#78 Flowers

 長い廊下をひた歩く。フロアマットに踵をこすりつけながら俺は階下にあるマスタールームを目指していた。

 AEDと衛星電話を探していた参加者たちはそろそろ大広間に戻っただろうか。きっとその表情は一様に浮かない。そりゃそうだ。このカラクリ洋館にはAEDも衛星電話も、人命を守るための装置が準備されていない。だから見つかる筈がない。ここは参加者に魔法を信じさせるための多種多様なカラクリ装置が配備されているだけで、それ以外はまるでお飾りなのだ。この古い洋館は一夜のうちに取り壊される予定だ。当然、ここに宿泊する予定もない。この後、魔女が自身の化身に取りつかれ、騒乱を起こす。俺たちは悪に染まった魔女の襲撃に対し、彼女から教わった魔法で応戦する。そして、魔女の追走から逃れるために俺たちは洋館を後にする。日中習得していたバスを駆動させる呪文を唱え、それに乗り込むことで俺たちは運よく魔女の悪の手から逃れる……、そういうシナリオだった。だから奴らが必死に探し回ったところでそんなものは見つからないのだ。


 魔女は死んだ。

 桜見杏子は死んだ。正確には俺が疑心の中で作り上げた悪鬼が死んだ。奴は桜見杏子ではなかったし、桜見杏子でもあった。そうした曖昧な存在が消え、俺の気持ちは立ち込めた暗雲が散ったように晴れ晴れとしていた。


 不謹慎だと思うかもしれない。

 人によってはそれだけで俺を犯人たると思う者もいるだろう。


 しかし、俺の心の中で日に増してあの女の存在が大きくなっていくのは堪え難いことだった。いつか報復のために殺されるのではないかという思いが日に日に水を吸う乾物のように肥大していた。

 いっそ殺してしまおうと思った。あの日、〝FIORE〟に火を放ったことを思い出して俺は必死に自己肯定しようとした。あの時、トイレに杏子を閉じ込め、厨房に火を放った俺は何を考えていただろうか。あの女を殺そうと考えていたのではないか。俺がお金を盗み出したことを知るのはあの女だけだ。あいつの叔父なら俺に疑いも掛けるだろうが、火災の中にあっては札束も焼失してしまう。そしてまたあの汚い金のことを口外するわけにもいかぬ叔父が俺のことを引き合いに出すはずもない。


 俺の気持ちはスッと落ち着いていた。


 最後に心のしこりとなったあの女が死んで―――――。




「ぐぅっ…………!!」


 気づけば俺はフロアマットの床に顔をこすりつけていた。

 背中から誰かが馬乗りになっていた。


「あ”あ”あ”………っ!」


 首に熱いものを感じる。

 自然とうめき声が零れた。


「……………ぐ……っ」


 俺の背中を押し付けていた何者かの臀部がゆっくりと持ち上がる。

 俺は体を翻し、激痛に堪えながら仰向けになる。朦朧とする意識の中で必死にその襲撃者を見定めた。


 長い美脚、柔白い肌、そして紅蓮の瞳がじっとこちらを見下ろしていた。


「お前…………! どうして、ここに……っ!」


 は血が滴るナイフを引いて俺の脇腹辺りを刺した。


「あ”あ”っ……!!」


 無言のまま今度はもう片方の脇腹を刺した。

 俺は悶えながらあまりの痛みに言葉を発せなかった。


「―――――!!」


 振りかぶった刃先が天井の照明に被って影を落とす。

 俺はもう一度あの痛みがやってくると思うと体が咄嗟に翻った。勢いよく転がり壁に激突する。そして次刃に備えて体を起こした。脇腹が熱い。首元の熱さは次第に広がりを見せる。


「お前……、なんで……」


 女はそこでようやく手を止め、ナイフを握りしめたまま手をぶら下げた。

 恍惚とした表情でじっと俺を見ていた。


「まさか……、初めから……、この旅行に……?」


 女は何も言わなかった。

 ただ黙って俺が失血死するのを待っているようだった。



………!!」



 俺は誰かの耳に届けるように女の名を口にした。

 その美貌は相変わらず男を虜にさせる。いま彼女に殺されようとしてなお俺は彼女を力いっぱい抱きしめたいと思っていた。自分が死地に追いやったくせに俺は彼女が生きていることに感動していた。


「あの時は悪かった……、俺は、お前まで手に掛けるつもりはなかった……。全ては事の成り行きだったんだ……、俺が地獄から這いずり上がってくるまでの成り行き、仕方のない過程だった……」


 俺は血の味のする唾液を呑みこむ。


「でもお前が今こうして生きていることは……、本当に良かった、俺の選択は間違っちゃいなかった。俺も、お前も、悪魔の袖引きに遭っただけだ。お前は俺という悪魔に、俺は運命という悪魔に、ただそれだけの事さ。なあ、杏子、今からでもやり直せる。俺と一緒にここを」


 片目が光を失った。杏子は突き刺した俺の眼窩からナイフをゆっくりと抜いた。俺が身悶えるのを楽しむように。


「ぅううう……っぐあああ……!! なんてこと……っ、なんてことしやがる……っ!」


 杏子はのたうち回る俺の腹をヒールで蹴り上げ、広げた両手の片方の手の甲に鋭いものを刺した。今度はナイフではない。激痛に悶えながら見るとそれは一本の〝キリ〟だった。杏子は一度振りかぶった勢いでそれを刺し、そして押し込むように体重を乗せながらそれを床まで刺し込んだ。


「―――――!!」


 俺の意識は断片的に途切れた。それでも僅かながら意識を保てたのは、奇しくも、杏子の存在があったからだった。俺は彼女に会いたくないはずだった。それなのに俺は彼女に会えたことに興奮を覚えていた。なんで生きてやがったのか、よくぞ生きていてくれた、アンビバレントな感情が交錯し、俺の体にアドレナリンが流れる。短い時間の中に俺は自分の身に起きたことをそう理解していた。



「お店、建て直したの」



 杏子はようやく口を開いてそう言った。

 俺は乱れる呼吸を必死に整えながら聴覚に全神経を集中させた。


「アンタが火を撒いて逃げたあの日、私は偶然裏通りを通りがかった人に助け出されて何とか命だけはとりとめた。でも〝FIORE〟は跡形もなく焼けて、多額の借金と失意に溺れる叔父さんだけが残った。叔父さんはもうバーを辞めて都落ちするつもりだった。でも、私が引き留めたの。もう一度、ここで花を咲かせてみたいって。そしたら叔父さん付き合ってくれたわ、おまけに私の趣味のマジックバーに変えてくれてね。〝FIORE〟って名前に愛着はあったけど、せっかくマジックバーにするならそれらしい名前にしようと思って三日三晩考えたの。それだけ考えても候補は一つしか見つからなかった」


 片目で必死に杏子を見上げる。


「〝 Pendleペンドル Hillヒル〟」


 杏子は膝を折り、俺の顔の近くに声を寄せた。


「意味分かる?」


 ヒューヒューという喘鳴に耳をすます。それは俺の喉から聞こえていた。


Pendleペンドル Hillヒルはね、昔、魔女狩りが行われてたイギリスのある村の地名なの。魔女狩りって言えば、宗教戦争の一端みたいなもので、存在するはずもない魔女を殺して回る一種のパフォーマンスみたいなのがほとんどな訳。でもこの地には〝ペンドルの魔女〟という本物の魔女の一族が住んでいるとされてたの。だからここでは数多くの魔女が死刑になってる。それは男でさえもよ」


 杏子は息を継いで、立ち上がる。


「いつかアンタを見つけ出して殺したい……、そういう思いで名前を付けたの。悪趣味だって笑う? そうね、アンタにだったら笑われてもいいかもしれない。あの世で勝手に笑ってるならね……っ!!」


 キリがもう片方の手の甲に刺さる。今度は最初から体重を乗せたのかそれは床まであっさりと貫通した。

 もう声を出す余力もなかった。俺は両手を床に張り付けられたまま、ただ死を待っていた。


「魔女裁判には必ず〝釘刺し人ブリッカーズ〟と呼ばれる人間が同行していたの。魔女には私たちと同じ赤い血は流れていないから、キリを刺しても血が流れない。それを証明するために魔女と思しき人間にはキリを刺し込んだ。でも、釘刺し人が刺した人間の手の甲から血は一滴も流れなかった。だから皆、魔女という事にされた。衆目の前で血が流れないことを見せつけてしまったんだもん、そりゃ仕方ないよね。でも分かる? そのキリにタネがあったのよ、挿し口を押せば引っ込む……簡単な仕掛けよね。でもね、そういう簡単な仕掛けにこそ人間は騙されてしまうのよ。ああ、これ昔言ったことあったっけ?」


 俺の虚ろな目を見て、杏子は嘆息した。


「その手痛い? ごめんね。私、アンタの言う通り、アンタの事悪魔だと思ってた。だから、赤い血なんか流れないんだと思ってた。下手なマジック見せてごめんね」


 俺は体を痙攣させ、なんとか唇を動かす。


「よく………ゃべるな……、いぃ、女が、台無しだ……」


「へえ、ナイフ刺されて、キリ打ち込まれて、まだ私が良い女だって言ってくれるんだ?」


「そ……ゃあな……、俺が、愛した、……んなだからな」


「そう、意外と好き者なのね」


「最期に……、聞いても……ぃか?」


「ええ、どうぞ」


「〝FIORE〟……ってなぁ……、ど、いう意味……だ?」


「あら、やだ。そんなこと?」


「あの日、振り返りざま、店の……ぁまえを……見た」


「火事の日?」


「そう……だ。まるで……なが……ぃてるみたいで……、綺麗だった」


「やだ、悪趣味だわ」


「もしかしたら……、そう、ぁんじゃないかと……」


「そうね……。でも聞いてがっかりしないで。〝 Pendle Hill〟と違って深い意味なんてないわよ?」


「ぃいから……、おしえてくれよ」


「〝FIORE〟はスペイン語で〝花〟よ。末広町の陰気な夜街に咲くネオンの花、そういう存在になりたいって所から叔父さんがつけたの。ね?よくある話じゃない―――――」


 その先、杏子が何を言っていたのか俺には聞こえなかった。

 掠れる声がざらざらと耳にまとわりついていた。


 〝花〟か。


 そうか、そんな気はしてたんだよな。


 つくづく縁があんなあ。


 それが分かってりゃ俺もあんな無茶はしなかったかもしんねぇのに。


 惜しいことをした。


 でも。


 〝花〟に惑わされ、〝花〟に翻弄され、〝花〟に生かされ、〝花〟に殺される……そんな人生も悪かねぇか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る