第23話ゾンビの天敵
セナは、目を開く。
いつのまにか眠っていたらしい。
そして、なぜか檻がある部屋には人間たちがいた。皆、セナのことなど見向きもしないで恐怖に染まった顔で部屋の出入り口を見ている。
「何が、あったの?」
誰も、セナの疑問には答えない。
下腹部の痛みは酷いが、セナは立ち上がる。なにかが起こったのは間違いないのに、誰も何が起こったのか教えてはくれない。
「何が起こったの?……なにが」
ドアが叩かれる。
どんどん、と無遠慮に。
何かを、求めているかのように強く。その音を聞くだけで、理解できる。ドアの向こう側には人間の恐怖が押し寄せているのだ。きっと、このセンターもゾンビの侵入を許してしまったのだろう。自分が生まれ育ったセンターのことを、セナは思い出す。
あのときは、シリルがゾンビをセンターに招き入れた。
セナを奪還するためだけに、センターのなかの人間を皆殺しにした。セナが知っていた人間達は、きっと皆食われたのであろう。そして、空ろな視線の怪物へと成り果てたことであろう。
「セナ!」
ジュニアと呼ばれていた男が、セナの檻に駆け寄ってきた。そして、檻の鍵を開ける。その顔色は、青かった。有象無象の恐怖に恐れて、怯えているのである。
今のセナには、その気持ちがよく分かった。
ドアが一枚破られるだけで、死と痛みがやってくるのである。それを恐れる気持ちを、今のセナならば理解できる。セナも、外の世界にでて痛みと死を学んだ。
「お前も獣人だ。生身の人間よりは、ゾンビと戦える。戦え!!」
ジュニアは、セナを檻の外に出した。
そして、セナの血をみてぎょっとする。
「おまえ、なにが……」
ドクターは、セナの体に何が起こったのか一瞬理解できなかったようであった。イーサンも最初は似たような顔をしていた、とセナは思う。雄には、理解できないのだろうか。
雌が、大人になる瞬間のことを。
「大人になったの」
セナは、そう断言した。
痛みは死に付随するもの、とセナは思っていた。けれども、違った。
痛みは、生きるためにも必要なのだ。肉体が健全に生きるために必要な痛みを、セナは受け入れた。
「大人になった。だから、私はもう痛みを恐れない」
セナは、歩き出す。
下腹部には、痛みがある。それでも、彼女は歩く。
ジュニアは、その姿にわずかにおののく。
彼らには、セナがわけのわからない怪物に思えたことであろう。センターにいる人間はセナ以上に、彼女の肉体のことを知っている。それでも、今の目の前にいるセナは自分達の知っている獣ではないような気がしたのだろう。
ジュニアだけではなく、セナのいた部屋に避難していた全員が彼女を恐れた。彼女は下半身を赤く染めていた。それは、初潮の表れであった。
肉体が大人に追いついた少女は、強い力で叩かれるドアにそっと手を当てる。
「……恐れない。生きるために痛む体を知ったのだから、私はもう痛みを恐れない」
セナは、握り締めた拳をふりほどく。
その指先には、猫の爪があった。
腰を落とせば、犬の下半身がある。猫よりも強靭な下半身は、きっと長く戦える。ああ、どうして今まで気づかなかったのだろう。
「私は、きっと強い」
今まで、あまりに受動的に生きすぎた。
すべて人間のなすがままに、すべてを受け流すように、生きすぎた。
自分は檻の中で生きればいい、と信じすぎた。シリルが狂気の愛を持って、檻の外に連れ出してくれなければセナはずっと檻のなかにいただろう。
肉体を蝕む痛みの感じかたさえも、変わったであろう。もしも、檻のなかに居続けたのならば、セナは痛みを受け入れられなかったような気がする。戦う覚悟すらも、できなかったような気がする。
「ようやく、分かったの。私、生きたいの」
死ぬのが、嫌なの。
だから、痛む体でも戦っていたいの。
「痛みは、怖くない。死ぬのが、一番怖い」
セナの目の前で、ドアが破られる。
ドアの向こう側には、いたのは大量のゾンビであった。ゾンビは、他の人間には目もくれずにセナを襲おうとする。セナは、鋭い爪でゾンビの喉元を狙う。だが、届かない。
ゾンビが、セナの腕に噛み付こうとする。
噛まれる前に痛みを思い出す。
恐怖がフラッシュバックする。
それでも、セナの動きは止まらない。必死に自分より体格の大きなゾンビの首元を狙う。本当は、頭を狙わなければゾンビを倒すことは出来ない。セナもそれを知っているが、セナの身長では頭に手はとどかない。
セナは、靴を脱ぎ捨てた。
セナの足の爪は、鋭くは無い。犬の特徴を獲ており、猫のように爪の収納ができないからである。それでも長く走ることができる、強靭な犬の足である。
セナは、足を振り上げた。
その足は、ゾンビの首にとどく。そして、脆くなったゾンビの頭は飛んでいった。その拍子に、セナの初潮の血が撒き散らされる。
鮮血とも違う、独特の臭いのソレ。
痛みの結晶。
ゾンビたちの動きが、止まった。セナは、動きの止まったゾンビには興味を示さない。ゾンビたちは、ウィルスで倒れたのだ。セナの肉体には、アンチゾンビウィルスが生きている。セナの血汐に触れれば、ゾンビたちは感染する。
セナがゾンビを殺すためには、血を流す必要がある。
痛みが、ゾンビを殺すのだ。
死ぬための痛みではなく、生きるための痛みが、産むための痛みが、死に勝るのだ。
やがて、セナの血が触れていないゾンビたちまでもが倒れはじめる。
「なにが、なにが起こっているんだ!」
ジュニアは叫んだ。
「これが、アンチゾンビウィルスの力なんでしょう」
ゾンビを蹴り上げ、血を飛び散らせながら、セナはささやいた。
舞う少女の周囲に、枯れたゾンビが積みあがる。
その光景は救いのようでも、悪夢のようでもあった。人間の天敵であるゾンビが、たった一人の獣人の少女の前にひれ伏す。
人類の救いの天恵のようにも見える。
けれども、同時にゾンビ以上の人間の天敵が生まれてしまったようにも見えるのである。
「セナのアンチゾンビウィルスは、こんな爆発的な感染力を持たないはずだ。だから、セナは失敗作と呼ばれていたはず――」
ジュニアの言葉を聞きながら、セナは動きを止める。
もはや、彼女の周囲にゾンビはいなかった。
あるのは、つみあがった死体だけ。
「そのときは、私もアンチゾンビウィルスも知らなかったのね」
セナは、ゾンビの死体に囲まれながら笑った。
「戦わないと、生き残れないと。私のなかのアンチゾンビウィルスも、外に出てそれをきっと知ったの」
イーサンと共に橋の上でゾンビに囲まれたときに、セナ自信もゾンビに噛まれたのである。そのときから、セナは死を知った。故に、死にたくないと思った。
ジュニアは、はっとする。
「まさか、ゾンビに直接噛まれたことよってセナの体にゾンビウィルスが入り込み――アンチゾンビウィルスの性質が変化したのか」
渇いた笑い声が響く。
それは、ジュニアのものだった。
「完成だ。完成した――人類の文明を取り戻すものが、偶然にもここに完成した」
ジュニアは、荒々しく床を叩く。
「俺は、俺が、どうして作れなかった。どうして、俺が作り出せなかったんだ!」
成功作品を前にして、ジュニアは悔しがっていた。
おそらくは、自分の手で完全なアンチゾンビウィルスを作り出すことができなかったからだろう。
「セナ、なのか?」
シリルの声が聞こえた。
セナが顔を上げると、廊下の向こう側にシリルがいた。シリルは、天井のパイプを伝ってセナが囚われている部屋にたどり着いたようであった。
「これは、お前がやったんだな」
シリルは、セナに近づく。
セナは、緊張した。
もう、シリルを母親だと理解している。それなのに、セナはシリルに「母親としては見れない」と言った。あのときの気持ちが真実だと、セナは言ってしまった。
いまさら、何を言っても嘘になる。
「セナ、行こう」
シリルは、セナに向って手を伸ばす。
「私は……私はその」
何を言えばいいのか、分からない。
セナの本心が、シリルを傷つけるのならば、セナ自身など消えてしまえばいい。
そう思った。
シリルは、その表情ですべてを察したようであった。シリルは目を伏せた。そして、決心したように口を動かす。
「セナ。私の元に戻ってきて欲しいの」
シリルの言葉に、セナは目を見開く。
それは、女性の言葉だった。
母親のような言葉であった。
シリルは、自分を変えた。セナのために、無理に自分を母親として捻じ曲げた。他人のために自分を変えるというのならば、それは愛でしかない。
セナは、愛された。
「シ……――お母さん」
セナは、シリルをそう呼んだ。
シリルがセナのために変わったように、セナも変わらなければならないと思った。
「お母さん、連れていって」
外に。
痛みも、死も、兄も、母も、叔父もいる、外の世界へと連れていって。
――また、私を産んで。
シリルは、セナに駆け寄る。
「近づくな!」
ジュニアが、セナを後ろから抱きすくめる。
シリルに対しての人質であった。
「これが……これが、完成体のアンチゾンビウィルスのはずがない!別の個体で、さらに実験して私が作り出さないと。私が、アンチゾンビウィルスを作り出さないと……」
「離して!!」
セナは、もがいた。
鋭い爪が、ジュニアの肉体を切り裂く。それでも、ジュニアはセナを放そうとはしない。
「私が作り出さないと――私はジュニアの怨念は捨てられない!私は、親から逃げられない!!」
ジュニアは、叫ぶ。
そんなジュニアの眼前には、いつの間にかシリルがいた。ぞっとするような鋭い目つきでで、ジュニアを睨んでいた。そして、ジュニアの頭を力強い力で掴む。
「俺の子に――もう触るな」
シリルの爪が、ジュニアの眼球をえぐった。
ジュニアの拘束が緩み、セナは投げ出される。
セナはそのとき、シリルを見た。シリルは、もだえ苦しむジュニアを見下していた。その姿は圧倒的な強者であり、悪魔的な姿でもあった。それでも、すでにジュニアの瞳に怒りはなかった。
「ジュニア、お前は俺と同じだ。親の呪縛からあえて逃げずに戦っている振りをしていた。楽だったけど、苦しかっただろ。もう……楽になろう。愛されることから、楽になろう」
シリルは、ジュニアの胸をえぐる。
ドクターの息子であったジュニアの息は止まり、シリルは立ち上がった。そのとき、ようやくシリルはセナが見ていたことを知ったようだった。
「セナ――おまえも俺の愛情が重くなったら、俺を捨てろ」
「重いって」
「愛は、簡単に人を狂わせる。俺は、おまえを愛したいけどおまえの人生を狂わせたくはない」
なら――シリルも人生が狂ったのだろうか、とセナは思った。
戸惑うセナに、シリルは優しく微笑みかける。
「子供を産むと、多かれ少なかれ女の人生は狂う。悪いほうにも、良い方にも。だから、おまえたちはそのことに対して何にも思わなくていい」
でも、とシリルは続ける。
「おまえたちは生きなきゃいけない。その命を粗末にしてはいけない。なぜならソレは、俺の人生をゆがめた先にあるものなのだから……」
セナは、これは愛の言葉であると思った。
そして、呪縛の言葉だ。
もうセナは、自分の命と兄の命を粗末にできなくなった。なぜならば自分達の命はシリルの人生をゆがめたのだから。
「お母さん、約束する」
セナは、シリルを見つめた。
「私、精一杯生きるよ。イーサン――……兄さんも生かすよ。お母さんとの最初の約束」
セナは、笑った。
シリルは、驚いたように目を見開く。
セナは、疑問に思う。
「あっ、笑うの初めてだ」
セナは、ようやく自分の表情の変化に気が付いた。
「シリル、セナ!」
声が響く。
セナは、その声がしたほうに振り返った。地下からである。
「イーサン、じゃなくて兄さん!」
セナは、声がしたほうに向って走り出す。声がしたのはこちらだと思い、セナは床をたたき始める。
セナの体が、急に持ち上がる。
地下からラシルが、出入り口を開けたせいであった。
「セナっ!」
顔を出したラシルが、驚いたようにセナを見つめる。
「シリルは?」
「ここにいる」
兄の呼びかけに、シリルは答える。
「無事か、ならいい」
ラシルは、ほっとしたように弟を見た。
「外はゾンビでいっぱいだ。すぐにこっちに入り込んでくるぞ」
ラシルの言葉に、シリルははっとする。
ゾンビの大半はセナが殺したが、まだ来るという。
「お母さん。まだ、戦えるわ」
セナは、そういう。
しかし、シリルは首を振った。
「初潮を迎えたばかりのおまえに、無理をさせるわけにはいかない。それに、数が大勢だったら押し切られる。確実に、この場を乗り切る」
シリルは、なんてこともないように口を開いた。
「俺が囮になる。兄貴は、その間にセナたちを連れて逃げろ」
「でも、きっとゾンビは私を狙ってくるわ」
セナは、ゾンビの天敵である。
だが、シリルは首をふる。
「セナ、おまえ月経が止まっただろ」
シリルの言葉に、セナは戸惑った。
「初潮は不安定なんだ。だから、すぐに止まる。ゾンビたちも、生理が止まったセナを天敵とはみなさないはずだ。今までと同じで、ゾンビたちは音に反応するはずだ。だから、俺が囮になる」
「でも、それじゃあ……」
シリルが、大勢のゾンビに囲まれることになる。
イーサンも、シリルの決断に言葉を失っていた。
「後悔はしないんだな」
ラシルだけが、静かであった。
弟が死を選んだというのに、とても静かにそれを受け止めていた。
「兄貴、俺の決意はかわらないからな」
「分かってる。イーサン、兄貴になれよ」
ラシルは、イーサンの胸に拳を当てた。
イーサンには、意味がわからなかった。
「俺も囮になる。一人より二人のほうが確実だし、逃げるチャンスもあるだろう。イーサン、妹を守れよ」
ラシルは、シリルの隣に立つ。
シリルは、戸惑った。兄が自分の行く道に賛成をするのは、初めてのような気がした。いつも兄は、シリルが危険なことしようとすれば反対する。力を貸すとしても、嫌々だった。
「兄貴、本当にいいのか?」
シリルは、ラシルに尋ねる。
ラシルは頷く、シリルは微笑んだ。
「そんなのダメ……」
セナが、シリルたちの方へと歩こうとする。
だが、イーサンがそれを止めた。
「ダメだ……俺と一緒に来い」
血から強くイーサンはセナの手を引き、自分たちが侵入した地下通路へと向かう。
「ダメ!」
「静かにするんだ!!そうじゃないと全部無駄になる」
イーサンは、セナを担ぎ上げた。
「俺達は……生きなきゃならない。なぜならば、俺達は俺達の母親の人生を台無しにきて生まれてきた。だから、生き残らないといけない」
イーサンの言葉に、セナははっとする。
シリルも同じ事を言っていた。
「お母さん――……」
私、生きるね。
セナは、口ずさむ。
「いつまで、生きられるかわからないけど。生きるね」
その言葉は、母親には聞こえなかったであろう。
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