仕方ない。次善の策に移るとしよう」
フランに期待できないと判断するや、ウィリアムの切り替えは早かった。他にあてがある様子だった。この男の生き汚さを知っているヴィクターにはその心当たりがひとつある。
「そう言えば、お仲間はどうした。いつもの強そうな連中がいないじゃないか」
「最初はボロい仕事で危険も無いと思ったのでな、置いてきた。蓋を開ければこの有様だが、時間を稼げば私の戻りが遅いと不審に思った仲間が迎えにくるだろう。私はそれを待つ」
蘇生術士は一人では戦う力を持たないから、旅をするときには護衛を付けることが多い。ウィリアムの仲間はかなりの腕利きだ。いくらここが城の中とは言え、隙を見て連れ出すことは可能だろう。
「逃げるつもりかよ。じゃあ、俺たちをわざわざ引き込んだのは何のためだ」
治療が無理と判断していて逃げる算段をしていたなら、わざわざ人を集める必要がわからなかった。フランの存在は偶然だったから、それを当てにしていた訳ではない。ヴィクターに判断が付かないその真意を、ウィリアムは平然と言ってのける。
「追っ手がかかるにしても、的は多いほうが良いからな。治癒術士を集めるのもそのためだ。せいぜい利用させてもらう」
「お前は本当にどうしようもない野郎だな。それで良く聖職者を名乗っていられるな」
この男の底意地の悪さはとんでもなかった。これでも、人の命を救う蘇生術士である。迷える人々に生き方を諭す聖職者でもあった。しかしながら、ウィリアムの性格はそこからイメージされるものとかけ離れている。
「どうとでも言え。信仰は蘇生術を安定して使うための基盤となる考え方でしかない。それを生き方にする者が多いのは確かだが、それに縛られる必要などない。私は私の考えに従って生きる」
信仰は、魂というあやふやな概念を扱うのに都合が良い。存在しないものを定義して、現実にあるかのような存在感を与えることができるからだ。聖職者が、その生き方を全うするために蘇生術も学ぶことが多い中で、ウィリアムは逆だった。自らが生きるために蘇生術を学び聖職者としての考え方を利用する。
その考え方を否定できるほど、ヴィクターは傲慢ではない。だが、その生き方の巻き添えを食らうのは、たまったもんじゃなかった。王子の治療が出来なければフランの命も危うい。この幼馴染が、それを気にしている様子が無いことにヴィクターは少し不安になる。
「もう一つ大事なことを聞きたいんだけど、王子様がこうなった原因って、率直に言って、何らかの毒物よね」
フランは案の定、話を聞いている様子はなく、まだ思案を続けている様子で、ウィリアムに尋ねた。治療の検討の中でぼかされていたところだ。外傷がなく、自然にこの状態に陥った可能性は考えにくい。だったら、何か毒を盛られたと考えるのが妥当だ。王子という立場上、暗殺を企む者も多いだろう。
フランの問いに、ウィリアムが気が進まなそうに答える。どうせ逃げるつもりだから、隠す必要もないのだろう。
「一週間前、王子様は王妃様と、亡くなられた王様の弟君であるアルフォンス様とその奥方と一緒に夕食を取られた。そして、そのままいつも通り就寝されたあと、翌朝になって意識が戻らなくなったそうだ。そして、王位の継承権は、王子様が亡くなれば、弟君にある」
つまり亡くなった王様の弟であるアルフォンスこそが犯人の第一候補だった。王妃様が王子様の治療に躍起になっているのも、この辺りの事情がありそうに思える。
「余計なことを考えるなよマーブル。誰が犯人かなどどうでも良いことだ。詮索屋は早死にするぞ」
ウィリアムがくぎを刺す。犯人捜しなどすれば、部外者であるフランたちにはどうしようもないばかりか、そのまま殺されることだってある。
「王子様を治療しても、また殺されたら意味ないじゃない。それに、まったくアイデアが無いわけじゃないしね。ただ、ちょっと問題があるのよ」
フランは治療の可能性をあきらめていない。この状況を無事に切り抜けるには、王子様を何とか回復させて、なおかつ王子の暗殺を企んだものに殺されない必要があった。フランの命はヴィクターが守るにしても、王子の治療には、この幼馴染を信頼するしかない。
「ヴィクター。悪いんだけど、ちょっと外で情報収集してきてくれないかしら。誰が味方で敵か、王子様の予後のために知っておく必要があるわ」
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