第19話たしかな真実

 セナは、檻の中で丸くなって寝ていた。


 苦しかった、とても苦しかった。


 今まで感じたことのない苦しみ、味わっていた。腹部のみが締め付けられるように苦しく、息ができなくなりそうになる。


「シリル、ラシル……」


 助けて欲しい。


 この苦しみを取り除いて欲しい。


 だが、セナの周囲には誰もいない。


「くっ……」


 セナは、自分の腹を抑える。


 痛い、なにかが自分の腹部に入っているかのようだ。もしかしたら、もう自分は寿命なのかもしれない。この痛みは、死が近いからなのか。


「いやぁ……」


 セナは、ゾンビに噛まれたときのことを思い出した。


 橋の上でゾンビに取り囲まれ、腕を噛まれたあの時。セナは、今までの自分の人生がまどろんでいるように感じられた。そして、ゾンビに噛まれた、強烈な痛みで目覚めたと思ったのだ。


 あのときの痛み――死ぬかと思った。


 死にたくない、と思った。


 死にたくないと思った瞬間から、生きていると思った。


 生まれてはじめて、自分は今は生きていて、いつかは死ぬ生物である、と実感したのだ。そして、死と共に痛みはやってくるとも学習した。


 セナに痛みを与えたゾンビは、すでに死んでいた。


 そして、セナにも死を与えるために襲ってきた。あのときの痛みは、もうこりごりだ。セナは、噛みつかれた腕を掴む。


「死にたくない……怖い。すごく、怖い」


 死ぬとは、痛みだ。


 痛みは、あまりに恐ろしい。


 なのに、死と共に痛みはやってくる。


「助けて――」


 誰も助けてくれない。


 怖いのに、誰の一緒にはいてくれない。


「ラシル、ラシルっ。また……助けて」


 この痛みから助け出して、シリルの元まで連れていって欲しい。橋の下で、自分を受け止めたときのように助けて欲しい。


「セナ……セナ、どうしたんだ!」


 声が聞こえた。


 気がつけば、檻の隙間から手が差し伸べられていた。イーサンである。彼は小さな妹の体を抱きしめると、ぎょっとしたように腕に力をこめた。


「セナ……おまえ、血が」


 イーサンの声は、震えていた。


 セナは重い体で、イーサンの視線のほう見た。自分の下腹部から、血が滴り落ちていた。それらは腕から流れた血とは、ちょっとばかり違う臭いがした。


「あっ……」


 セナは混乱する。


 自分の身に、一体何が起こったのかがわからない。だが、血を見た瞬間にセナは自分が死ぬことしか考えられなかった。セナは、必死に兄の腕にしがみつく。


「いや、死んじゃう!お願い、シリルにあわせて!!怖いの、死ぬ前にあわせて!!」


 半狂乱になりながら、セナはイーサンに向って叫ぶ。


 イーサンは「落ち着け」と叫んだ。


「落ち着け!その……それは大丈夫なんだ。だから、落ち着け!」


「私、死ぬの!!」


「死なないから!」


 落ち着け、とイーサンはセナに告げる。セナは涙目になりながら、イーサンの言葉を聞いた。イーサンは、目に見えてほっとする。


「その血は……たぶん初潮だ。女の子が大人になった証だって」


 イーサンは、恥ずかしそうだった。


 セナは、腹部を押さえる。


「でも、痛いの……」


「生理って、痛いものらしい。でも、死なないからな」


 大丈夫、大丈夫、とイーサンはセナを励ます。


「セナ、お前は大人になったんだ」


 イーサンは、おとなしくなったセナの頭を撫でる。


 セナは「大人になった」といわれても、実感はまるでなかった。ただ痛みだけが体のなかにあって、それ以外はいつもの自分だった。


「私、まだ小さいのに」


「身長とかの問題じゃなくて……いや、関係あるかもしれないけど――子供ができる準備が整えられると、雌は自分の体のなかにある卵を一ヶ月に一度捨てるようになるんだ」


 イーサンはしどろもどろになりながらも、セナに雌の肉体について説明する。話を聞きながらセナは、痛む自分の肉体を理不尽だと思った。


「どうして、せっかくの卵を捨ててしまうの。子供の元になるんでしょう」


 獣人の子供は出来にくいのに、どうして雌の体は卵を捨ててしまうのか。


 そう質問したら、イーサンはとても困った顔をしていた。


「その……古い卵を体に長くとどめるのは、きっと体調悪化に繋がるんだろう。たぶん、だけど」


「体に悪いから、吐き出そうとするの?」


 イーサンは「たぶん……」としか答えなかった。


 おそらく、これ以上聞いてもイーサンは答えられないだろう。


「じゃあ、私の体は死なないために痛んでいるんだ……」


 セナは、自分の腹部を撫でる。


 内臓が痛むのは、死ぬからではない。むしろ、生きるために痛んでいるのだ。


「変なの」


 生きるために痛むだなんて、今までだったら考えられない。


 痛みは、死に付属するものだった。


「変じゃない。俺達が生まれるときも……母親は痛みを経験するんだ。だから、痛みは死に対抗するためのものなんだ」


 イーサンは、そう言った。


 その言葉は、セナの痛みを肯定するための言葉であった。


「そうなのね。私の体は生きるために、痛んでいたのね」


 死のための痛みだと思った。


 けれども、この痛みは死から遠ざかるためのもの。


「イーサン……シリルも痛かったかな」


 シリルの名を出した途端に、イーサンの顔が曇った。


 何かがあったのだ、とセナは感じた。


「帝王切開だろうから、正しくは分からない。でも、苦しみも痛みもあったと思う……そんな人に、俺は」


 セナは、イーサンの手を握る。


 イーサンは、妹を見た。シリルと似ていない子供。むしろ、自分と似ている妹。それでも自分達は、シリルの子である。


「俺は、あの人のことを苦しめたかもしれない。でも、俺は人間の飼い犬を止めることなんてできない……」


 セナは、察した。


 イーサンは、シリルを人間にささげたのだ。痛みを超えて自分を生み出した人を捧げたことを、類似した痛みに苦しむセナを見て後悔している。


「飼い犬を止めるって、そんなに大変なことなの?」


 セナは、尋ねる。


 今、セナは腹部の痛みに耐えている。その痛みは、とても酷い。この痛みと比べれば、どんな困難でさえ困難ではないような気がした。


「私は、何かを止めることを大変だとは思わないの。この痛みよりも酷いのならば、何かを生み出す痛みは全ての困難を凌駕すると思う。だから、飼い犬を止めるということも困難なことじゃない」


「……セナは、俺に飼い犬を止めて欲しいのか?」


 イーサンは、セナに尋ねる。


「私は、シリルに会いたい。……死なないってわかっても、すごく怖いの。近くにいて欲しい」


 セナは、そう答えた。


 心細かったのだ。


 この痛みで死なないとわかっても、それでも心細かった。


「……俺は、勇気を持つべきなのか」


 イーサンの言葉には、まだ迷いがあった。


 セナは、小さな唇で紡ぐ。


「その勇気は私たちを産み落とす勇気より、小さなものよ」


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