第3話

 しゃもじが猿を食い止めてくれたおかげで、追手に追いつかれることなく木造の家に戻ることができた。

庭に少女の姿を見つけ、近寄ってみると、赤い土管があった。

「なにこれ」

 土管を赤く塗っていた少女は顔をあげ、待ってましたと言わんばかりに表情を輝かせる。

「あなたの世界に帰るためのゲートだよ」

 たしかに、私たちがくぐってきたものと同一のものではあるが、脱出の要になるだろう供物の用意ができていない。

「大丈夫。おばあちゃん殺して供物にしたから」

 少女はさらりと言ってのけ、刷毛を使って土管の着色を再開する。まさかとは思うけれど、その赤いペンキはお祖母ちゃんの血液ではないだろうか。

「そうだよ。おばあちゃん、猿にあなたを殺させようとしてたみたいだったから」

 ああ、やっぱりお祖母ちゃんは私を怨んでいたのだろう。

「犬ころは?」

 少女は私の後ろを確認し、辺りを見回した。

「猿から私を逃がしてくれて」

 なるほどね、と皆まで言わずに理解してくれた。事実を口にした私が罪悪感で押しつぶされてしまうことを防ぎたかったのだろう。少女は目を閉じ、ため息をつく。それだけの行いで、彼女がしゃもじの死を悼んでくれたのだということがわかった。

 私は少女の背中に抱きつき、声を出すことなく涙した。飼い主でありながら、その責任を果たすことができなかった情けなさが悔しかったからだ。少女は黙って私の頭を撫でてくれる。


しばらくはそうしていたかったけれど、猿の叫び声が聞こえた。振り返ると、手負いの猿が数匹、こちらに向けて駆けてくる。土管はまだ完成していない。

「こっち」

 少女は道具を放り出して私の手を引き、家の中に入る。鍵をかけて家に閉じこもると、猿は天井に乗って屋根を殴る。猿がこの家を破壊できるとは思えないが、窓という脆い部分に気がついてしまったら、成す術がない。何とかして猿を倒さねば。

「このへんに猟銃があったはずなんだけど」

 少女は戸棚をあさり、武器を探している。私も武器を探そうと部屋の奥に入ると、微かな血溜まりと老人らしい皺だらけの足が覗いていた。

「何見てるの?」

 少女の声に振り返ると、口づけを迫られているかのような距離に顔があった。驚きで肺が潰れてしまったかのように声が出ず、わけもわからぬまま、ただ首を振って何かを否定した。少女の乾いた唇が私の頬を齧るように撫で、噛みつかれてしまうのかとおののいていると、少女は何かを思い出したかのように私から跳ね退き、別の部屋に行った。

「なんなの」

 敵なのか味方なのかわからなくなる少女の不安定さが恐ろしい。だからといって、ここから飛び出したところで、私にはなにもできない。今は少女を味方だと信じて、猿を退治しよう。


 大きな物音がし、そちらに目をやると猿が煙突から落ちてきた。煙を出していた煙突のもと、暖炉には、当然のことながら薪が燃えており、猿はその火に焼かれていた。

 あまりの熱さからか、猿が炎から飛び出してきそうだったので、テーブルに置かれていたティーカップを投げつけて相手の動きを制止させようとした。しかし、効果はあまりなく、猿は燃える身体を鎮火しようと、部屋中を転がり回った。その拍子に猿は勢いよく戸棚にぶつかり、倒れてきたそれに潰された。

「私のせい?」

 ほぼ自滅とも思える猿の行動の結果に、責任の所在を確かめてしまった。

「違うでしょ」

 少女は猟銃を一丁と一箱の弾丸、フルーツが入ったバスケットを持ってきた。彼女は暖炉に果物を放り投げて燃やすと、暖炉に猟銃を向けて静止した。果物につられた猿が暖炉に落ちてくるという寸法なんだろうか。果てしなくうまくいかない気がする。


 なんとも間抜けな方法ではあるが、無事に猿を退治することができた私たちは、庭で土管を完成させた。

「さあ、這うようにくぐって。犬のようにね!」

 素直に従う気をなくならせる言いかただったけれど、サイズ的にはそうしなくてはならない。来たときと同じように四つん這いで土管の中に入る。中ほどまで来たところで手を伸ばすと、水面に手を突っ込んだときのように、空間に波紋が浮かぶ。安全性を確かめていると、少女は私の尻を何度も叩いて急かしてくる。冷たい水に入ったような冷たさのあと、眩しさはなかった。


「起きて、ねえ」

 真奈美の声がする。柔らかい枕の上に仰向けで寝ていた私は、目を覆っていた腕をはずすと、そこは土管の中だった。

「やっと起きた?」

 頭の上に視線を送ると、真奈美の顔があった。そして、私が枕にしていたのはしゃもじのお腹だった。私は身体を反転させ、うつ伏せになる。

「どれくらい寝てた?」

 真奈美は首をかしげ、携帯を見る。

「そんなには寝てないと思うよ。メールが届いてから三〇分くらいしか経ってないしね」

 目を閉じて眠っているしゃもじの頭を撫でると、しゃもじはだるそうに首をもたげ、私の指先をちろと舐めてから再び寝る姿勢をとった。しゃもじの舌が冷たい。

「しゃもじ?」

 揺すって呼び掛けるが、返事はない。

「嘘だよね?」

 夢の中の出来事だったはずなのに、しゃもじはその夢の中で私を守って死んだ。

「仕方ないよ。もう歳だったんだから」

 真奈美はそう言って、冷たくなったしゃもじを優しく撫でた。

 そうじゃないんだよ、と私が夢の中の出来事を真奈美に話せるようになったのは、ずいぶんと時間が経ってからだった。

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土管の先に 音水薫 @k-otomiju

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