第三章
穏やかな陽気に包まれた空気を吸い込み、勇一は道場へと続く道をゆっくりとした歩調で歩いていた。
何とはなしに身体が重苦しいのは、忘れてしまった今日の『夢』のせいだ。
思い出したいという気持ちの反面、思い出せば全てが壊れてしまうとどこかで警鐘が鳴る。
葛藤する気持ちを抱えてしまったからだろうか。いつの間にか勇一の顔は渋面を作ってしまい、側に友人がいれば間違いなく茶々を入れられそうなほどひどい顔付きになっていた。
「ったく、何なんだよ」
「高橋先輩!」
そう呟いた直後、背後から元気の溢れる声が聞こえた。
ちらりとそちらを向けば、同じく朝練に出るであろう須田忍が近づいてくるのを見、勇一は小さく溜息をついて立ち止まった。
温厚そうな容貌と人当たりの良い雰囲気を持つこの少年は、勇一の練習相手を良く勤めているだけでは無く、次期副部長候補として男子剣道部の皆からは期待をかけられて人物だ。そんな須田だが、何故か他人には余り見せない人懐っこさを時折勇一だけには見せてくる。そんな態度に気付いているために、勇一は無論その理由を聞こうと何度か思った事はあるが、あえてそれを口にした事はなかった。
何時もならば思った事を即座に口にする勇一ではあるが、どうにも須田に対してはそれを口にする気が起きずにいる。らしくない事なのは分かっているが、どこか天然が入っている須田にそれを聞いた所で、明確な理由が得られないだろうと勇一は考え、その問いを保留にしている。加えて言うならば、いつか須田にそれを聞ける日も来るだろうと、勇一自身が楽観的な思考に行き着いているため、その問いかけは長い事ほうっておかれているのだ。
小鳥の声と麗らかな春の日差しの中を歩きながら、須田は前を一歩分速く歩く勇一に声をかけてきた。
「どうしたんですか?何時もは面倒くさがりで、ずぼらな性格の先輩が朝練出るなんて、何かあったんですか?」
余りの言いぐさに立ち止まった勇一は、幾分か険の入った視線を後輩に送りつける。
その目線に、慌ててフォローにも何もなっていない発言を須田は口にした。
「いや、だって、高橋先輩朝練嫌いじゃないですか」
返す言葉が見つからずに勇一が沈黙を貫くと、はぁ、と大きな溜息をつき、須田はそれ以上は何も言わずに剣道場へと歩き続ける。
「あ、そうだ」
あともう少しで道場に着くという場所で、何かに気が付いたように須田が勇一に声をかけた。思わずそちらを振り向けば、須田がにこやかに笑って勇一を見る。その視線に嫌な予感を覚えながらも、勇一はその先を促すような目線を送りつけた。
「今度の他校練習試合、先輩大将で出場するんですよね」
「は?」
寝耳に水な話しに、勇一の口から間の抜けた声が漏れ出る。
その様子に驚いた風もなく、須田はそんなわけでとばかりに話を続けた。
「僕、今度の練習試合は副将を任されているんです。
それでと言ってはなんですけど」
「手合わせしろ、っていうんだろ」
「はい!」
やけに力強く相づちを打ちながらも、須田は期待の眼差しで勇一を見上げる。
それを受け止め、勇一は小さくも長々とした吐息を吐き出しながら、先程の須田の言葉確認するかのように口を開いた。
「にしても、だ。次の大会で、俺が大将だなんて聞いてないぜ」
「言えば先輩断るじゃないですか」
「……まぁ、な」
面倒な事になったと溜息をつく勇一になどかまう事無く、須田は幾分か歩調を速めて勇一の前に出る。
このまま話しを続ければ、勇一の不機嫌さが高くなっていく事を知っているからこその態度といえるだろう。その姿に、勇一は再度溜息をついてその背を眺めた。
だが、須田の歩みが突如止まる。不審げに勇一はその背中に近づくと、須田の見ている視線の先に自分の目線を合わせた。
見覚えのない背中が、道場の入り口にあった。
その横に立ち、何事かを話し込んでいた三年で主将を勤める斉藤太が、二人の姿を見つけると相好を崩して、背を向ける人物の肩を叩いて勇一達を親指で指し示した。
ゆっくりと振り向いたその顔に、勇一は思わず息を止める。
間違いはない。彼は先日自分を見ていた青年だ。何故ここに、と言う疑問と、あぁ、そうか、という訳の分からない納得とが、勇一の心の中でせめぎ合う。
言葉に出来ないそれを息を吐き出す事で止め、勇一は幾分か苦々しい顔つきで彼らに近づいた。
「おはようございます、部長」
「おう、おはようさん。
しっかし珍しいな、高橋が朝練に来るなんざ、午後から雨か?」
「今日の天気は一日中晴れですよ。
っつか、俺で遊ばないでください、斉藤先輩」
勇一の尖った声をカラカラと笑って斉藤はやり過ごすと、思い出したように隣の青年の紹介を始めた。
「そうそう、こいつ転校生でな、秋山修ってんだ。俺と一緒のクラスでよ、剣道やってたっつぅんで誘ってみたんだ」
「人に誇れるほどの腕前ではないんだが」
「まぁいいじゃねぇか、秋山。
部活やってりゃ、その分だけ内申も良くなるかもしれねぇしな」
バシバシと遠慮無く秋山と呼んだ青年の背中を叩きながら、斉藤は彼と共に道場内へと足を踏み入れる。
思わず顔を見合わせた勇一と須田だが、同時に溜息をついて苦笑いを浮かべて二人を追いかけるように道場へと歩き出した。
斉藤のおおらか、というよりも大雑把な性格は、今に始まった事ではない。入部時に二人共に目をかけられ、恩義はそれなりに斉藤から受けてはいる。だが、その性格のおかげで、現副部長と共に斉藤の尻ぬぐいに奔走すること何十回。今更斉藤の態度にどうこう言うつもりもないし、それを言ったところで斉藤の性格が変わるわけもないだろう、というのが勇一達の正直な気持ちであり、実際そうなのだから仕方の無い話しだろう。
道場に入れば、すでに朝練を始めていた部員達に斉藤が秋山を紹介している。
それを横目で見ながら、勇一と須田は更衣室に入り手早く道着に着替えてしまう。早め早めに行動しなければ、朝練に顔を出した意味が無いのは良く分かっている。だが、勇一としては、余り道場に顔を出したくない、というのが本音でもあるのだ。
「先輩?」
「あ、わりぃ」
道場に出ようとしていた須田が、動きの止まった勇一に不思議そうに声をかける。
あの秋山と紹介された生徒。正直言って、勇一としては二度と顔を見たくなかった、と言う気持ちとともに、胸の奥で黒い靄のようなものが浮かんでいる。
何故だろうと考えても、答えはまるで靄の向こう側にあるようで、勇一の心は苛立ちに沸き立つ。
渋々といった体で道場に足を踏み入れれば、斉藤は至極当然とばかりに勇一に声をかけてきた。
「おい高橋、秋山の相手しろ」
「はっ?」
「いや。たまに朝練にでた後輩へと、褒美を取らせようと思ってな」
「ちょ!」
「まぁ遠慮すんな」
遠慮しますよ、と心の中で毒づきながらも、いつの間にか胴着に着替えているだけはなく、すでに防具まで着込んだ秋山が寄越した一瞬の視線に、勇一は舌を打ち付けそうになった。
秋山の表情は刹那ではあったが不敵な笑みをみせ、完全に勇一を挑発しているのがまざまざと感じられたのだ。他の者達は気が付かなかったようだが、完全にケンカを売られたような感覚にとらわれてしまい、酷く不機嫌そうな顔付きになる。そんな勇一を急かすように、斉藤がさっさとしろとばかりに視線を投げつけてきた。
否やを言うことも出来ず、渋々ながら防具を身につけて勇一は道場の中心に足を運ぶ。
試合形式のため、道場内で練習していた者達は一時的に練習を止めて、壁際へと慌てて移動する。そんな部員達に気を取られるわけでもなく、中央で対峙している秋山と勇一の様子を、誰もが隠すことのない好奇心に溢れた視線を越してきた。
やりにくい。
そう思いながらも相対した勇一だが、秋山が送る視線に一瞬だが息をのんだ。
闘気、とは全く違う。相手を射殺さんばかりの鋭い眼光は、今の勇一にしてみれば馴染みのないものだ。
これは練習試合のはず。
そう思いながらも、勇一は相手から放たれる雰囲気がなんと呼ばれるか知っていた。
これは、殺気だ。
始めて浴びるはずのそれは、こんな練習試合だというのに、まるで自分の周りが戦場に居るのではないかと思わせる。それと同時に、本能が警鐘を鳴り響かせていた。
殺さなければ、こちらが殺される。
何故そんなことを思ったのか、勇一とて分からない。だが、それでもそのことだけははっきりと秋山の眼を見た途端理会出来てしまった。
「始め!」
審判の声と同時に、勇一は相手の懐に飛び込むように竹刀を突き入れる。
交わされること前提の攻撃は、すぐに相手の胴をめがけて横凪にするために取った行動だ。
だが、そんな攻撃などはじめから分かっていると言わんばかりに、秋山は勇一の竹刀をすり抜け、そのまま竹刀を上段に構える。
まずい、と、勇一が一瞬にして秋山から離れた。
しん、と、いつの間にか道場内が静かになっている。だが今の二人にその状況は全く見えていない。互いが互いをどう殺そうか、それだけが頭を占めているためだ。
レベルの高いその試合に、誰もが息を飲み込み、目線が釘付けになってしまっていた。
じりじりと二人の距離が縮まる。物音一つ立てただけで壊れそうな緊張感を最初に破ったのは秋山だ。
ダン、と大きな音を立てて床を蹴って勇一へと一直線に詰め寄ると、そのまま竹刀の切っ先を勇一の喉元へと伸ばす。高校生での突きは禁止されているというのに、それを無視した秋山の姿を誰かが咎めようとするのだが、それを綺麗に弾いた勇一が逆に秋山の面を狙う。しかし、それも難なくよけた秋山の竹刀が、勇一の竹刀とぶつかり合う。
「腕が落ちたな」
至近距離だったからこそ聞こえた秋山の言葉。
え?、と思う間もなく、秋山が力任せに勇一の身体を竹刀ごと突き飛ばす。
蹈鞴を踏んだ勇一の胴に、鈍い感触が伝わったのは次の瞬間だ。
「一本!」
斉藤の声とともに緊張感が薄れたのか、部員同士が詰めていた息を吐き出した。
些か呆然とその場に立ち尽くす勇一に、須田が心配そうに声をかけてきた。
「先輩、大丈夫ですか」
「あ、あぁ」
慌てて現実に立ち戻り、勇一は竹刀を握る手を見下ろす。
腕が落ちたな。
確かに、秋山そう言った。
だが、彼とは今日が初対面であり、試合などでも出会ったことは一度もない。だというのに、秋山の太刀筋はどこかで見た記憶があり、心の奥底で秋山の言った言葉なども頭の中を駆け巡る。
―そんなに自分の腕は落ちたのだろうか。
ふと浮かんだ疑問に、勇一は顔を顰めてしまう。
それなりの腕を自負していたが、上にはまだ上がいるだけだ。そう思い直し、勇一は壁に向かって歩き出す。
とりあえず面を外して息を整えると、何人かの部員とともに話している秋山の姿が眼に入る。談笑しているが、取り繕った笑みのように感じられたのは、勇一だけなのだろう。
ちらり、と秋山が自分に視線をよこす。
その視線に込められた複雑な色合いは、何を意味していたのだろう。
苛立ち混じりに睨み返せば、余裕の笑みを口の端に浮かべた秋山てその視線を受け流した。
乱暴に汗をぬぐい、勇一は防具を取り去ると更衣室向かって歩き出す。
「高橋先輩?」
「わりぃ、今日はもう上がるわ」
「え?でも、今さっき来たばっかりですよ」
取りなすような須田の言葉でさえ、今の勇一には苛立ちを募る原因となる。八つ当たりだと思いながらも、勇一は須田に険のある視線を向けた。
驚いたような須田にかまわず、勇一は更衣室に向かって歩き出す。
その背中を、秋山が凝視していたことに気が付かず、勇一は更衣室へと消えていった。
「どうかしたの?」
開口一番に、幼なじみがかけてきた言葉はこれだった。
不機嫌な表情でそちらを見れば、不思議そうな顔をする那美が側に立っている。
「んでもねぇよ」
「嘘ばっかり」
呆れたようにそう言うと、那美はまっすぐに勇一を見つめていたが、やがてこれ以上は何を言っても無駄だと分かったらしく、自分の席へと戻ったいった。
近くにいた友人達とたわいのない話しをする那美を見ながら、勇一は苦々しい思いをなんとか外に出すべく溜息を吐き出す。
今日は朝からついていない。形にすらならなかった夢の残滓が、どうにも全ての行動に引っかからせているように感じる。
気のせいだと思いたいのだが、それでも冷静な部分では確かにそうだ、とどこかで頷くような声が聞こえていた。
あの夢は、いったい何だったのだろう。
目覚めた瞬間に忘れてしまったが、それでもあの夢は自分の中では大切な何かだと心の内側が囁いてる。
「くそっ」
小さくついた悪態に、慌てて勇一は周囲を見やる。聞きとがめた者がいなかったことに安堵しつつ、勇一は自分を落ち着かせるように深く息を吸い込んだ。
今は考えても仕方ない。そう結論づけようとするが、ふと秋山が送った視線を思い出してしまう。
まるで、思い出せ、といわんばかりの視線を送りつけた秋山の姿。
初対面のはずなのに、何故か懐かしいと感じた秋山は、いったい何を言いたかったのだろう。
堂々巡りの思考は、しかし教師が教室に入っていたことによって打ち止めとなった。
何かが、変わろうとしている。
だが、それがいったいどういうことになるのか分からず、勇一は苦々しい気持ちを持て余しつつ日直の声に従い席を立ち上がった。
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