第二章
ふんわりとした柔らかな光が、闇を押しのけるように輝いている。
光の下には綺麗に穿つような巨大な窪みがあり、そこから数十センチほど上空に浮かんだ位置で、光源の元である巨大な水晶が宙に見えない何かで固定されている。その水晶球といえば、内部で様々な景色を一定の間隔を置きながら浮かびだしている。もしも何か命を下せば、すぐに水晶球は言われた映像を固定させるが、それが無い時はその内側に様々な世界の現在を映し出すようになっている。使い勝手が良いと言うべきなのだろうが、それでも目的のものがはっきりしていなければ、水晶球は何時までもランダムに映像を流し続けるだけだ。
その水晶球は、今の所一つの世界の様々場所を移しだしてる。
静謐を常とする部屋の中で、それを破るような声が上がった。
「彼奴が動いただと!」
叫ぶような声が、静かだった室内に響き渡る。
水晶球を囲むようにしているのは四つの影。
その内の一人が上げた声に、他の影の一つが小さく頷いた。
「しかし彼奴が人界に居るとなると、必然あの者達も存在するという事か……」
「何を悠長なことを!
彼の地において長たるあの者達が目覚めれば、すべてが復活するのだぞ!」
水晶球に一歩近づき、今にも爆発しそうな雰囲気を放つのは、赤銅色の髪と瞳を持つ偉丈夫な男性だ。
その様子に、小さなため息が部屋に落ちた。
少しばかり水晶球の光を強めれば、四人の姿形が部屋の中にしっかりと映し出される。
怒りに肩を震わせる男の姿は、けれどもその場にいる者達の心情を表していると言えるだろう。
「落ち着け、
たしなめるように声を上げたのは、純白の髪と鋭い瞳を持つ男性だ。
水晶球に近寄り、すっと目を細めた後に苦々しげに言葉を続ける。
「奴らはまだ覚醒してはおらぬ。消すのならば、たやすいことだとそう思わんか?」
「しかし
「二人とも、もう少し落ち着いて考えろ。
確かに、広目天のいうことも一理ある。だが、奴らは一部族の長であった者達だ。力を取り戻すような事があれば、こちらが不利となる。それに、我らが動けば確実に奴らの覚醒は早まる可能性があるぞ」
「ならば、策があるというのか、
「今それを考慮すべきだ、といいたいだけだ。私はな」
苦笑じみた表情でそう言い、群青色の髪と瑠璃色の瞳を持つ男性は詰めていた息を吐き出した。
何時かは、この時が訪れるであろうとは予測していた。
けれど、それはまだ先の事だと思っていた。いや、思おうとしていたのだ。
誰もが苦々しい空気を放つなか、それまで黙っていた青年が静かに口を開く。
「そう急ぐ事でもあるまい。策ならば」
ふとそこで言葉を切り、青年は皮肉げな声を闇の奥へと放った。
「そこで何をしている?」
「そう邪険になされずともよろしいのでは無いですか。
私は、単にここを通りかかっただけですのよ」
笑みを含んだ女の声に、増長天の顔が険しさを増した。
コツン、コツン、と小さな靴音とともに現れたのは、深紅の珊瑚を砕いて染め上げたかのような朱い髪と瞳を持つ女だ。清楚な衣裳を身に纏い、優美な仕草で笑みを浮かべるその姿を視界の端にだけ入れ、再び静かに青年は口を開く。
「通りかかった、と言ったが、我らを探していた、の間違いでは無いのか」
「それもありますわね。さすがは、
両者ともに揶揄するでも無い口調でそう会話をしつつも、奇妙な緊迫感が二人の間に張られる。お互いの出方を見るような空気ではあったが、ふっと女がそれを解きほぐすかのように自嘲的な笑みを浮かべた。
それを見てだろう。毘沙門天は興味を失ったかのように、視線を水晶球へ移した。
女の存在を無視した毘沙門天の代わりに、尖った声が増長天の口をつく。
「我らを何故探していた、
「用向きは、分かっていらっしゃるかと思われますが」
「なに!」
気色ばむ増長天を片手で制し、持国天が女、愛染明王へと彼女の言葉の先を促すような視線を送る。
それに僅かに肩を潜め、愛染明王はあっさりとした口調でそれを切り出した。
「あの者達が転生したのでございましょう?
ならば早急にあの御方の元へご報告差し上げては、そう思いまして」
「……忠告痛み入るが、それはおぬしが口に出す事では無かろう」
「それは申し訳ありません。
この世界の四方を守る四天王の方々には、いらぬ世話だったようで」
苦笑を込めた愛染明王の反応に不快感を隠す事が出来ず、持国天は小さな舌打ちを漏らす。
だがそれに気を悪くした様子も無く、愛染明王は先程まで四人の視線を集めていた水晶球に目線を向けた。
球面の中に映されている画像は、今は無作為な映像を一定の間隔を持って流している。そこに映し出されているのは、彼らが『人界』と呼んだ場所であり、この世界からみると下位の存在達が生活する『世界』だ。
何の感情も無くそれを見つめていた愛染明王だが、ふと近づく気配にそっとその場から数歩ほど離れる。無論それに気付いたのは四人も同じだ。毘沙門天以外の三人は、僅かな緊張をはらんで先程まで愛染明王が立っていた場所に身体を向け、その人物が現れるのを待つ。
やがて、暗闇から一人の男性が現れた。
外見は四十代半ばであろうか。黄金の瞳と漆黒の髪、そして鍛え上げられた見事な肉体は、纏っている衣服の上からでも十分に伺え、他を圧倒するかのような雰囲気は誰もが『王』と認めるに相応しいものがある。
それはそうだろう、彼こそが、この『天界』と呼ばれる世界の覇者なのだから。
毘沙門天達は直ぐさまその場で膝をつき頭を垂れると、彼らの主たる男の言葉を黙って待ち続ける。
「……やはり、人界へと転生したか」
四人の沈黙は、肯定しているも同然だ。それに気を悪くするでも無く、男は水晶球へと視線を移した。
「よもやあの男にそれだけの力が残っていたとはな」
何かを思い出すかのようにどこか遠い目でそう呟く男の姿に、目の前で膝をつく四天王と男の背後で静かに佇む愛染明王は軽く口を引き結ぶ。
そんな彼らに、男は苦笑を込めて話しかけた。
「四天王ともおろうものが、私に隠し事か」
「そのような事はございません。
ただ、事が事故に、慎重に奴の行動を確かめた上でご報告を、と」
「して、彼奴に、間違いないのだな」
「御意。他の者の気配はありませんが、奴が人界にいる事だけは確かでございます。
ご報告、遅くなり申し訳ございません、
「なるほど……再び牙をむくか、彼奴らは」
呆れよりも、どこか楽しげにそう言い、男は水晶球に視線を向ける。
だがすぐにそれから目をそらせ、男は跪く毘沙門天達に視線を戻すと、先を促すような目線で四人を見回した。
それを受けてだろうか。重い口調で持国天が口を開く。
「御意。あの『大戦』時同様に此度もまた、間違いなくこの天界に戦を仕掛けましょう。
そうなればこの天界、いえ、三千大世界の秩序は狂うは必定。その前に芽を摘むべきではございましたが」
そう話しながら持国天の顔に、無念さと苦渋の色が表れる。
数百年前に起きた戦い。この天界に間近な世界で行われたそれは、数多の犠牲を出しながらも敵大将の首を落とす事は出来た。だが、彼に付き従っていた八人の将達の首を落とす事は出来なかった。その世界を治める八人の将達は、どれだけ死体の山を探してもその身体は見つけ出す事は出来ず、その足跡すらも綺麗に消して彼らのいた世界から姿を消した。
それ故に、四天王の誰もが彼らを死んだとは考えてはいなかった。むしろ、必ずこの天界に反旗を翻し、再び戦いが起きるだろうと予測はしていたのだ。決して手を抜いていたわけでは無い。人界へと姿を現すだろうと気を張り詰めて監視をしてきたのだが、結果は出し抜かれたような形で後手に回ってしまった。
ここ数百年この天界で戦が起こった事は無い。善なる神、覚者と呼ばれる神々と天人と呼ばれる者達が暮らすこの世界は、常に果てまで萌ゆる緑に囲まれ、澄んだ大気と水に囲まれた平穏な世界だ。
その為だろうか。今度はこの世界で戦が起こるのだろうか、という不安から目をそらしつつも、彼らはずっと人界の様子を伺ってきた。
今日、この事態が起こらない事を願って。
「毘沙門天」
「は」
「この件どうするつもりであった?」
「恐れながら、今はまだ彼奴らも覚醒はしておりませぬ。ならば我らの手で速やかに方はつくかと」
「言いおる」
くっと喉の奥で笑い、帝釈天はゆっくりとした視線で四天王の姿を見回した。
毘沙門天以外の三人は、叱責を覚悟はしていたのだろう。だが、それをするわけでもなく、帝釈天は極々自然な口調で問いかけた。
「して、どうするつもりだ?」
「あ奴を使おうかと」
「ほぅ」
面白そうに眼をすがめ、帝釈天は毘沙門天の顔を見つめる。
たったそれだけの事でも、思わず顔を伏せてしまいそうになるが、それに臆する事はなく、すでに次善の策を張り巡らせている強い光が毘沙門天の瞳に灯されていた。
「目覚めておらぬ以上、刺客とては最も適した存在だと思われますゆえ」
「お、お待ちください!」
切迫した声に、帝釈天と毘沙門天の視線がそちらに向けられる。
事前に何も聞いていなかった増長天にとって、そう簡単に毘沙門天の策に頷く事は出来ない。無論、他の二人人も同様だ。何か言いかけるが、毘沙門天の雰囲気に押さえ付けられるようにして口を噤む。
だが、その雰囲気を壊すかのように、増長天は強い語気で毘沙門天の案を止めようと声を張り上げた。
「あやつは危険すぎます!彼奴らでさえその凶悪さを憂い、北の荒れ地に封じ込めるための牢を作り上げたのですぞ!
そのような神を解き放てば、真っ先に帝釈天様のお命を狙いましょう!なにとぞご再考のほどを!」
「だが、これ以上の適任がおるのか?」
「それは……」
反駁する事も出来ず、増長天は唇を引き結び頭をたれた。
毘沙門天の策以上に上手い手札が見つからず、どれほど否定の言葉を並べたとしてもそれがなければ止める事は不可能に近い。
黙り込んでしまった増長天達から目をそらし、毘沙門天は淡々と自分の策を口にする。
「あ奴ならば、あの界にいた者達の気を探るのにそれほどの労力も使いませんでしょう。
なにより、あ奴はあの者達を憎んでおります。それを使わぬ手はないかと」
「確かにな。だが、先に我らに牙をむく可能性もあるが」
「それはあり得ませぬ。
あ奴にとって、最も殺したい者はあの者達以外にあり得ませぬゆえ」
「よしんばあ奴が首尾良く事を運んだとして、その後は」
「用済みの者に、生かしておくだけの理由はありませぬが」
「……面白い」
さらりと毘沙門天の口から出てきた言葉に、帝釈天はくつくつと喉を鳴らす。
その様を見つめていた毘沙門天達に、帝釈天は笑みの形を口元に刻んだまま言葉を紡いだ。
「良かろう。お主らにこの件任せよう」
「有り難き幸せ」
深々と頭を下げた毘沙門天達を満足そうに眺めた後、帝釈天は彼らに背を向ける。その際に、じっと黙って事の成り行きを見守っていた愛染明王へと視線を向けた。
緩く頭を下げた後、帝釈天の後を追うように愛染明王もその場から立ち去る。
二人の気配が遠が遠のいていく様を見送り、毘沙門天以外の三人は詰めていた息をゆっくりと吐き出し、そしてきつく毘沙門天をにらみ据えた。
だが、それらの視線を完璧に無視し、毘沙門天は立ち上がる。
冷たい、冷酷すぎる視線は、他の三人に否を唱えさせる事を許してはいないものだ。
「では、準備にかかるとしようか」
至極当然のように、毘沙門天はそう言い放つ。
それを苦い表情で聞く三人から毘沙門天は視線を水晶球に向ける。
雑然とした風景を映し出すそれは、目的の人物達を映し出す事はない。それ故に、策は限られたものしか取ることができないのは、毘沙門天以外の四天王とて分かってはいるはずだ。
「しかし……何とも厄介なことだな」
呟きは、増長天達には届くことなく消えていく。
そんな己の言葉に、毘沙門天は僅かに口元を引き上げると、水晶球に背を向けて歩き出す。
すでに賽は投げられた。あとは、その結果を待つしかない。
たとえどのような結末を迎えようとも……。
「まこと、なのですか」
低い、押し殺した口調に、目の前の男は重々しい動作で首を縦に動かした。
四十代前半、といった所か。額に第三の眼を持ちながらも、威厳よりも穏やかな容姿を持った男だ。だが今はその面に暗く深い苦しみが浮かび上がり、がっしりとした体躯は心なしか痩せたようにも見える。
夢でしか会えない懐かしい人物を、今日こそは覚えるべく勇一はその顔を見つめた。
極力灯火を押さえた室内には、目の前に立つ男と勇一を入れて九人。皆が皆、酷く衝撃を受けたかのように沈黙を側に置き、己の思考へと埋没している。
「ここ数千年、天界はこの界に対して何の干渉もせぬ、という約定を交わしていたのでは?」
何故盟約を破ったのかという非難ではなく、むしろこうなることを予期していた為の諦めが籠もった疑問は当然のことだろう。
誰もが口にはしない言葉をあえて唇にのせたのは、漆黒の鎧とそれよりもなお濃い黒髪を持つ女性だ。血のように紅い瞳と優しげな空気に身を包んだ女性は、その瞳に悲しみを浮かべていたが、それを何とか押さえ込み周囲の者達に視線を向ける。
「確かに、な。だが、天界にとってはそれは架空の取り決めにすぎぬ。戦を起こす側にとって、不利となるべきものなど捨てて当然であろう。
しかし……これほど早くに動き出すとは」
「やはり王は」
その声の主に、勇一の意識が記憶の中で集中を始めた。
よく知っている。けれど、名を呼ぼうにもその名前が分からず、勇一の中で苛立ちが募っていく。
あの時、道場の玄関口で自分を見ていた青年。その青年が、自分のすぐ側にいる。
白金の髪に合わせるかのよう同色の鎧を身につけた青年は、切れ長の黄金色の瞳に複雑な色をのせ、王と呼んだ男に視線と身体を向けた。
「予感はあった、といった方が良いだろうな。
私は彼らの意に反したのだからな」
「では、やはり人界の件なのですね」
紫紺の鎧に身を包んだ、暗紫色の髪と深く澄んだ紫色の瞳を持つ柔らかな雰囲気を醸す少女は、押し殺したような声音で確信へと迫る言葉を口にした。
それに対し、誰もが声を忘れたかのように口を閉じてしまう。数分にも満たぬ僅かな時間ではあったが、誰もがその重い沈黙に身体を絡め取られたように何も言うことが出来ない。
だが、それを破ったのは、苦渋にまみれた王の声であった。
「彼ら、いや、天界の意思は、人界を滅ぼす。その一点のみに絞られておる。
だが私は、それを是とすること等、到底出来ることではない」
その答えを出すのに、どれほどの間王は悩んだのであろう。
たった一人で背負えるものならば、その全てを背負いたかったであろう。だが、これは王一人で答えを出すものでは無い。この世界に住まう者達や、この世界の未来を決定すべき重大な問題なのだ。
「ずいぶんと、彼らも勝手なものですわね。
今まで人間を見守っておきながら、こうも簡単に意を変え、一つの世界を滅ぼそうなどとは。
さすがは『覚者』といった所でしょうか」
長い、床を這うのではないかと思える黒絹の髪と、蒼い水底のような瞳を持つ、まだまだ幼さを残す顔立ちの少女がそう口火を切る。
丁寧な口調ではあるが、その中身は皮肉と揶揄を盛大に塗り込めたものだ。見た目と口にした内容とは激しい差があるが、その点については誰も驚いたりはしない。
その言葉にようやくといったように、他の者達の身体からも力が僅かに抜け落ち、少女へと窘めるような声がかけられた。
「もう少し言葉を選んだ方が良いのではないか?どこに奴らの目や耳がいるともかぎらないのだし」
「あら、聞かれているのならばそれでも良いではありませんか。私、本当のことしか口にしておりませんもの」
にっこりと極上の笑みを浮かべられ、誰ともなく溜息が漏れ出る。
勇一と同年代だろうか。栗色の髪と鳶色の瞳を持つ、温和そうな少年は疲れたように頭を横に振った後、少女に向けて再度声をかける。
「とにかく、この問題は今はまだ我らだけの話し合いなんだ。余り大きな声を出さないでくれ」
「まぁ失礼な」
「とはいえ、今更そんな事、人界を滅ぼす等と態々天界側がこちら側への宣戦布告に等しい事を口にしてきたのだからな。此度の件に関しては、大声で話す事になるのも仕方のないことだろうが。
それにしても、『覚り開きし者』達にしては、ずいぶん性急ですな。大方、我らとの交戦の切っ掛けでも作りたかったのでは?」
楽観的な、とは、誰もが言い切れず、溜息でそれを示してしまう。それを聞きつけ、発言者である青年は不敵な笑みを浮かべる。大地のように濃い茶色の髪と瞳を持つ青年だ。常に浮かべている笑みとは違い、今はその顔面に皮肉と侮蔑とを浮かべるだけではなく、その瞳に鋭い光を宿している。
それを受けてか、隣に立つ白銀の髪と銀色の瞳を持つ凜とした雰囲気を持つ女性が、慎重に己の考えを述べ始めた。
「たとえそうであったとしても、奴らならば何も言わずにこの界に攻め入ってくるのではないか?
近頃の奴らのやり口は、善なる神とは思えぬほど姑息だと思うが」
「そりゃそうだろうな」
女性の意見を青年は軽く受け流すが、逆に女性は己の考えに不機嫌そうに形のより柳眉を潜める。
誰もが唇を引き締めてしまった中、ゆっくりと口を開いたのは玉座に座る男性だ。
「―ここに集まってもらったのは他でもない。主らの意思を聞くためだ。
帝釈天に従い、人界を破滅へと追いやるか。もしくは、私に従い、人界を守るべく戦うか」
苦渋に溢れた声だが、誰もがその言葉を待っていたかのように笑みを零した。
とるべき道は、ここにいる皆同じだ。自分達が生まれ育った世界の本質を考えれば。
「私、あのような取り澄ました輩は嫌いですわ」
「確かに、そう言えるね。
少なくとも、彼等よりも人間の方が、僕達にとっては簡単に感情移入出来る事だし」
紺青色の瞳を持つ少女と、鳶色の瞳の少年はねぇ、とばかりに互いの顔を見合わせて頷く。
その答えに、玉座の男は一瞬虚を突かれたように目を見開いた。
まだ年若い二人の言葉に、黄金の瞳を持つ青年と血のような紅の瞳を持つ女性が苦笑めいた笑みを浮かべ、自分達の持つ意思をはっきりと口にした。
「その二人の言うとおり、ですな。我らは王の配下。そして我々は自らの意思であなた様に付き従っているのですから」
「この世界をみすみす荒らされるようなこと、私達が望むと思われましたか?」
「……いや」
譲るつもりなど全くない二人の言葉は、ここにいる者達、いや、この世界に住む者達の総意とも言える答えだ。
乱雑に土色の髪をかき回す青年は、すぐ側にいる銀色の瞳を持つ女性に視線を送る。女性の瞳には押し殺した闘気が溢れており、先程の二人の言葉を当然のように受け止め、更に今だ返答を出さない他の四人の瞳を順繰りに見つめていた。
それを受け止めてだろう。紫の瞳を持つ少女は、はっきりと迷いのない口調で王と呼んだ男に向かって言葉を放った。
「私は、少なくとも人間に対し敵愾心を持ってはおりません。それに、人間達の方が愛おしい存在であり、滅亡させて良い者達だとは思えません。
単純な理由ではありますが、その気持ちこそ大切では無いでしょうか?」
それを聞き終えた後、黄金の瞳と紅色の瞳とが互いに見つめ合い、小さな笑みを浮かべて玉座の男へと言葉を並べた。
「我らの言葉は、この世界に住まう者達大半の意思とお考えください。我らは己の意思と誇り、そして信頼でもって王に従いましょう」
「ただ、この世界にも天界と意を同じくする者達もおりましょう。その者達には、なにとぞ寛大なお心をお与えください」
その言葉に、男は当たり前のように頷き、そして僅かな苦笑を浮かべる。
どちらにしろ、天界との戦ともなれば『滅亡』するという可能性が高いのだ。
一族の滅亡やその血を残すために、もしくは己の死を恐れてしまい、天界へと赴く者達がいたとしても、それは仕方のないことだ。それを笑うことなど出来はしない。自分達とて、そのことを考えないわけではないのだから。
死なない為の戦いは難しい。だからこそ、悔いのない生き方、というものが重要にもなるのだ。
「……お主は、どう思っておる?」
柔らかな表情と穏やかな目線に促され、勇一は一瞬虚を突かれたように言葉を失ってしまった。
試されているのではないと分かってはいるが、何とはなしにそうもとれるような仕草に思わず不敵な笑みが浮かぶ。
「これから先、我らのことを『邪神』と誹られることになってもかまいません。
天界の言う事などよりも、王の仰ることの方が我らにとっては真実にしか聞こえないのですから」
「……血に塗られた険しい道だぞ。分かっておるのだな」
「もとより、承知の上」
勇一の答えに、男以外の他の者達が力強く頷いた。
それを見、男の瞳が幸せそうに細められる。
「私は、良き配下に恵まれたのだな」
呟きは皆の中に響き、誰ともなく顔を見合わせて力強い笑みを浮かべた。
皆、思っているのだ。
男の配下で良かった、と。
そんな空気を読み取りつつも、男の顔つきが一変する。
それまで温かかったものを取り払い、今までにないほど厳しく、静かな気迫と威厳とがその身から溢れ出た。
「主らの意思、よく分かった。我らは天界へと反旗を翻し、人界を、人間の子を守る為に戦う。
お主らの命、しかと預かるぞ」
「御意」
深々と、最大級の礼を持って男の言葉を受け入れる。
強く、何物にも代えられぬほど強い誓い。
忘れない。忘れるわけがない。たとえ自分の身が変化しようとも……。
意識が急速に浮上する。
目を開ければ、見慣れた天井が視界に広がり、そこが自分の部屋なのだとワンテンポずれて認識できた。
「また、か……」
仕方なく起き上がり、ベッドの縁に腰掛けるやそんな言葉が漏れた。
まるで置いていかれた子供のように、不安と寂しさが凝りのように胸に残っている。
夢の内容は、目覚めた瞬間に全て忘れてしまっている。けれど、これだけは分かる。懐かしく、悲しく、そして全てを焼き尽くさんばかりの怒り。それらが心を駆け回り、細胞の一つ一つにまで染み渡る。
「くそっ」
ぐしゃりと前髪を握りつぶし、勇一はやり場のない気持ちを吐き出すかのように荒々しく呟いた。
こんなにも苦しい感情に対処する術が分からない。どうしようもないその気持ちは、何時も勇一を苦しめる。けれど、それは何もかもを忘れてしまっているからだ。
夢の内容を。
そして、自分が持っている何かを。
再び吐息をついた勇一は、壁に掛けられた時計を見上げる。
何時もの起床時間よりも早いが、それでも起きるにはちょうど良い時間だ。
そう思えば、行動は早い。
寝間着を脱ぎ捨て、壁に掛かっている制服に袖を通すと、机の隣に立てかけられた鞄に手を伸ばして部屋を出る。
すでに階下からは香しい匂いが漂っており、両親が目覚めていることを告げていた。
「おはよう、父さん、母さん」
「お。今日は早いな」
リビングに入りそう声をかければ、読んでいた新聞から目を上げて父の健太郎が笑いながらそう言葉をかける。
同じように、母のゆかりもキッチンから勇一を見、そして訝しげに声をかけた。
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
自分でも思ってもいなかった事を言われ、勇一は一度だけ行動を止めるとゆかりに視線を移した。
じっと自分を見つめるゆかりへと、勇一は心配をかけまいと明るく笑って見せた。
だが、そんな事ではゆかりは騙されない。少し怒ったような表情に、渋々ながら勇一は訳を話す。
「夢見が悪くてさ」
「夢?」
軽く頷いて自分の席に座った勇一の前に、ゆかりが当然のように湯飲みを置いた。温かな湯気を立てるそれを一口飲み干している勇一に、健太郎は新聞をたたんで眉根を寄せてみせた。
たかだか夢如きに両親に心配をかけるつもりなどないが、それでもそんなにも自分の顔色が悪かっただろうかと気にかかる。
「なら、余り深く考えるなよ。それは単なる夢なんだからな。そんなものに気を取られていたら、足下を掬われるぞ」
「わぁってるよ」
憮然と答えるが、当分の間はこの夢のことで振り回されるのは目に見えている。それは何時もの事でもあり、それこそ夢の内容を全く思い出せない、というだけで勇一の中で苛つきが増すのだ。こればかりは仕方のないことだと割り切るしかないのだが、それでもどうにかして、あの夢について何か分かればと思わざる得ない。
そんな勇一の心情を察してか、健太郎が苦笑を零して話題を変えてきた。
「今度三校同時の大会があったな。お前は出るのか?」
「あー、たぶん」
そういえば、そんな行事があったな、と、勇一は他人事のように考える。
この近隣で有名な学校。矢沢学園、籐華学園、聖山高校。その三校は、常に互いをライバル視しており、日頃から何らかの用件に付随するような形で様々な試合を行っている。今回もまた籐華学園側からの申し入れによって、三校合同でいくつかの武術系の部活が矢沢学園の道場で公式戦の形で試合を執り行うことになっていた。
「優勝は、当たり前よね、勇一」
「どうなるか分からないよ」
謙遜でもなく、実力が均衡している学校同士だ。そう簡単に勝てる、と断言できるはずもない。
そんな勇一の言葉に苦笑を漏らし、ゆかりはキッチンへと踵を返す。料理の途中だったのだろう。食欲を刺激する匂いが漂い、皿同士をこすり合わせる音が聞こえてくる。どうやら朝食の支度はもうすぐ終わるらしい。
椅子に腰掛け直し、ふと自分に向けられる視線に気付き勇一は不思議そうに父を見つめる。
穏やかな、ひどく優しい瞳。
瞬間、ずくりと胸の奥が疼く。懐かしく、苦しく、心の奥底で暴れる感情を落ち着けるように、勇一は健太郎にまっすぐな視線を向けた。
それを受け止め、健太郎は口の端に柔らかな笑みを浮かべた。
「……父さん?」
「ん?」
何故か、その笑顔に不安が浮かぶ。
いつかも感じたそれは、父が遠くの存在のように感じられるものだ。思わず勇一は何かを言いかけるが、頭の中でも口の中でも上手い言葉が見つからず、ただ父の顔を見るだけだった。
「どうした?」
「あ……何でも、ない」
そう言って慌てて顔を背けると、勇一はゆかりが盆の上にのせて運んできた茶碗類を受け取る。
行儀良く顔の前で手を合わせて、普段通りに慌てるわけでもなく飯をかき込む勇一の姿に、思い出したように健太郎が声をかけた。
「お前、たまには朝練に出たらどうだ?」
「かったるいんだよな、朝は」
「早起きは三文の得だろうが。
だいたいかったるいなんて言ってたら、後輩に追い抜かされるぞ」
言われて頭に浮かんだ後輩の姿に、勇一は苦笑で朝食を平らげる。
ぱしりと両手を目の前で合わせ、勇一は立ち上がりながら口を開いた。
「ごちそうさま」
「はい、お粗末様」
茶碗等を片付けてそれをシンクの中に入れると、ゆかりが手にしていた弁当包みを勇一に手渡した。
とりあえず、ゆかりも健太郎に同意見らしい。
小さく溜息をつき、勇一はダイニングテーブルの脚に立てかけていた鞄を手に取る。
朝練に出るのは本当に久方ぶりのために、主将共々驚きの目で見られるのは仕方がないだろう。が、この雰囲気で行かない、と言う選択肢は与えられていないのは明白だ。
溜息をつきそうになってしまった勇一が、ふと苦笑を浮かべて見つめている健太郎を視界の端で見つけてしまい、何故だか不意に心の中に不安が溢れだした。
「父さん」
思わず呼びかけてしまった勇一に、穏やかな笑みを健太郎は向ける。
「どうした?」
「あ……いや。なんでも、ない」
説明の出来ない不安を口に出来ず、勇一は歯切れ悪くそう言うと今度こそ学校に行くべくリビングを後にした。
その背中を、どこか眩しげに眺めていた健太郎がふっ、と小さな笑みを唇の端に刻む。
子供が巣から飛び立つのは、何時の時代でも変わらない。だが、健太郎はそれを見届けることが出来ない。それは、勇一が生まれた時から決まっていたことだとしても、それでも見届けていたかったの言うのが、健太郎の偽らざる本心だ。
「刻が、来たのか」
小さく口をついて出た言葉に、健太郎の表情に影が差す。
勇一が歩む道は、平穏とはほど遠いだけではなく、とてつもなく険しい道だ。それを知った時、どうしようもない怒りと絶望が健太郎の目の前に落ちてきた。
けれど……。
頼む、と、あの方は自分に頭を下げてきた。守れないという己の不甲斐なさを痛感している表情と、この道しか用意することが出来なかったという苦渋に満ちた顔は、今でもまざまざと思い浮かべることが出来る。
何があっても守り抜く。
それは親としては当たり前の感情だ。そんな事は、あの方も十分に承知していたことだろう。けれど、平和な時間は限りがあることを伝えられた時、健太郎は大声であの方を非難した。
何故だ、と、声を荒げる健太郎を、あの方はまっすぐに見つめ、すまぬ、と健太郎の怒りを受け止めながらそう告げた。
その姿に、健太郎は心の内にある感情を押し込め、あの方が話す内容を一言も忘れぬようにじっとそれを聞いていた。
そっと瞼を閉じ、健太郎は思いを過去に馳せる。
あの会合は、時間にして短かったのだろうか。それとも、長かったのだろうか。
肉体が感じる時間と、精神が感じる時間は違う。その為だろう。そんな事を考えてしまうのは。
それと同時に、胸の中に掬う感情が言葉になって口をつく。
「……思い出して欲しくはなかったが」
それは、余りにも儚い夢だと知っていた。勇一を守るとを誓いながらも、それでも何事も起きないことを願ってやまなかった今までの日々。
少しずつではあるが、勇一の中に封じられていたものが解けかけてきている。
その力の片鱗は、我が子を殺そうとする者達に察知されるのも時間の問題だと告げていた。
「お父さん?どうかしたの?」
不意にかけられたゆかりの言葉に、健太郎は弾かれたようにそちらへと視線を向ける。
エプロンの端で手を拭いた後、ゆかりは健太郎の前に座るとその顔を覗き込みながら小首をかしげた。
そんなゆかりを安心させるように微笑みを浮かべてみせるが、それで納得できたわけでもないらしく、ゆかりは眉根を寄せてじっと健太郎の顔を見つめる。
「何でも無いよ、本当に」
「でも」
何かを言いかけたゆかりだが、ふと何かを思い出したように小さく笑みをこぼした。
「どうしたんだ?」
「勇一じゃないけど、私も今朝方おかしな夢を見たの」
「どんな?」
「男の人が現れてね、謝られたのよ」
「謝られた?」
「そう。何か言ってたんだけど、よくは聞こえなかったんだけど。でもね、私に対して謝ってるって事だけは分かったの」
ゆかりの言葉に、健太郎は僅かに身体を強張らせる。
ゆかりの夢の中に出てきたのは、紛れもなくあの方だろう。だが、ゆかりはあの方の言葉を聞いていない。掌に滲む冷たい汗を握りつぶすように拳を作り、健太郎は話しの先を促す。
「どんな人だったんだ?」
「古めかしい甲冑を纏った人。時代錯誤だとかは、今頃になって思うんだけど、その時はそんな事考えなかったのよ。あぁ、この人は当たり前の姿で夢に出てきたんだって、そんな風に考えちゃって。
そう言えば、勇一が産まれる前も、その人が夢に出てきたわね。今頃になって思い出したけど、あの時も、声は聞こえなかったと思うの。だけど、すごくすまなそうな顔、と言うよりも、辛そうな顔をして頭を下げられたのはあの時と同じだったなーって」
夢の残滓をかき集めるように天井へと視線を向け、その夢の事を不思議がっているゆかりは、うーんと唸るような声あげて小首を傾けた。
だが、そんな考えを打ち消すようにケトルの甲高い音をたてる。慌ててゆかりは席を立つと、足早に台所へと向かった。
そんな後ろ姿を見送り、つめていた息を細く吐き出した健太郎は、じっと広げた自分の手を見下ろした。
「必ず、守ってみせる」
呟きと同時に、健太郎は再びぎゅっと己の手を握りしめた。
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