第6話級友
エイプリルが声をかみ殺して泣いている間、ラシルはセナを見ていた。
セナは、殆ど表情を動かなさなかった。まだ彼女には仲間が死ぬという感情が理解できないらしい。だが、考えてみれば当たり前だ。
彼女には、未だに仲間がいない。
檻の中にでて自由になったが、知識や経験は檻の中のものだけだ。だから、仲間が死ぬといった悲しみを理解できずにいる。
贅沢なことなのか。
不自由なことなのか。
どちらなのか、ラシルには分からない。
もしもの話だが、ラシルはシリルが死んだりしたら悲しむだろう。いや、悲しむだなんて言葉では表現できない。きっと、ラシルの一部はなくなるであろう。そして、永遠に埋められることなんてない。
セナは、そんなものはない。
失って、取り戻せないものなどない。全ては取り戻せるし、全てを失ってもセナは嘆かない。セナのなかに、何にもないからだ。
シリルは、泣き止んだエイプリルにセナを預けた。
それはきっとラシルと同じ考えからだ。幼いセナが一緒にいれば、エイプリルは無茶をしないであろう。そう考えたからこそ、シリルはエイプリルにセナを預けたのだ。
エイプリルのキャンプへと向う。
犬は身を隠すのが下手だ。少なくともラシルであったら、こんな開けた場所に住みかは作らない。もっとも、十人以上も仲間を抱えていたらこういうふうに開けた場所に住むしかなくなるのかもしれない。
獣人は、ゾンビにはならない。
だが、襲撃の音をゾンビが聞きつけてしまうことはあった。だからこそ、ゾンビに荒される前にエイプリルをキャンプに連れて行くべきだとシリルは判断した。セナの手を握らせてまで、シリルはエイプリルをキャンプへと連れて行くことを決断したのだ。
甘すぎる、とラシルは思う。
エイプリルなど見捨てて、遠くへ逃げるべきなのだ。けれども、シリルはそうしない。エイプリルのなくした故郷など、捨てていけばいいのにしない。
シリルは、優しいのではない。
シリルは、怖いのだ。
誰かを見捨てて、自分が親と同じになるのが怖いのだ。それは優しさではなくて、単なる証明行動だ。自分は親とは違うということをシリルは常に証明していなくては落ち着かない。
ラシルは、深呼吸をする。
血の臭いが、肺を満たした。
エイプリルのキャンプは、血まみれになっていた。いたる所に血の水溜りができていて、犬の獣人たちに寝泊りしていただろう簡素な家は跡形もなく壊されていた。ここに集落があったという形跡はある。それでも、誰もいなかった。
全て、人間に奪われた。
ここには、エイプリルの群れがあったはずだった。自分たちで木を切り倒して、組み立てた家があったはずだった。彼らが作った竈があったはずだった。
だが、今あるのは彼らが町からとってきた衣類や食料の残骸や壊された暮らしのあと。
それでも壊されたものから、彼らが作った生活が垣間見えた。おそらく、犬たちは自分達が作った生活を大切にしていただろう。
ラシルは、猫だ。
故に、定住はしない。常にさまよっている。そんな暮らしが、性に合っている。けれども、今だけはエイプリルが失ったものが羨ましくなった。
ここの暮らしには、空っぽの胴体につめるべき全てがあるような気がした。
そして、つめるべきものを全て失ったエイプリルはがらんどうになった。
セナの手だけを握って、幽霊のようにキャンプを歩き回っている。そこには破壊以外の何もないのに、何かが見つかることを信じて無言で歩き回っている。
「うわ……ああぁ」
エイプリルは、足を止める。
彼女が足を止めた理由は、腕であった。地面に、腕が落ちていたのだ。ほっそりとした腕は、エイプリルよりも若い固体のものだろう。エイプリルはセナの手を離して、その腕にしがみついた。シリルは、エイプリルを無言で抱きしめた。
悲しみで空っぽになる気持ちは、シリルにはよく分かるだろう。シリルは、十年も空っぽだった。
空っぽは、埋められない。
シリルが空っぽを忘れられるように、ラシルなりに心を砕いた。常に一緒にいたし、忘れられるような苦難も用意した。川に突き落としたり、ゾンビの群れなかに一人で残したりもした。自分の命が危なくなれば、離れた子供のことなどどうでよくなると思った。なのに、シリルはそうならなかった。
シリルは、自分の産んだ子供に片思いをするみたいに恋煩っていた。
はたから見ればラシルのシリルへの接し方は、狂気的に見えたかもしれない。だが、ラシルはそれが自分の家族のためになる行動だと信じていた。けれども、あのころのシリルは所詮は空っぽだった。入れても、入れても、空洞のなかには留まらない。
セナを取り戻すことでようやく空っぽを埋められたシリルは、エイプリルを抱きしめて彼女を暖めている。たぶん、それはシリルがやって欲しかったことなのだろう。ラシルは、あんなふうにシリルを抱きしめたことはない。
セナは、その光景をただ見ていた。
「何をしているの……」
セナは、ラシルの側に来ていた。
きっと、セナは誰かに抱きしめられたこともないのだろう。ラシルでさえ、親に抱かれた記憶はある。もう何十年も前のことだ。ラシルは、その親を殺した。
「ああやると安心するらしい」
ラシルは、やったことのなんてない。
セナも、やられたことなんてないだろう。
「違うの。どうして、この場所でエイプリルは泣いているの?」
ああ、そうかとラシルは思う。
セナは、まだ知らないのだ。悲しみも、苦しみも、何も知らない。
穢れなき、と人間は言うのかもしれない。だが、穢れなきというにはセナはあまりにいびつだ。
「あいつは……エイプリルは、全部を失ったんだ。人間どもに仲間全員を殺された。見れば、分かるだろ」
このキャンプには、エイプリルの全てがあった。悲しみも喜びも全てがここにあって、一瞬で人間に奪われた。
「ここが、エイプリルのセンターだったの?」
セナは、そう尋ねる。
ラシルは、唖然としていた。
エイプリルのキャンプが、セナにはセンターだったのだ。シリルもラシルも、セナにとってはエイプリルのキャンプを襲った人間と変わらない。なのに、セナは二人を恐れず恨まずにいる。
「だから、悲しんでいるの?」
セナの頬に、透明の液体が伝った。
それは、涙だった。
ラシルは、それを見てぎょっとした。セナには、感情がないと思った。だが、セナには感情があった。セナは、ラシルの服の裾を掴んだ。
「・・・・・・掴むな」
ラシルは、セナの手を振り払った。
「お前にとって、俺は……敵だろ。お前から、センターっていう居場所を奪った」
「でも……家族なんでしょ」
理由があれば許されるのか、とラシルは一瞬だけ苛立った。だが、苛立つ資格はないのだとラシルは自分をいさめた。
「あの二人を呼び戻すぞ。ここは危険だ」
ラシルは、シリルとエイプリルを見ながらそう言った。
ゾンビたちが、きっとキャンプを破壊された音を聞きつけてやってくる。
そうなれば、ラシルたちも危ない。
がさり、と音がした。
ラシルもセナも、音をしたほうを振り返る。
そこにいたのは、死人ではなかった。
獣人であった。大きな耳にふさふさの尻尾。あきらかに犬の特徴がある、獣人である。
「ワオーン!!」
獣人は、吼えた。
遠吠えである。
犬の獣人は、遠吠えで仲間との連絡を取る。だが、それは危険なことでもある。自分の居場所を他人に知らせることでもあるからだ。
「なにが……」
ラシルははっとして、足元に転がっていた手ごろな石を拾った。それを獣人に向って投げる。獣人は「ぎゃん」と泣いた。
犬の獣人は、若い固体であった。
灰色の耳に、大きな尻尾。けれども、まだまだ幼い固体だ。体ばかりは大きいが、その瞳の純粋さから年齢はセナよりもいくつか年を重ねた程度だろう。犬の獣人は、そのまま草むらに逃げ込む。
「人間の飼い犬だ!!」
ラシルは、シリルたちに向って走った。
そして、悲しむ二人を無理やり立たせる。
「ここはダメだ。逃げるぞっ!」
「兄貴。どうしたんだ!?」
シリルは、目を点にしていた。獣人に向って石を投げる、ラシルの行動が理解できなかったらしい。だが、犬の獣人であるエイプリルはラシルの行動を理解していた。
「人間の飼い犬ね」
涙を拭うエイプリルに、ラシルは頷く。
犬の獣人は、リーダーを求める。そして、そのリーダーを人間に決めてしまうこともあった。野生の犬ではなく、飼い犬の誕生である。そうなると、その獣人は味方ではなくなる。
敵だ。
「人間に居場所を知られたぞ」
一刻も早く、離れなければ。
そうしなければ、人間に見つかってしまう。
だが、ラシルが石をぶつけた獣人が草むらから飛び出し、次の瞬間にはセナを抱き上げていた。このなかで一番弱い固体を狙ったのだ。そして、それは正解であった。
「セナ!」
シリルの悲鳴があがるが、それも虚しくセナは若い獣人が抱き上げた。セナはびっくりしているようであり、自分の身に何が起こったのかもわからないようであった。
「その子を返せ!」
シリルが、セナを抱きかかえた獣人に飛び掛る。
だが、獣人はセナを抱えたままで逃げてしまう。シリルはそれを追おうとしたが、ラシルはそれを止めた。
「バラバラになるな!ここで、ゾンビが出てくればセナどころじゃなくなるぞ」
あの若い獣人が、なにを思ってセナをさらったのかラシルにはわからない。けれども、ラシルにしてみれば都合が良かった。
ラシルは、セナを殺すつもりだった。
シリルの安然のために、実子かもしれないセナは邪魔な存在であった。
ここでいなくなってくれれば、手間が省ける。だが、シリルはラシルの手を振り払う。
「セナ以上に優先すべきものなんてないだろ!!」
シリルはそう叫んで、ラシルの手を振り払った。
その目は、殺気だっていた。
セナのためならば、自分の命など犠牲にしかねない決意があった。
シリルは、ラシルを振り切ってセナを追っていった。ラシルは、舌打ちする。このままシリルを放っておけば、無駄死にしかねない。彼を追うしかない。
「私が、セナを追う」
エイプリルが、鼻をならす。
「いいや、おまえはシリルを探せ。俺がセナを探す」
ラシルの言葉に、エイプリルはいぶかしんだ。
「セナには追いつけないかもしれないけど、シリルになら追いつける」
ラシルは、そう言い訳した。
実際は、セナのことはどうでも良かった。シリルの身を守りたいだけであった。だが、エイプリルはラシルの言い訳を聞き分けてくれた。
「分かったわ。シリルのほうを追う……」
エイプリルの顔色が、変わった。
「ゾンビの臭い。多いわ」
ラシルは、生唾を飲み込んだ。
今の状態で死人に囲まれるのは、不味い。普段のシリルであればやり過ごせるだろうが、今のシリルは頭に血が上っていた。なにをやらかすのか、予想がつかない。
「追いかけるぞ!!」
ラシルは、エイプリルと共に走った。
森のなかに入り、草木を掻き分けて進む。肌を草の葉や枝で傷つけたが、ラシルはそんなことを気にしなかった。こんな怪我ぐらいは、日常茶飯事だ。なにより、こんな傷ぐらいで立ち止まりたくはなかった。
止まっていたら、その間にシリルが死ぬかもしれない。
それが怖いから、痛みなどでは立ち止まれない。
「ラシル、止まって」
先を走っていたエイプリルが、ラシルを止めた。
ラシルたちの目の前には、死人の群れがぞろぞろと歩いていた。エイプリルのキャンプを目指しており、その光景をみたエイプリルは無言で拳を握る。このまま死人たちを放っておけば、彼らはエイプリルのキャンプをあらすだろう。だが、死人たちを止めるすべはない。
「遠回りするか」
ラシルは、周囲を警戒する。
あれほど群れが近いのなら、はぐれたゾンビもいるはずだ。ゾンビたちの知恵はなく、音に集まっているだけである。それでも、ゾンビになりたての力強い個体が群れの中心点となっていることが多い。そして、時間のたった脆いゾンビが群れから外れてさまよっていることが多かった。
「ちっ……」
ラシルたちに気がついたゾンビが、自分達の元に向っていく。数はまだ少なく恐れるほどではないが、群れのゾンビの気がついてラシルたちの方に方向を変えたりしたら厄介である。
「ラシル、セナはあっちに向ったわ。だから、あっちに行って。私は、シリルのほうを追うから」
二人で別れて、セナとシリルを追う。
ゾンビの群れと遭遇しているなかでは、悪いアイデアではない。音でゾンビは集まってくる。獣人が二人集まれば、足音や喋り声でゾンビは集まる。だが、一人であればゾンビが集まるべき音の発生は半分になる。
「……わかった。シリルは、俺が止めるよりもお前が止めたほうがいいな」
頭に血が上っているシリルは、ラシルの話など聞かないだろう。
エイプリルの話しも聞くかは分からないが、ラシルよりもマシであろう。
ラシルは、エイプリルと別れてエイプリルが示した方向へと向った。進むごとに、死人の数は増えていく。そして、ラシルは足を止めた。
このままセナを見捨てようと考えていた。
死人の数が増えてきた。
彼女をさらった獣人と一緒にセナはゾンビに食べられた、と言えば大抵の人間は納得するだろう。だから、ラシルは足を止めたのだ。これ以上の危険を冒す必要はない、と考えたのである。
だが――と立ち止まって、すぐに考え直す。
シリルは、納得するだろうか。
面倒なことにシリルは、ラシルがセナを見捨てる可能性があることを知っている。きっとセナの遺体の一部でもなければ納得しないだろう。適当なゾンビの腕をセナのものと言えば納得するのかもしれないが、残念ながら手近のところにセナと背格好が似たゾンビはいなかった。子供の体は小さいから、ゾンビ化する前に全て食べられてしまうことが多いのだ。
ならば、本物のセナを見つけて腕の一本でも取ってくるしかあるまい。
ラシルは、再び走った。
死人の数は相変わらず多い。
進むために、ラシルは大振りなナイフを取り出して握った。猫の獣人の最大の武器は爪だが、人間の頭蓋を破壊できるほどの強度ではない。ゾンビは年がたつほど劣化するので、劣化が進んだゾンビならば可能なのかもしれないが――少なくともラシルはそこまで年季がはいったゾンビに遭遇したことがなかった。
ラシルは、握ったナイフでゾンビの眉間を突き刺した。
そのナイフを引き抜き、別のゾンビの頭蓋を破壊する。
ラシルは二体だけゾンビを倒すと、再び走り出す。ゾンビを倒すことに時間を取られることは危険である。他のゾンビに囲まれてしまい、命取りになりかねない。だから、ゾンビとは戦わないのが鉄則だ。倒すときは、自分の進路を妨害されたとき。
「つっ――川かよ」
ラシルが出たのは、川であった。
ゾンビの囲まれたことやエイプリルのキャンプの血の臭いで、水の臭いには気がつかなかった。水深はあまり深くなさそうだが、川のなかにゾンビの姿はなかった。ただ音のする方向に歩くことしかしない彼らは、水の流れに弱い。恐らくは、踏ん張るということができないのだろう。簡単に川に流されていってしまう。
ラシルの視線の先には、橋があった。
おそらくは、ゾンビはその橋からこちら側に渡ってきていたのだろう。
しかし、古ぼけた橋の真ん中でゾンビたちは立ち往生していた。いや、正確には橋の真ん中に集まっていたのだ。
動けなくなった車がいくつも止まっている橋であり、ゾンビのなかにはその車で進路を阻まれている者もいた。だが、車と車の間に隙間が空いており、ゾンビはその間をすり抜ける。遮蔽物としての意味合いは、まったくない廃車たちであった。
ゾンビはわらわらと集まり、生きた肉を求めている。そのゾンビの中心にいたのは、セナを攫った若い獣人であった。どうやら、ゾンビを倒すことに夢中になって逃げられなくなったらしい。
遠目では、セナの姿も確認できた。
セナは、車の上に乗せられていた。ゾンビたちは懸命にセナにも手を伸ばすが、セナには届かない。犬の獣人はゾンビと戦っているが、それもきっと長くはもたないであろう。ラシルが見ているだけで、おそらくはセナは死ぬであろう。
理想のシチュエーションだ。
ラシルは、セナが死んだあとに体の一部でも持ち帰ればいい。
ばちゃ、ばちゃ、と誰かが水を掻き分けて歩く。振り返れば、死人がいた。ラシルの想像より水深が浅すぎて、ゾンビたちの歩みを止めることはできなかったらしい。ラシルは、その死人の頭にナイフを突き刺す。死人は倒れて、川に流れされていった。
ラシルは、橋の上に急いで視線を戻す。
セナは、まだ車の上にいた。
死んでいない。
なぜ、確認するのだろうかとラシルは自分で自分の行動が分からなかった。セナは死んでもいいし、死んで欲しい存在だ。まるで彼女の生死が気になるみたいな行動であった。
犬の獣人が、橋の上から落ちる。
一体の死体と絡み合うように川に落ちた犬の獣人は、悲鳴を上げながらゾンビに食われていた。人間と違い、獣人はゾンビにはならない。動きが止まっても、その死体は死人たちにむさぼられる。きっとゾンビにしてみたら、途中で仲間にならない獣人はご馳走に違いない。
ラシルは、その光景をただ見ていた。
獣人は、悲鳴を上げながら転がりまわっていた。
やがて、動かなくなる。
きっと死んだのであろう。ゾンビの顎の力も歯の鋭さも、普通の人間並みだ。鈍いわけではなく、鈍い痛みが永遠と続く。ゾンビに食われるという最後は、無残だ。生ながら食われて、後には何も残さない。
ラシルは、若い獣人の肉体をむさぼっていたゾンビの脳天にナイフを突き刺した。敵であっただろうが、同じ獣人とできる唯一のことをしてやりたかった。たぶん、ラシルたちが人間であれば若い獣人の米神にもナイフを突き刺していただろう。だが、ラシル達は獣人。
死体になってまで、止めはいらない。
ここで、若き獣の人生が終わった。彼の胸にはキラキラ輝く、ドックタグがぶら下げられていた。自らの父と母の名前と彼を管理するべく名づけられた名前が書かれているはずだったが、ラシルはそれに興味を持たなかった。死んだ相手の名前など、どうでもよかったのだ。
「きゃぁ!!」
橋の上から、甲高い声が聞こえた。
ゾンビが他のゾンビを無意識に足場にして、廃車の上にのぼっていた。
セナは、腕をゾンビに齧られていた。派手な柄のワンピースを着た、女性のゾンビだった。初めてゾンビに齧られたセナは、パニックに陥っているようだった。大して効果もないのに、ゾンビの頭を叩き、胴体を蹴り上げる。
だが、それではゾンビたちに殺すことはできない。彼らを止めるには、頭部を破壊しなければならない。だが、セナは武器もなにも持っていない。セナに蹴られたゾンビは車からは転がり落ちるが、すぐにまた上ってくる。
「――……けて」
声が聞こえた。
泣き声だった。
「たすけてっ!!」
子供が懸命に助けを求める声に、ラシルは不安になった。
セナの声は、幼い頃のシリルに似ていたのだ。
血が繋がっているのかもしれない、と不安になったラシルの心は思う。同時に、血が繋がっていたらどうしようという気にもなる。
だが、繋がっているからといって何になるというのだろうか。
子供を捨てる親もいれば、ラシルのように親を殺す子もいる。今ここでセナを見捨てることが、ラシルの計画の一部だった。
だが、セナの悲鳴を聞いてラシルは動けなくなっている。セナがシリルの実子である可能性に思い当たって、セナがあまりにもシリルの幼い頃に似ていたから。
――見捨てるのが、怖くなってしまった。
ゾンビが、橋の上から落ちる。
セナが、きっと蹴り飛ばしたのだ。
遅れて、セナが橋の上から飛び降りた。宙に浮き上がる、小さな体。両手を大の字に広げて、着地のことを何も考えていない愚かなジャンプだった。
ラシルは、一瞬にして過去にタイムスリップしたのではないかと錯覚した。
セナの姿が、かつて幼かった頃のシリルに重なった。シリルも幼い頃、兄をこの世で一番の味方で思っていた頃、こうやって愚かしいダイビングをしたことがあった。ラシルが、受け止めると信じていたのだ。
あの頃のラシルは、シリルが何を求めているのか分からなくてシリルは結局は着地に失敗して骨折した。だが、今のラシルはシリルが何を求めているかが分かった。
受け止めた。
飛び降りてきたシリルを……セナをラシルは抱きとめた。
「痛い!!かまれた、いたぁい!!」
セナは、ラシルの腕の中で泣いていた。
彼女の腕には、ゾンビに噛まれた痕がある。人間ならば致命傷だが、獣人ならばゾンビにはならない。
「泣くな」
短く、ラシルは言った。
自分自身の行動に苛立ってもいた。
セナを助ける気などなかったのに、助けてしまった。いや、これは助けたのではない。ただ落ちてきたものを咄嗟に拾ってしまっただけだ。
セナは、唇をかみ締めて涙目でゾンビたちを見ていた。ゾンビたちは続々と川へと落ちてきて、ラシルたちに近づこうとしていた。
「セナ、話すな、泣くな。死ぬからな」
ゾンビの数が多すぎる。
できる限り静かに、この場を立ち去らなくては。
セナは、ラシルの肩をぎゅっと掴んでいた。町でシリルがセナの服を探していたとき、バーでセナはゾンビたちを恐れなかった。それは、きっとゾンビたちがもたらす痛みを知らなかったからであろう。
今は、知った。
だから、恐れている。
ラシルは、セナを抱きかかえながら川を出た。そして、山の中に入る。ゾンビたちはラシルたちを追って山へと入り、ラシルはよりいっそう早足になった。ラシルとセナは、木に登る。高いところならば、ゾンビたちは手が出せない。
なにより、ラシルは自分の体力の限界が近いことを分かっていた。
猫には、スタミナがない。
なのにセナを抱えて山道を走るなど、自殺行為だったのだ。ラシルは、いつもよりも早く息を切らした自覚はある。
だから、かもしれない。
ラシルは、確認を怠った。
木に登っている途中で、ラシルがつもうとしていた枝が折れたのだ。十分に太さのある枝で、先にセナが上ったときはなんともなかった。だが、枝の中身が腐っていたのだ。かろうじてセナの体重は支えられたが、ラシルの体重は支えられなかったらしい。咄嗟にラシルは別の枝に捕まったが、その枝は細すぎた。すぐにまた折れる。
「ラシル!」
上から声が聞こえた。
ラシルの手を掴んだのは、セナであった。
セナとラシルの体重差では、セナがラシルを支えることなど出来ない。咄嗟にラシルが木の幹に爪を立てていなければ、二人ともゾンビの群れのなかに落ちていただろう。
ラシルは、セナと同じ高さまで木に登ることができた。先に木の上にいたセナは、ほっとしているようであった。ラシルは、セナの胸倉を掴んだ。
「なんで、俺を助けようとした!」
セナでは、助けにならなかった。
逆に、ラシルと共に落ちてしまう可能性があった。なのに、セナは躊躇せずにラシルの腕を掴んだ。
「あなたも私を助けてくれたわ」
セナは、答えた。
「俺達はおまえをセンターから……さっきのことか」
ラシルの脳裏には最初にセンターのことが頭によぎったが、すぐにセナが言っているのがさっきの橋の上からのジャンプだと気がついた。
「それに、家族なんでしょう」
セナは、自分の胸倉を掴むラシルをじっと見つめていた。
あまりに真っ直ぐな視線であった。
その視線に、ラシルは少しばかりたじろぐ。
「あのキャンプにいたかもしれない……私の母はきっと死んだと思う。だから、私は母の代わりにあなたたちの家族に早くちゃんとならないと」
セナは、真っ直ぐそう呟く。
彼女なりに成長しようとしているのだ、とラシルは思った。その覚悟は、エイプリルのキャンプで亡くなったと思い込んでいる母親の代わりになるというものだった。
「違う」
ラシルは、セナから手を離した。
「お前の母親は、エイプリルのキャンプにはいなかった」
ラシルの言葉に、セナは驚く。
「なら、どうしてキャンプを目指したの?」
「キャンプには、ジーンがいた。犬の獣人で、エイプリルのキャンプのリーダーだ。シリルと親しかった」
一番親しい、他人だった。
セナは、父親がジーンの可能性があった。しかもセナの尻尾には、犬の特徴が現れていた。セナの真っ黒な尻尾は太くて、しかも毛質が硬い。猫にはない特徴である。
可能性があるからこそ、セナとジーンを会わせることにシリルは躊躇していた。しかも、確実にセナがジーンの子であるという証拠もない。そもそも、シリルの子であるという証拠すらないのだ。
「ジーンは、おまえの父親の可能性がある男だった」
それでも、ラシルは気がつけばそう言っていた。
せめて、ジーンであればと常々思っていたせいである。シリルの妊娠は、人工授精である。ジーンは同時期に人間に囚われていたから、精子の提供者は彼だとシリルもラシルも思い込もうとしていた。
「犬なのに?」
セナも、さすがにおかしいと思ったらしい。
「獣人は、犬猫であるまえに人だ。異種交配の可能性はある。低いけどな……」
「なら、私の母親はどこにいるの?」
セナは、まっすぐにラシルを見つめた。
その眼差しには、シリルの面影があるような気がする。しかし、気のせいなのだろう。
シリルは、すごく綺麗だ。
家族のラシルの目から見ても、ぞっとするほどだ。セナに、そういう綺麗さはない。セナは、大きな瞳も相まって――ただただ愛くるしい。
「セナ、シリルをどう思う?」
ラシルは、尋ねてみた。
「あの人は、ちょっと怖い。だって、簡単に人を殺してた」
セナは、身を震わせた。
彼女にとって、シリルは怖いという印象らしい。たしかに、シリルは人を殺した。だが、人間とは敵なのである。人間に育てられたセナは、まだそれが分かっていない。
「セナ、人間は敵なんだ。俺達を殺そうとする」
「でも、センターの人は」
「それは目的があったからだ」
どういうたくらみだったのかは分からないが、セナは人間のたくらみに利用されていた。シリルと同じ立場だった。違うのは、セナは利用されていることすら判断できなかったことだ。
「人間は怖い。ゾンビも怖いが、人間も怖い。だから、絶対に心を許すな」
そういったとき、ラシルは足元の異変に気がついた。
ゾンビたちが、動かなくなっていたのだ。
「これは……」
ラシルは、地上に降りる。
ゾンビたちはわずかに動くが、その動きはもはや虫の息である。ラシルを捕まえるだけの力もない。ラシルは指先で、ゾンビの一体に触れてみた。
「熱い……熱があるのか?」
ゾンビが発熱するだなんて、聞いたことがない。
だが、触れたゾンビは確かに発熱している。
「セナ、お前も降りて来い。セナ?」
呼びかけても反応がない。
ラシルは木に登って彼女の様子を確かめたが、セナは木の上で気を失っていた。息は「はぁ、はぁ」と荒く、顔はリンゴのように赤かった。一目で、普通の状態ではないと分かるような姿であった。
「おい、セナ。セナ!!くそっ、こっちも熱かよ」
セナは、異種交配でできた子だ。
体が弱い。
おそらくは、ゾンビたちが持っていたなんらかの病原菌に感染したのだ。いや、本当にそうなのか。今まで、ゾンビの病原菌に感染した仲間なんていなかった。なのに、セナはゾンビから病をうつされている。
「そこにいるのは、ラシルなのか?」
地上から、声が聞こえた。
その声のほうを見ると、見知った獣人の姿があった。
「ジーン……おまえ生きていたのか」
ラシルば、久々に見る友人の姿に呆然とした。
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