第2話

 少女はさきほどまで聞こえていた、雪解け水のような歌声の持ち主だった。猿は彼女が歌い始めた途端に近寄ってきて、呪詛のような言葉をつぶやいていたという。猿はただ少女の歌を聴きたかっただけだったのではないだろうか。

「目つきがいやらしかったから、嫌。集中途切れるし」

 少女は眉間にしわを寄せ、うえーっと舌を出して、猿の顔を思い出すことさえ嫌がった。

 しゃもじはもらったお気に入りのおもちゃを庭に埋めるときと同じように手で土を深く掘り、出会い頭に自分で殺した猿を土葬していた。こうしているのは、誰でもない彼の提案だった。全犬と猿がいがみあっているわけではないらしい。

「安らかに眠れ」

 後ろ足で掘り起こした土をかけ、穴を埋める。タキシードを脱いだ、見慣れたしゃもじの姿に安心を覚える。

「あなたたちはどこに向かっているの?」

 この世界から脱出することが当面の目的ではあるが、当てがあるわけではない。この森に入ったのは、歌に誘われたからといったところだ。

「女。お前はこの世界から出る方法を知っているのか?」

 タキシードを着直したしゃもじは、やや高圧的だった。もしかして、これが彼の本性であり、私は彼に特別扱いされているのだろうか。しゃもじの白毛の手が土で茶色くなっていたので、ポケットに入れっぱなしだったハンカチで拭いてやる。手を差し出し、おとなしく拭かれているようすはいつものしゃもじだった。しゃもじは手が綺麗になっていくさまを凝視し、私の頭に鼻息をかける。

「知らないわ」

 少女は素っ気なく答える。しゃもじの態度が気に喰わないのか、そっぽを向いている。確かにしゃもじはやや目つきが悪く、近所の小学生たちに狼みたいだと言われて怖がられてはいるが、とても利口ないい子なのだ。飼い主だからひいき目に見てしまっているというのは否定できないが、やはり彼が嫌われることに悲しみを覚えずにはいられない。そんな考えが表情に出てしまっていたのか、少女は私を見て、やや不満げに唇を尖らせる。

「おばあちゃんに訊けば、なにかわかるんじゃない? 森の奥にいるから」

 言葉尻を荒くして言う彼女はすねているようではあるが、私に対して申し訳ないという思いを持ったようだった。

「ありがとう」

 ハンカチをポケットにしまい、私が少女の手を握って礼を言うと、彼女は耳まで赤くなった顔を膝に埋めてしまったが、手を握り返してくれた。

「案内したげる」

 私には聞こえないつぶやきだったけれど、しゃもじが声を拾っていたおかげできちんと少女の意思が伝わった。


 少女は繋いだ手を離すことなく立ちあがり、歩きはじめてしまったので、私もその手を振りほどくことなくついていく。

 過ぎたことをいまさら気にするつもりは全然ないのだけれど、犬であるしゃもじが拳銃を使って戦ったことに驚いた。てっきり、牙や爪を駆使して犬らしい戦術を用いるものだとばかり思っていたから。

「こうしたほうが、効率がいいからな」

 動物的な矜持は持ち合わせていないらしく、勝ちかたにこだわりはないようだ。

「こだわりのせいで、守るものを守れなければ本末転倒だものね」

 しゃもじの言葉に何度もうなづいている少女も、しゃもじのやりかたに異議はないようだ。守られるだけの立場である私が言うのもなんだけれど、これはゲームでいうところのチートだ。だらだらとゲームをしているだけの私だが、ゲーマーとしてのプライドはあり、そういう手を使うことを良しとはできない。自分の力で勝つからこそ、ゲームは楽しい。

「不満がありそうだな、お嬢」

「あっても言えないよ。私には」

 ゲーム脳で幼稚な私に、チートをしなければ生きていけない現実の厳しさはわからない。


 鳥の声がよく聞こえる。

 変わり映えのしない景色にも飽きはじめていると、大きく拓けた土地に出た。その中心には大きな木造の家が建っており、煙突から煙が出ている。家のわきには暖炉などに利用されるだろう木が積まれており、電気などの科学から離れた生活をしていることが容易に想像できた。窓からは人の影がちらついており、どうやらそれが少女の言うお婆ちゃんらしい。

「おばあちゃーん。お客様だよ」

 少女が外から声をかけると、中にいた人が窓辺に駆け寄り、窓を開ける。

「おやおや、それは珍しいね。いらっしゃい」

「お祖母ちゃん?」

 エプロンを身につけた、白髪混じり老婆は私の祖母とそっくりの顔立ちだった。

「おや、こんな世界で孫に会うなんて、思いもしなかったよ」

 そっくりなのではなくて、本人だった。

「なんでこんなところに」

「お祖母ちゃんは魔法使いだからねえ」

 からからと笑うお祖母ちゃんは、実家でよく見ていたそれと同じしぐさで、信じざるをえなかった。ジャージ姿で会いに行くと、服代としてお小遣いをくれたお祖母ちゃんは、つい最近死んだはずだった。死んだ人に会えるなんて、ここは夢の世界なのだろうか。それともやはり、死んだ人は教会にお金を払えば生き返らせることができるのだろうか。真奈美に説明されて、人の死について理解できたと思っていたのに、こんな例外が現れてしまったら、私は何を信じたらいいのだろう。

「お祖母ちゃんは死にゃあしねえよ。さあ、家にお上がり」

 お祖母ちゃんは窓から離れ、玄関にまわって扉を開けてくれた。


「ここから脱出するためには、どうしたらいいの?」

 生贄にされたことを特に気にしている風でもないお祖母ちゃんは紅茶を注ぎ、クッキーを出してくれた。

「お祖母ちゃんが出口を作ってやろう」

 お祖母ちゃんはさらりと言ってのけ、私たちの目的は達成される。

「ただし、それを作るには必要なものがある」

「生贄か?」

 コップのミルクをあおり、口の端からぽたぽたと漏らしているしゃもじが口を挟む。きりっとした表情で間抜けたことをしてくれるから可愛らしい。垂れてくるミルクがタキシードにつかないよう、ぬぐってやる。

「いいや、ただの供物さ」

 その供物とは、猿の頭部、猿の心臓、一定量の猿の血液だという。最初の二つは埋葬した猿から拝借すればいいとしても、血液に関してはそうもいかない。新しい猿を探し出し、狩らねばならないだろう。それならば、埋葬した猿の墓荒らしをするよりも、新たに狩った猿から三つを回収したほうがよさそうだ。モンスターを狩るゲームはよくやったけれど、自分自身でそんなことをする日がくるなんて思いもしなかった。いや、実際の作業はすべてしゃもじがやることになるのだろうけれど。

「もう帰っちゃうんだ」

 今に至るまで、一度として離れることのなかった少女の手が、より強い力で私の手を握る。やはり、こんな森の中で生活しいていると、いっしょに遊ぶ友達がいないのだろうか。

「ううん。今、学校が夏休みだから」

 この世界にもあるんだ、学校。しかも、時間のずれが三か月という微妙さ。せめて、季節、昼夜が逆転するくらいのことはしてほしかった。

「狩り、手伝うね」

 少女はそう言って私の肩に頭をもたせかけ、少し浮かれているようだった。笑みというには、つりあがり過ぎた口角がどことなく気持ち悪い。

「これを持っていきなさい」

 お祖母ちゃんがクローゼットから出した布は、どこかで見たことのある、純白のローブだった。絹のように滑らかで、カーテンよりも軽い。羽織ると少女が全身にまとわりついてきたような温かさがある。そして、刃渡り五〇センチ程度の剣が手渡される。ずしりと重いそれは、私たちの勇者が軽々と扱っているものと同じだったけれど、実際に手にすることで、ゲームと現実の違いを知ることができた。これは、命の重みと等価なのだろうか。

「そんなはずはない」

 睨んでいるわけでもないのに、鋭く私を見据えるしゃもじの眼は、私の覚悟を測っているようだった。

「お嬢はそれを振るわなくていい。すべて俺がやろう」

 そういうわけにはいかないよ。私も頑張る。などという言葉は出てこず、しゃもじの提案に黙ってうなずくことしかできなかった。自分のしたくないことから逃げてばかりの私は、なんてずるいのだろう。


 少女とお祖母ちゃんに見送られ、私としゃもじは再び森の中を散策することになった。使わないのに持っていると危ない、という理由で、剣は少女に没収され、私の自衛手段はなくなった。

 しゃもじが吸う葉巻の煙から逃れようと、立ち位置を幾度となく変更するが、煙は私を追いかけるように流れる方向を変えてくる。

 黙って歩いていたせいでずいぶんと長くかかった気がするが、いつの間にか、お祖母ちゃんが言っていた猿多発地帯、しゃもじが猿を射殺した場所でもある、にたどり着く。

 ひときわ背の高い木の前に来たとき、しゃもじが舌打ちする。

「しまった。こちらが風上だったな」

 しゃもじが睨んでいるほうに視線を送ると、草の茂みから無数の光、獲物を狙う獣の眼があった。それのすべてが猿の眼だった。多発地帯とは聞いていたけれど、これほどとは。

「多すぎない?」

「もともと群れる猿だ。二〇もいないなら少ないほうだろう」

 お祖母ちゃんも少女も、猿を見かけたときはいつも単体行動をしているものだったと言っていた。だとすれば、この群れはしゃもじに撃ち殺された猿があげた断末魔の声を聞きつけて集まってきたのだろう。想定外の事態。これは、猿を狩るとか言ってる場合じゃない。

「逃げるぞ、お嬢。走れ!」

 しゃもじの声と同時に、もと来た道を駆けていく。けれど、しゃもじの散歩以外に運動することのない生活を送っている私が、野生の猿との追いかけっこに勝てるはずもない。流れる景色の速度は、歩いているときの二倍もない。私に合わせているせいで、しゃもじも本気で走ることができず、さぞもどかしい気持ちだろう。

 木の上を飛び移ってきた猿が一匹、私たちの前に立ちふさがる。しゃもじの先制攻撃によって眉間を打ち抜かれ、難なく通過できるが、供物として回収している暇はなかった。後ろにいる猿たちが喚き散らし、速度をあげる。言っている意味はわからないけれど、絶対にぶっ殺す、とか言ってるような気がする。

 私がいくら走ったところで猿たちはすでに追いついており、左右後ろの三方向を囲まれた。

「足を止めるなよ、お嬢」

 しゃもじはそう言うと、進行方向を変え、猿たちに向き合う。

「しゃもじ!」

「俺に構うな! 走れ!」

 しゃもじは猿を一匹ずつ確実に殺していくが、一対複数では分が悪い。猿たちはしゃもじを取り囲み、走っていく私には見向きもしない。いつでも追いつけるからと侮られているのか、仲間を殺したのはしゃもじだからと、私は見逃されているのか。戦う術を持たない私は、せめてしゃもじの思いを無駄にしないように、いつもは使わないような筋肉を総動員させて、お祖母ちゃんがいる家を目指した。助けを呼ぶことでしか、私がしゃもじを助ける方法はない。

猿の怒声に混じって、殴打したような鈍い音が聞こえる。猿は六発の銃弾を撃ち尽くしたしゃもじに、弾を装填する時間を与えないだろう。しゃもじは牙と爪だけで、複数の猿に敵うのだろうか。


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