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 残業を小一時間ほどしていたので、帰宅した時には十九時を過ぎていた。いつもの時間である。残業と言うのは名ばかりで、実際は他愛無いお喋りをしながらの片付け作業のようなものだ。だが、優斗はその時間も特に嫌ではなかった。

 玄関を開けると、居間から「おかえりぃ」と母の声がした。この時間に家に入ってくるのが、優斗以外にはありえないと思っている。玄関の鍵もかかっていない。不用心だといくら優斗が話しても、一向に改めようとはしない。

「ただいま」優斗はドアを開け、居間に入った。

 母はキッチンに立って、夕食の準備をしている。父はテレビの野球中継を見ながら「おかえり」と言った。

「着替えてくれば?」母が温め直している味噌汁をよそいながら言う。

「いや、食ったらすぐ風呂入るし」優斗はネクタイを外す。

「あら珍しいこと」

 ソファに座って夕食の用意が整うのを待つ。父は食い入るように画面を見つめている。今日は巨人とヤクルトの試合のようだ。優斗は野球に興味はないが、父が巨人ファンでいつも見ているため、いくらか知っている選手はいる。そのうちの一人が、もうすぐ三千本安打という記録に達するらしく、画面の右上に「あと二本」と表示されていた。

 スポーツ観戦は苦手だ。元々運動が得意ではなく、中学校の部活も文化系を選択したから、というのも理由の一つだが、それよりも、プロのスポーツ選手を見ることが苦手だった。自分と同じくらいの年齢、もしくはずっと若い選手が活躍する、輝かしい世界。自分もそこに行きたいわけではない。給料の差を僻んでいるわけでもない。ただ、見続けてはいけないような、直視してはいけないような、そんな気分になってくる。

「打った!」父が叫ぶ。巨人の攻撃で、ヒットを打ったらしい。

 ヒット一本でなぜそんなに喜ぶことができるのか、優斗には不思議でしかたがない。ヒットを打ったからと言って点が入るとは限らない。ホームランならすぐに点が入るので、興奮するのは納得であるし、素直に凄いとも思う。選手は一気に二塁まで進んだ。「ツーベースヒット」というやつだろう。これで点が入った場合は、たしか「タイムリーツーベース」と呼ばれていたような気がする。点が入った素晴らしいヒットなのに「タイムリー」の一言で片づけられてしまうのは少しもったいない気もする。

 夕飯の準備ができた。今日は白米に味噌汁、胡瓜の漬物と、野菜炒めだった。実家暮らしは本当に楽である。大学の時に一人暮らしをしていたので、優斗は本心からそう思う。食事はもちろんのこと、洗濯も風呂掃除もやらなくて済むのだ。たまに自分の部屋を掃除する必要はあるが、それも数十分のことである。

 食事を終えて風呂に入り、自室に戻る。ドアは十センチほど開けておいた。ベッドの上には、きちんと畳まれた優斗の服が置いてある。現在の時刻は九時を少し回ったところ。優斗はテレビとブルーレイプレイヤー、そして炬燵の電源を入れた。四月の夜はまだ寒い。

 録画一覧を流し見したが、観たいものはなかった。最近はゲームもやる気になれない。優斗は立ち上がり、本棚に向かった。本棚の上段には、DVDがたくさん並んでいる。中古で購入したものも十数本あるが、多くは以前録画したものを保存したものだ。そのため、背表紙でタイトルが判断できず、いちいち取り出して見なければならない。何枚かを適当に掴んで棚から引き出すと、炬燵に戻った。

 インデックスのないDVDケースの内側に、タイトルを羅列したメモ用紙が挟み込んである。優斗は上から順にそれを見ていく。一つのタイトルを見つけ、ケースから取り出し、プレイヤーにセットした。残りも見て、次に観ようと思うものを分けておく。

 リモコンを操作すると、収録されているタイトルが一覧で表示された。その中から、優斗は『たぶん、うまくいく』という映画を選択する。録画しただけでまだ観ていないものだ。

 優斗は、時間があるときはなるべく映画を観るようにしていた。興味のないタイトルでも、知っている役者が一人も出演していなくても、そしてそれがもしつまらなくても、一応最後まで観る。幼い頃から映画は好きだった。だが、観ているうちに、優斗は自分自身に疑問を持つ。特につまらない作品を観ている最中に、強く思う。


 今さら、なんのために観ているのだろう。

 これを観て、何を得ようとしているのだろう。

 得られたとして、それをどうしようというのだろう。

 興味のないもの、あまりにも好みからかけ離れているものは、観る必要はないのではないか。

 観るジャンルやテーマを決めたほうが良いのではないか。

 ただ観ているだけではいけないのではないのか。


 何のために?

 未來のために?

 未來?


 その疑問を、いつも優斗は「映画が好きだから」と切り捨てる。

 テレビ画面の中では、主人公たちが生き生きと躍動している。音楽が流れ、セリフが飛び交う。物語が少しずつ進んでいく。

 この「作品」を、今世界中の何人が観ているのだろう。優斗は一瞬だけ、そんなことを考える。

 胡坐あぐらをかいた膝のあたりがノックされる。いつの間にか、開けておいたドアの隙間から、猫のリンが部屋に入ってきていた。いつものように、膝の上に乗せろと言っているのだ。優斗は胡坐を直し、炬燵布団を整えてやる。当然のように、リンはその上に乗り、組んだ足の中央で丸くなった。

 今日の映画のBGMには、ゴロゴロと鳴る音は合わなかった。

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