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「いや昨日の菅田は本当に酷かった! 変化球はほとんどボールだし、ストレートは打たれるし、もう何度交代しろ! って叫んだかわかんねぇよ。監督も監督で、頑として交代させないでやがって、あんなのはただの意地っぱりでしかないね。指揮官としては調子の悪いピッチャーは交代させるべきだったんだ。あれじゃ菅田だって可哀想だよ」
上司である森川茂雄の大声は、隣の部屋はもちろん、この小さな居酒屋全体に響き渡っているのではないかと思われるほどだった。
優斗の職場では、月に一度飲み会がある。大抵第三金曜日と決まっているが、以前理由を聞いたら誰も知らなかった。おそらく「丁度飲みたくなる頃」なのだろう。下戸の優斗にとっては「丁度早く帰ってゆっくりしたい頃」なのだが、そうも言えない。
「ホントっすよねー! 俺に監督やらせろっつー話っすよね!」先輩の高田浩二が話を合わせている。普段は真面目で固い印象の高田だが、酒が入ると途端に声が二オクターブくらい高くなり、饒舌になる。そして飲み会の後半では、高確率で脱ぐ。
森川の周囲には、他にも数名の男性社員がいて、皆揃って野球の話に花を咲かせていた。優斗は酒も飲めず、野球もわからずなので、自然にその輪から外れて、おばさんたちのグループに取り込まれることが多い。年配の女性は勝手に喋って勝手に笑い、時折適当にいじってくれるので、とても楽だ。
森川の話は、昔話に変わった。自分が高校球児だった頃の話で、飲み会の席では定番となっている。席が離れているにも関わらず、おばさんたちの話し声と同じボリュームで聞こえてくる。おばさんたちも負けじと声量を上げるので、居酒屋の薄い壁など吹き飛んでしまいそうなくらい五月蠅くなった。
聞き飽きた話なので、森川の周りの皆は集中して聴くのをやめていた。再び料理に箸を伸ばしている。昔野球をやっていた人は、今でも野球に夢中なのだろうか。高田はサッカー部だったと以前話していたが、何かのスポーツに取り組んでいたことがあると、経験のないスポーツも好きになれるものなのだろうか。
優斗の父も昔は高校球児だったらしい。だがそれだけで、毎日観ないと気が済まないという様子にまでなってしまうのが不思議だった。優斗は、中学生時代に科学部に入ったが、何かの部活に所属しなければならないので入っただけで、もちろん現在科学に夢中なわけではない。あの頃行った可愛らしい実験の数々も、今ではもうほんの僅かしか思い出せない。
自分が意識して映画を観ていることも、他の人から見れば同じように映るのだろうか。同じではない、とは思うが、どう違うのかを説明できる自信がなかった。
不意に、森川が立ち上がり「はい皆さーん!」と大声を出した。地声が十分大きいので、張り上げた声はきっと店の外まで届いただろう。その声で立ち止まった人が客として入ってきたら面白い。森川には、店から生ビールがサービスされるのではないだろうか。
森川は側にいた一人の男の腕を取り、隣に立たせる。松崎太一郎という、痩せた男である。年齢は森川の少し下というから、五十半ばだろう。彼もいつものことなので、抵抗せずに立ち上がる。
松崎は線が細く、物腰も柔らかい。声も優しく、どちらかと言うと小さいほうで、とても体育会系に身を置いていたとは思えない人物だった。柔和な笑みを浮かべながら「毎度お騒がせしてすみません」とでも言うように、何度も小さく頭を下げている。
「えー! 松崎くんは! なんと! 伊藤園……じゃなくて! 甲子園の! 準々決勝まで行った男です! はい拍手―!」森川の渾身のボケを完全にスルーして、その場の全員が拍手をする。隣の部屋でも何人か拍手している人がいた。
「そしてな! 本気でプロを目指していた! すごい男です! はい拍しゅー」言い終わる前に拍手をしたが、森川の大声は完全には消せなかった。
その後何かがあるわけでもなく、二人は着席し、また場は元に戻った。松崎はなぜプロ野球選手になれなかったのだろう。甲子園の準々決勝と言えば、凄いことだと優斗でも思う。甲子園に出るというだけで、地元が大騒ぎするほどの名誉なのだ。準決勝まで行けば、県知事賞くらいもらえるのではないか。
プロにはなれなかったのではなく、ならなかったのだろうか。高校までだったのだろうか。それとも、大学に入ってからも野球を続け、もしかするとそれ以降も、プロ野球選手になるという夢を追っていたのか。それは訊いてみないとわからない。だが、確実にその夢を諦めた瞬間があるはずだった。なぜ諦めたのか、いつ諦めたのか、むしろそれを訊いてみたいと思った。もちろんそんなことは訊けるはずもないが、優斗は松崎に対して、ずっとその想いを抱いていた。
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