第11話伝わらない真実
がさり、と音がした。
シリルが、その音に気がついて立ち上がる。ゾンビか人か獣人か。残念ながら、シリルたちがいる場所は風上で臭いで判別がつかない。
「誰だ」
低く吼えるように、シリルは姿の見えない相手に尋ねる。
その相手は、ゆっくりと姿を現した。
セナも熱に浮かされながらも、現れた相手を見た。現れたのは、犬の獣人であった。自分を攫って、ゾンビの群れのなかに連れ込んだ相手である。セナは「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。ゾンビに噛まれたときの痛みを思い出したからである。
「そいつを返せ」
シリルに似た、低い声で犬の獣は吼える。
よく見れば、犬の獣はひどい怪我をしていた。たぶん、ゾンビに食われたせいだろう。ところどころの肉は千切れて、それに乱暴に包帯が巻かれていた。息も荒い。
セナは、シリルのほうを見た。
シリルは、逃げようとはしていなかった。もしかしたら犬の獣の姿を見て、勝てると確信しているのかもしれない。
「セナは、渡せない」
一瞬、シリルの姿が消えた。
セナが瞬きする間に、シリルの姿は犬の獣の前に現れていた。猫は、瞬発力がある獣だ。そのなかでもシリルは、身軽さで兄に勝つほどの獣である。だからこそ、一瞬にして犬の獣との距離をつめることができた。
シリルの爪が、犬の獣の頬を切り裂く。
本当は、首を狙ったつもりだった。だが、犬は咄嗟の判断で後退し、その弾みで犬が首からさげていたドッグタグが宙を舞った。それがシリルの腕に指に絡み付いて、狙いがそれたのだ。
「次は喉をえぐるぞ」
シリルは本気であった。
シリルは、命を奪うことをなんとも思っていない。人間の命も易々と奪い、それを歯牙にもかけない。それに気がついたセナは、若い犬の獣が殺されると思った。
「にげて……」
セナは、小さく呟いた。
犬の獣と知り合いだったわけではない。それでも、嫌だった。目の前で誰かが殺されることがたまらなく嫌でしょうがなかった。
「セナ、知り合いなのか?」
驚いたように、シリルは呟く。
セナの小さな呟きを、シリルは聞き逃さなかった。セナは、首を振る。
「知らない人。でも、死んで欲しくない」
ゾンビに囲まれて、ゾンビに噛まれたとき――セナは怖かった。痛みもあったが、同時に怖かった。初めてだったのだ。痛みを感じながらも、死ぬかもしれないと思ったのは。
でも、ゾンビに噛まれたときに知ったのだ。
誰も助けてくれない。
誰も助けてくれないから、痛みは死の前兆だ。
そう理解したとき、セナは初めて怖いという感情を知った。
あんな感情は初めてで、もう二度と味わいたくはないと思った。
恐怖は、嫌だ。
恐怖は、怖い。
二度と近づきたくない。
でも、この世界はきっと恐怖であふれている。
「死んで、欲しくない……」
ならば、せめて願いたい。
自分にも、他人にも、恐怖なんて訪れませんように。
死とは究極の恐怖であるから、どうか誰も死なずに誰も殺さない世界でありますように。
それが、セナの心だった。
幼く未熟な心であり、誰が敵か味方も考えていない柔らかな思考回路だからこそ生まれてきたものだった。シリルも犬の獣も、その思考に言葉を失う。
誰にも死んで欲しくない。
セナにとっては、それは当然の言葉だった。セナには、まだ敵がいなかった。人間ですら、セナにとっては敵ではなかった。人間に育てられたセナには、まだ人間を敵視することができなかったのだ。そして、自分と同じ姿をした獣人もセナは敵としてみることが出来ない。
幼いセナの視界のなかには、敵はいない。
だから、誰にも死んで欲しくはなかった。
「……それは無理だ」
シリルは、苦虫をかみ殺したように言った。
「この世にあるものは、全てが有限で数に限りがある。だから、失いたくないものを奪われないように戦って、相手を殺してでも勝ち続けなければならない。セナ」
真剣にシリルは、セナを呼んだ。
不思議なぐらいに、その声は響いた。たとえ、この世が雑音でまぎれても――彼女の名を呼ぶシリルの声だけは、真っ直ぐにわが子に届いたであろう。あまりに強い声には、魔法の力でも宿っているようであった。
「お前は、絶対に俺の側から離さない」
何故――とセナは思った。
どうして、シリルはこんなにも強くセナに執着するのだろうか。熱を出し、足手まといにしかなっていない子供に、どうして心を砕くのか。
「セナ。俺は、お前の――」
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