第2話センターの崩壊
セナの世界は、とても小さい。
檻のなかが、セナの縄張りだ。セナに接するのは、ドクターと数名の職員のみ。これが人生に関る人数として多いのか少ないのか、セナには分からない。ただ、彼らはセナとは似ているようで違うことがたくさんあった。
姿格好は、セナとドクターたちに変わりはあまりない。セナには獣のような耳や尻尾といった余分なものがついていたが、彼女にとってそれは大したことではなかった。
二本足で立って、互いに同じ言葉を喋ることができる。それだけで、セナにとってドクターたちは同類の生物であった。
でも、不思議なことにドクターたちは常に白衣という白い邪魔そうなものを羽織っていた。セナは、そんなものは着ない。
何にも着ていない。
ドクターたちは、セナが獣人だから必要ないと言った。たしかに必要なかった。
檻のなかにいる。だから、セナの服はいらない。
そして、セナは外というものがあることを知らなかった。知ったのは、セナの前に大人の獣人が現れてからであった。
けたたましく警報装置というものが鳴っていた。外部からの侵入者に対して煩く鳴り響くことをセナは知っていたが、慌てるということはなかった。
外部からの侵入者はたいていセンターの食料や武器などを求めてやってきており、セナのような獣人に手を出すことはなかった。おそらく、セナがここにいることに気がついてもいないだろう。
だから、セナは慌てることなどしなかった。
目の前に、知らない獣人が立っていても侵入者であるとは思わなかった。そもそも、侵入者が自分に興味を持つだなんて考えてもみなかったのだ。
「名前は?」
侵入者は、セナに尋ねた。
その問いかけに、セナは驚いた。ドクターも職員も、セナのことを知っていた。彼女の生まれたからの記録をずっと知っていて、セナが答えることなんてなかった。セナ自身よりも、ドクターたちのほうがセナの専門家だった。
「名前は、なんだ?」
侵入者は、必死にセナに問いかけた。
セナは、大人の獣人を初めて興味深く見つめた。
自分と同じように尻尾と耳が生えている。そして、体つきは何だからおかしな感じだった。セナは人間の大人の男女を見た事があるが、そのどちらにも獣人は似ていなかった。おかしな獣人は、セナの目にはまるで大人になりそこなったものに見えた。
「……セナ」
生まれて初めて、セナはまったく知らない獣人と口をきいた。
獣人の顔が、ぱぁっと明るくなった。
「セナ。……聞きなれないけど良い響きだ」
こい、と獣人は手を伸ばす。
檻の鍵は壊れていて、セナが身を守れるものはなにもなかった。
セナは、おずおずと獣人の手を取った。自分とまったく同じ高さの体温で、セナはびっくりした。そして、獣人はセナの肩に布をかける。セナには大きすぎる、大人用の外套であった。たぶん、セナの目の前にいる獣人のものだろう。
「もう……離すもんか」
獣人は、セナをぎゅっと抱きしめた。
いきなりの行動に、セナは急に怖くなった。安全な折の中に戻りたいと思うのに、獣人はまったく離してくれない。そのとき、セナの目に見慣れた人間の姿がうつった。
「ドクター……」
獣人が、セナを抱きかかえたまま振り返った。
すでに消灯の時間は過ぎているから、普通の人間にはただ真っ暗な闇しか見えないはずだ。それなのに獣人は、セナと同じようにドクターの姿が見えているようであった。
セナの目には、しわがれた一人の老人が見えていた。
皺一つない白衣の下には、何日も着替えていないだろうシャツやズボンが見える。なんてことはない、セナには見慣れたいつものドクターだった。
「ひさしぶりだな、おい」
獣人が、口を開く。
セナが想像したよりも、ずっと低い声であった。
「最後に聞いてやる。こいつは、俺のだな」
獣人は、ドクターにそう問いかけた。
ドクターは、答えない。
セナは、変だと思った。
いつもならば、ドクターは人に尋ねられると煩いぐらいに多すぎる返事を返す人だった。けれども、今は黙りこくっている。
まるで、死人のようだ。
「ちっ。最後の証人まで、死人になりやがった!」
獣人は、真っ暗なセンターのなかをセナを抱きかかえながら走った。
ドクターは「おぅうお」とよく分からない言葉をうめいている。セナはちゃんとしているときのドクターを知っているが、今のドクターはまるで別物であった。
獣人がセナを抱えて走る間に、センターの従業員をたくさん見た。
そして、従業員に襲い掛かる胡乱な人々も同時に見た。彼らは腐っていたり枯れていたりと様々であったが、一様に嫌な腐臭がした。動くものに我武者羅に手を伸ばして、悲鳴を上げて逃げ惑うセンターの従業員に噛み付いていた。
噛みつれた従業員たちはしばらくは大人しく食われていたが、やがて胡乱な人々と同じような臭いをさせて起き上がってきた。目には生命はなく、別人になったかのようだった。
「知らないのか?」
獣人は、セナの様子に面食らったようであった。
セナは、素直に頷く。
「あれは、ゾンビだ。……俺たち獣人は噛まれても感染しないが、人間は感染してああなる。もっとも、ゾンビは差別せずに襲ってくるけどな」
ゾンビというものになったドクターは、セナたちを追ってくる。セナを助けたいという願いよりも、セナを食べたいという欲求が見え隠れする不恰好な走り方であった。
セナはそれを見て、胸のなかに空洞が空いた。
セナにとってドクターは、今日までずっと父親のように慕っていた人物であった。従業員も家族みたいな存在だった。それが自分を食べるために追いかける物体に変化したことに、ぼろぼろと涙が零れた。
獣人は、セナの涙に気づかずにただ走っている。
灯りが落とされた暗い道も、獣人には楽な道のりであった。けれども、ゾンビになってしまったドクターはその道に辛いようだ。
息を切らしながら、ドクターはセナたちを追いかけてくる。その顔に、かつて人間であったころのドクターの落ち着いた面影はない。今あるのは、自分の腹を満たしたいという欲求だけ。
それでも、セナは良かった。
見知らぬ獣人に抱えられるよりも、化け物になったドクターの腕に抱かれたかった。ドクターは涎をたらし、ほとんど四つんばいになりながらもセナたちを追ってきていた。
ドクターは足が悪かったから、きっと歩くのが辛くなったのだろう。急に、セナを抱きかかえていた獣人が止まった。
獣人の前には、高い位置に窓だけが一つ。
あとは何もない、行き止まりであった。
きっと、ここで自分は獣人の腕から下ろされる。
セナは、そう確信した。そして、それを救いだと思った。狭い檻で生きた自分は、少なくとも自分の縄張りのなかで死ぬことが出来る。幼い獣人は、それを救いだと思った。
「俺が、お前にされた仕打ちを忘れるわけがないだろ」
獣人は、セナを抱きかかえたままでドクターのほうを振り向いた。セナは、月光を浴びてきらめく獣人の爪を見た。人間のものよりも固く鋭い爪は自分と同じものであり、セナはそれに嫌な予感を覚えた。
カミサマ、とセナは念じた。
実のところ、セナはカミサマという人物を知らなかった。ただセンターの職員が口にしているところを聞いたことがある。それは決まって警報装置がなった日のことで、職員達は口々にカミサマと唱えていた。唱えないのは、ドクターぐらいだった。
ドクターは、カミサマを信じていなかった。
そんなドクターの頭を、獣人はえぐった。鋭い爪は一撃でドクターの皮膚を引き剥がし、てらてらと光る血しぶきを上げさせた。しかし、さすがの爪も頭蓋骨は貫通しない。獣人はドクターを蹴り飛ばし、足でその頭を踏み潰した。
ぐしゃり、と音がした。
耳を覆いたくなるような、酷い音だった。
「ちくしょう。死人どもが陽動になればいいとは思ったが、入り込みすぎだ!」
獣人は叫ぶと、窓へとひょいっと飛び上がった。
おおよそ人では考えられない跳躍であったが、セナは驚かなかった。自分もきっとコレぐらいの窓ならば、飛び上がれると思っていたからである。
だが、窓の外は湖だ。
セナは泳げないし、セナと同じ格好をした獣人だって泳げないであろうと思った。だが、獣人は窓から身を乗り出す。
「連れて行かないで!」
セナは、思わず叫んだ。
見たことのない外の世界が、恐ろしくてたまらなかった。たとえセンターのなかが死人でいっぱいになっているとしても、セナにとっては暗闇だけが広がる外の世界よりはマシだった。
「それは、ダメだ」
獣人は、セナを抱きかかえたまま湖に飛び込もうとした。セナは無意識に呼吸を止めた。だが、いつまでたっても冷たい水の感触はやってこなかった。
代わりに「とん」という静かな足音だけが聞こえる。
「さっすが、兄貴。位置がぴったりだったな」
「おまえな……機嫌がいいときだけ人を褒めるのを辞めろ」
獣人が飛び降りたのは、小さな手漕ぎボートの上だった。
そして、そのボートのオールを持っていたのも獣人だ。セナを抱きかかえている獣人よりも、歳をとっている。男性で厳しい顔つきだった。
「その耳……本物?」
セナの言葉に、厳しい獣人は目を点にしていた。どうやら、セナがそんなことを聞いてくるとは思わなかったらしい。だが、セナにしてみれば厳しい男に獣人の耳はまったく似合っておらず、まるであとからくっ付けたように思えたのだった。
「――シリル、その様子じゃおまえは何一つ証拠を手に入れられなかったみたいだな。この生意気な餓鬼はお前にそっくりだが、証拠がないんだったら湖にでも捨てちまえ」
厳しい獣人は、そう語った。
セナは、それは本気の言葉であろうと思った。けれども、シリルと呼ばれた獣人は、その言葉をまったく信じていないようだった。
「おい、おどすなよ。セナ。この顔が怖いのは、ラシル。おまえの家族だ」
ラシルと呼ばれた厳しい獣人は、もうセナに興味を失ったようであった。
というより、セナたちが飛び降りてきたセンターを気にしているようであった。初めて外からみるセンターは、崖に聳え立つ巨大な四角い箱であった。窓はごく小さく、そこから銃弾の発砲音が聞こえた。センターのなかは、たぶん今頃地獄なのだろう。あの死人たちに、職員達はずっと追われているに違いない。
「ざまあみろ」
シリルが、とても冷たい口調でそう言った。
セナには、シリルがどうしてそんなことを言うのか分からなかった。
何一つ、セナには分からなかった。
そんなセナでも、分かったことがある。
この世には、三つの種族がいる。
一つは、ドクターや職員のような人間。
もう一つは、セナたちのような獣人。
そして、動く死体たち。
この大きな世界は、どうやらその三つの種族であふれかえっているらしい。
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