第9話母と娘の約束

目を覚ましたセナが最初に見たのは、シリルの心配そうな顔だった。

 ぼうっとする頭で、おかしな人だなとセナは思った。顔立ちは間違いなく整っているのに、男なのか女なのか一瞬判断に困る顔なのだ。シリルの髪は短く、着ているものも男性的だ。なのに、どことなく女性が隠れている。

 その女性的なものは、限りなく丸くて優しくて――ほんの少しだけ怖い。シリルのわずかな女性的な雰囲気は、大部分を構成している男性的なものを包んで、ぼんやりとシリルを支配しようとしているような気がした。

「気が……ついたか」

 シリルは、ほっとしていた。

「ラシルは?」

「今、エイプリルたちと近くのキャンプに行っている。解熱剤があるかもしれないから」

「解熱剤?」

 聞いたことのない言葉だった。

 シリルは、人間の薬だと答えてくれた。

「人間の文明っていうのは、もう壊れてない。けど、前の施設なんかを使ってほそぼそと薬を作っているところはあるらしい」

「薬は作れるのに、文明は壊れたの?」

 首を傾げるセナに、シリルは苦笑いした。

「俺もよく知らないけど、大昔の人間は世界で一番栄えていた生物だったんだ。遠い国で作ったものを違う国に運ぶのも一瞬で、この世には物があふれていた。解熱剤だって、珍しいものじゃなかった」

 俺もその世代じゃないからよく知らないけれども、とシリルはいう。シリルたちの親の世代に人間に文明は壊れ、物を作っても遠くへと運べなくなった。それは、同時に遠くから材料を持ってこられないということでもあった。

 セナには考えられなかったが、大昔は遠くから材料を持ってきて製品を作るということを行なっていたらしい。そして、作られた製品は再び各地で売られていたそうだ。

 だが、ゾンビが現れて交通網が破壊された。

 製品は作れなくなった。

 今でもほそぼそと製品が作られているという噂だが、かつてのように世界中で売られることはない。小さな小さなコミュニティーで、自分達が消費する分だけを作っている。そして、その薬が物々交換で違う村に行ったりきたりして、シリルたちがそれを盗んだりする。

「私に、そんな貴重なものを使うのはもったいないわ」

 セナは、何の感情をこめずにそう言った。

 自分の体が強くないことを、セナは実感していた。全てが管理されたセンターならばともかく、自然では長くは生きられないだろう。そんな自分に貴重な薬を使うのは、もったいない。セナは、そう感じていた。

「そんなことない!」

 シリルは、力強く否定した。

「お前が、生きていることには意味がある。だから、生きるために何かを消費することをもったいないとか言うな……」

 シリルは、苦しそうであった。

 苦しみながらも、セナを励ます言葉を口にしていた。

「そんなことを言うのは、あなたが私の家族だからなの?ラシルみたいに」

 セナの言葉に、シリルは唾を飲み込む。

「そうだ」

「ラシルは、私の母親のことをバカっていっぱい言ってた」

 セナのように、弱い子供を産んだ雌だ。

 だから、愚かであるとラシルは言ったに違いない。

「たしかに……バカだ。でも、それとお前のことはぜんぜん関係ない」

 シリルは、やさしくセナの髪を撫でた。

 真っ黒なセナの髪の一本一本を慈しむかのように。

「弱いから、バカって言われたんだ」

「私の母親は、弱いの?」

「心が弱い」

 はっきりとシリルは、そう言った。

「お前の母親は――自分の親と一緒にはなりたくないんだ。子供を見捨てるような親には、なりたくなかったんだよ」

 セナは、首を傾げる。

 シリルが、何を言いたいのかよく分からなかった。

「昔――ラシルが人間に捕まったことがあったんだ。でもな、ラシルの親はラシルを助けようとはしなかった。あきらめたんだ。お前の母親は、あきらめたくなかった。だから、自分と交換してラシルを助けた。そうして、センターでお前を産んだんだ」

 その話を聞いたセナの心に、わずかに傷がついた。

 無垢な心で、自分の母親は自分に対して無償の愛があると信じていた。だが、シリルが語るのは無償の愛ではない。セナの母親自身がなりたくないものを否定する、後ろ向きな愛だった。

「そういうふうに愛されるくらいなら――私は母親なんていらない」

 セナは、思わずそう語った。

 顔も知らない相手のはずなのに、いつのまにかセナには母親に愛されたいという欲望が生まれていた。ありのままの自分を受け入れてくれる無償の愛で、美しい母親に愛されたいという欲望が。だが、自分を受け入れてくれないのならば母親などいなくてもいいという乱暴な気持ちも生まれていた。

「自己満足のために、愛されたくない」

 それが、セナの偽らざる気持ちであった。

「……悪い」

 シリルは悲しそうな顔をして、セナを抱きしめた。セナが窒息してしまいそうなほどに、激しい抱擁だった。どうして、こんなにも強くシリルが抱きしめてくれるのかが分からなかった。

「苦しいよ」

 本当に息が出来ないほどに、苦しい。

「悪い……自分勝手だった」

 セナから離れたシリルは、笑っていた。

 どうして、シリルが笑うのかセナはぜんぜん分からなかった。

「俺は――自分の子供と一緒に過ごすのは夢だったが、その子がどう考えるかなんてちっとも考えたことがなかった。自分が受け入れられるか、そのことだけが心配でたまらなかった。俺は、ダメなぐらいに自分勝手だ」

 シリルの言葉に、セナは目を丸くする。

「シリルには、子供がいるの?」

 セナの質問に、シリルは一瞬だけ言葉を失う。

 だが、すぐに覚悟を決めたように答えた。

「一人だけ生きているらしい。三人産んだが、二人は死んだと聞かされた」

 セナは、唖然とした。

 シリルの見た目は、男性に近い。けれども狂気的な女性の部分が、シリルの産んだという言葉の強く証明しているように思われていた。

「あなた、雌だったの?」

 セナの言葉に、シリルな苦笑いする。

「違う。両性体だ。雄の特徴も持っているし、雌の特徴も持っている。でも、両方とも完全じゃないから色々と不便だ。それでも、三人は産んだ。これって、獣人にとっては多いぐらいなんだぜ」

 シリルは最後だけ、ちょっとふざけるように言った。きっと死という思い話題から、セナの意識を少しでも遠ざけたかったのだろう。

 獣人は、子供を作りづらい。

 そのなかで二人を死産したとはいえ、三人を産んだのは多い数字といえる。

「俺は、怖いんだ。子供が、俺を受け入れてくれるかどうか――……すごく怖い」

 セナは、シリルがまだ子供と会ったことがないのだと思った。

 受け入れられないかもしれないし、受け入れてくれるかもしれない。その極端な可能性がシリルを苦しめている。この人は、強くはないのだとセナは思った。

 セナは呼吸を整えて、シリルへと手を伸ばす。こんなことを言っていいのかは分からなかったが、それでもセナはシリルを少しでも守りたいと思った。それは、嘘偽りない本心であった。

「子供は、あなたのことを受け入れてくれないと思う。だって、シリルが母親なんておかしいもの」

 思ったとおりだった。

 シリルは、傷ついたような表情をする。

 セナは、それに最悪間を覚えた。それでも、思うのだ。

 シリルが母親なんておかしいと。

 この人は母親と名乗るにはあまりに男性的すぎる、と。

 自分の意見は変えられなかった、それでも目の間にいる人が、傷ついた顔をしていることがセナには少し耐え切れなかった。

「シリル、あなたが自分の子供に受け入れられなかったら……私が受け止める」

 それを言葉にした途端に、セナはほんの少し大人になったような気がした。

 誰かに愛されたいと願うのではなく、誰かを愛したいと願望を持つことがセナにとっては大人の一歩に思われたのである。

「あなたの子供じゃない私が受け入れても仕方がないかもしれないけれども……私があなたが誰かの母親だって認める。足りないと思うけど、それじゃだめ?」

 シリルの目が、大きく見開いた。

 その瞬間――セナは、シリルのことを綺麗だと思った。不意をつかれ、心を守ることができなくなったシリルは脆い貝殻のように見えた。

 セナが貝殻を見たのは、一度だけ。一回だけ、ドクターに見せてもらったことがある。

 はるか遠くの海に落ちているという、桜貝。

 薄くて綺麗で、ただそれだけの貝殻。

 一瞬だけではあるが、シリルはそれに似ていると思った。綺麗で儚くて、ただそれだけの脆い存在に。だが、次の瞬間には脆いものなどシリルのなかにはなくなっていた。

 セナの言葉に、シリルは首を振る。

「ああ……ダメだ。足りない。贅沢だと覆われるかもしれないけど、俺は自分の子供に

親だと受け入れられたい」

 シリルの顔は、真剣だった。

 その顔に、親が子に対する執念のようなものを見た。

「そんなに、親だって受け入れられたいの?」

 セナには、その執念を受け入れることができなかった。

 だが、シリルは自分の願望を口にする。

「ああ、そうだ。受け入れられたい」

 シリルの願望は、セナには理解できない狂気の心情であった。

 なぜならば、セナはずっと一人だった。

 自分を理解してくれる人なんていないし、現れないとずっと思っていた。だから、そのころに絶望さえもしなかった。

 だが、もしも――本当に受け入れられたいのならば。

「自分を捨てるしかないのかな」

 セナは、思う。

 シリルは、男性的に見えるように振舞っている。着ているものもそうだし、髪型だって男のようだ。女のように改めれば、きっと初対面の印象は変わるだろう。

 男の硬い部分を一切身に着けず、狂気の柔らかい女の部分だけを見せるように振舞えば。あるいは、先ほどの桜貝のような雰囲気で常にいるのならば――しなやかで強い自分を捨て去るのならば、シリルは自分の子供に母のように見てもらえるかもしれない。

「女の人の格好をすれば、シリルの子供はシリルを母親だって分かってくれるよ」

「それは……もう俺じゃない」

 シリルは、悔しそうだった。

「兄さんに育てられた俺じゃなくなる……」

 シリルを弟に、と望んだのはラシルだった。

 シリルは、幼い頃は兄のことが世界で一番大好きだった。だから、シリルはラシルの望みを叶えるために弟になった。その話を聞いたとき、セナのなかに一粒の発見が落ちてきた。

「今、気がついた」

 セナは、目を丸くしていた。

 自分自身の発見に驚いていた。

「愛されるって、自分自身を無理やり変えないと無理なんだ。ありのままの自分を愛して欲しいって願いは、相手のことを全く考えてない我侭なんだ」

 シリルは、首を横に振ろうとした。

 だが、できなかった。

「……我侭か。そうなのかもしれないな」

 シリルは、再びセナの頭を撫でる。

 セナは、シリルの手を掴んだ。

 拒んだ、わけではない。だた、頭をなでて誤魔化されるのは嫌だった。シリルと真剣に、二人で話がしたかったのだ。

「私たち、強くならないと。いつか、誰かの我侭を受け止められるぐらいに強くならないと」

 高熱を出しながらも、セナは立ち上がる。

「そうしないと、誰かの我侭を受け入れられない」

「自分の我侭も受け入れてもらえないのに?」

 シリルは、どこかでセナを恐ろしげに見ていた。

 だが、セナはそれを恐れなかった。

「誰かを受け止めるために、自分を変化させること。それが、愛だと思う。だから、シリル。覚えていて」

 熱に浮かされているような言葉であり、声であった。

「これが、私。いつか誰かを受け止めて、いつか形を変えるかもしれない――私の本当の姿がここにある。シリル、今の私を覚えてて。そうしてくれたら、私は誰かを安心して受け入れられる」

 セナは、シリルに伝えた。

 今、ここにある姿が本物の自分であると。

 今よりも本の少しでも形を変えれば、それは愛のための変形であり、本来の自分ではないと。しかし、この場にいるセナだけは嘘偽りなく純粋な自分であるのだと。

「覚えてる」

 シリルは、口にする。

「絶対に、忘れない。覚えてる。だから、覚えていてくれ。お前も、今の俺を」

 シリルは、セナの腕を掴んだ。

 腕を引かれて、セナはシリルの胸の中に落ちる。柔らかな臭いがした。ラシルの体臭と似ているが、もっと淡い臭いだ。これが、シリルの臭いなのかとセナは思った。

 なぜか、懐かしくなる臭いだった。

 遠い昔に、自分が捨ててしまったものを全部持っているかのような臭いであった。

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