土管の先に

音水薫

第1話

 しゃもじが消えた。

 正確には、いつもの散歩道にある空き地に置かれている土管に入ってから、戻ってこなくなったのだ。土管の中を覗き込んでみても、まだ短い雑草やブロック塀など、向こう側の風景が見えるだけで、そこにしゃもじはいない。土管から顔をあげ、空き地を見渡してみても誰もいない。

それもそのはずで、今の時刻は昼だ。主婦はワイドショーに夢中で、学生は学業に励んでいるはずなのだから。

 学校を休む、ということがもはやルーチンと化している私は、お昼どきの閑散とした住宅街をしゃもじとともに散歩する。それによって、お母さんは私の不良行為に目をつぶっている。いささか軽すぎる代償だと思うけれど、私はゴールデン・ウィークが明けたら本気出す、と言っているし、よくお小遣をくれたお祖母ちゃんが最近亡くなってしまったことにショックを受けていると思っているらしく、お母さんとしても強く言えないのだろう。

 けれど、今そんなことはどうでもよくて。お母さんが愛しているしゃもじが私の手にないということが問題なのだ。

「しゃもじやーい」

 呼びかけに応答するものはいない。このまま手ぶらで帰れば、お母さんに怒られるのは火を見るより明らかなわけで、どうにかして見つけなくてはならない。

 めるめるめると携帯をいじって、まだ学校にいるはずの真奈美に詳細を記して助けを求める。

 携帯を閉じ、もう一度土管の中を覗き込む。見える景色に異常はない。顔をあげ、土管の外から見えるブロック塀と見比べてみても、色合いに遜色はない。

 拾った小石を土管に投げ込んでみると、向こう側に突き抜けたはずの小石は地面に着地することなく、その姿を消した。静かな水面に一石を投じたように、何もない空間に波紋が生じ、小石を飲みこんだように見えた。

 携帯が震え、真奈美からの返信が届く。

『絶対に、土管に入ったりしないように。わたしが行くまで待ってて』

 真奈美を待っていると、そのぶんだけ帰るのが遅くなってしまう。

 私は土管の中ほどまで這っていき、片手を前に伸ばす。手が触れた空間に波紋が生じ、手首から先が見えなくなった。痛みはない。腕を引くと、手首は切断されることなく戻ってきた。中に入るだけで危険にさらされるわけではないことが確認できたので、ぺたぺたと前進して、大きな波紋を生む。


 プールに飛び込んだような冷たさのあと、眩しさがやってきた。地面についていた手で光を遮り、目を守る。

「遅かったな、お嬢」

 いつまでも防御態勢を解かずにいたかったけれど、私のことを知っているらしい、私の知らない声の主を探すため、目を細めながら少しずつ腕のガードを緩めていく。

「もっと早く決心するものだと思っていたんだがな」

 そこにいたのはしゃもじだった。見慣れた姿の、家族みんなに愛されているしゃもじ。土管をくぐる前との違いを挙げるとすれば、しゃもじが直立しているところだろう。

「しゃもじなの?」

「いかにも」

 目を閉じ、うむとうなずいた犬、齢一三歳のシベリアンハスキーは若干ダンディな装い、タキシードにシルクハット、をしてはいたけれど、おおむね飼い犬のしゃもじだった。立ち上がると私より大きい。

「ここどこ」

「俺にはわかりかねる」

 しゃもじは葉巻を取り出し、端をはさみで切って、マッチで火をつける。

「帰るよ」

 葉巻を取り上げようとする私を避け、葉巻で私の後ろを指す。

「どうやって?」

 振り返ってみると、くぐってきた土管がない。見えないだけかと思い、あたりに手を這わせてみるが、空を切るばかりだった。

「お嬢が通った瞬間、消えてしまったよ」

 やれやれと言わんばかりに肩をすくめるが、しゃもじがおとなしく帰ってくればこんなことにならばかったはずなのだ。文句の一つでも言おうとすると、しゃもじは私に背を向けて歩き出す。

「においを辿っていけば、この世界の住人に会えるかもしれない」


 空気中のにおいをかぎながら歩くしゃもじのあとを、黙ってついていく。しゃもじは以前つけていた首輪はそのままだが、リードがなくなっている。歩くたびに左右に揺れる尻尾を目で追いかけていると、しゃもじは急に立ち止まる。

「なにかいる」

 耳を澄ませると、歌声が聞こえてきた。とてもきれいな歌声。姿は見えないけれど、どこからとももなく聞こえてくる鳩の鳴き声のようにリズミカルでありながら、軟水系の歌声が森の奥から風に乗って私たちの元まで届いているらしく、集中していないと聞き逃しそうになる。

「いい声だが、うるさいな」

 冷蔵庫に近づきたがらないしゃもじにとって、このくらいの音でも騒音らしい。

「近づくの、やめる?」

「いや、問題ない」

 そう言ったしゃもじは三角の耳を両手でぱたと閉じ、防音に努めているけれど、おそらくは気休めていどの効果しかないだろう。

 雨から身を守るサラリーマンのように、頭を手で覆っているしゃもじのあとについて、森の中に入る。木の数は多いけれど、基本的に背が低いものばかりであり、森の中にも日の光がよく届いている。深く息を吸い込み、森林浴を楽しむ。こうしていると、普通に散歩に来たみたいだ。


森の中ほどまでくると、歌声がそれなりに大きくなってきた。尻尾を触ろうとする私と、触らせまいとするしゃもじの攻防戦のさなか、しゃもじがまたも急に立ち止まる。

「何か来る」

 ひときわ高い木を見上げるしゃもじに私も倣うと、大きな影が視界を埋め尽くす。

 しゃもじは動けずにいた私をお姫様抱っこし、後ろに飛び退く。さっきまで私がいた位置に黒い影が落下し、砂煙をたて、その中でゆっくりと立ち上がる。

「意外! それは猿!」

 私が声を出したときにはすでに、しゃもじは懐からリボルバーを取り出しており、撃鉄を起こして構え、止める間もなく発砲していた。

 なんという残酷な光景。砂煙が引いて、顔が現れたときにはもう眉間を打ち抜かれていた猿は崩れ落ちる。

「うきゃああああ!」

 猿は断末魔の叫び声をあげ、死んだ。あまりにも大きいその声のせいで、耳鳴りがやまない。声を痛いと感じたのは初めてだった。ささやかな歌声すらうるさいと感じるしゃもじなら尚更だろうと、心配して彼に視線を送ると、なんてことはなさそうに銃をいじっていた。

「他愛のない」

 無駄弾を撃たずに済んだしゃもじは排莢を取り出し、新たな弾丸を込めなおす。

「何の音」

 いままで聞こえていた歌声がやみ、太い木の枝の上に白いワンピースを着た少女が姿を現す。

「猿が」

 私たちを見下ろしていた少女は先ほど撃たれた猿を見つけ、目を見開いた。少女のペットだったのだろうか。

 少女は木から降り、猿の傷口を指でいじくり回し、指に付着した血をペろと舐めた。

「よかった、死んでる」

 そう言った少女は立ち上がり、私たちを見て微笑んだ。

「ありがとう。この猿にはほとほと困らされていたものだから」


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