#77 She is not here.
〝桜見杏子〟……、参加者名簿の魔女役に記されたその名前を見た時は背筋が凍った。
炎に包まれる店を背にし、末広町を逃れ、遠い北国まで逃げてきて、二年が経っていた。俺は過去の記憶を徐々に日常の色で薄め、その名前を忘れようとしていた。盗み出した六百万はすぐに元妻の口座に振り込み、それからも少ないながら養育費を払い続けていた。見捨てた妻子に情を注ぐためか、杏子の店に火を放ったことに対する贖罪か。俺はバイトを何件も抱えながら、ただ自分ではない誰かのために金を払い続けていた。
しかし、俳優になりたい夢は捨てきれなかった。近所の小さい劇団にも所属したが、東明にいた頃を思うと学芸会レベルのお遊戯に身を落としていることに俺は劣等感を抱くようになった。
再起を掛けて上京し、所属した劇団の名は〝劇団少年場〟……中堅規模ながら街では名の知れた劇団だった。何より〝正念場〟を掛けたそのネーミングセンスが気に入った。
企画の話を貰ったのは入団してしばらく経った時のことだった。
〝マジカル・ジャーニー〟
その旅行の参加者は魔法使いとなる。
そのために参加者に紛れた人間が魔法の世界を演出し、魔法が現実に存在するような演技を行う。
正直に、面白そうだと思った。
俺たち劇団員はいつでも客を自分たちの演技世界に取り込もうとする。そのために、迫真の演技でその世界に生きていることを証明する。真に迫った演技で観客をも世界の一部に変える。
その企画旅行は俺たちがやりたいことの先にあった。演技世界を客に見せるのではなく、実際に客自身を演技世界に取り込むことで、より没入感のある体験を可能とさせる。そんなことが出来るならやってみたいと思った。
そして主催者〝イー・トラベル〟の呼び掛けで集まったマジシャンと役者が一同に会すその日、構成員の名簿を見て、肝を冷やした。
魔女役に、彼女の名があった。桜見、という珍しい名前に加え、姓名ともに一字の違いもない。確か彼女はマジックをやっていたから、間違いはないと思った。あの後、末広町のバーでボヤがあったという新聞の小さな記事を読んだ。どうやら当日の雨もあり、火の手は思いのほか広がらなかったようだ。死傷者ともになし、という言葉を見つけて胸を撫で下ろした。だから彼女がどこかで生きていることは分かっていた。しかし、実際に会うことは出来ない。出来るはずもなかった。
いつでも逃げ出そうと思ったが、そうこうしている間にメンバーが揃い、打ち合わせが始まった。
拍子抜けした。
〝桜見杏子〟は、俺の知っている桜見杏子ではなかった。全く別人の女だったのだ。雰囲気は似ているが、目元が全く違う。彼女はもっと妖艶な瞳をしていた。
―――――だが、そんな偶然があるだろうか。
この街にいながら、マジシャンを生業としていて、桜見という姓を宿し、杏子という名を授かった人間が二人といるだろうか。
いるはずがない。
目の前の彼女が杏子でなかったとしても、あの女は必ず杏子と何か関係がある。
そう考えると、生きた心地がしなかった。
俺はこの企画の最中にいつか奴に刺し殺されるんじゃないかと怯えていた。
時が経ち、練習と打ち合わせを重ねていくうちに、俺の中で『魔女が杏子である』可能性は五分五分になっていた。ふとした拍子に見せる髪を掻き上げる仕草はどことなく杏子に似ていて、だが、酒が苦手で引っ込み思案な所はまるで似ていない。あの日の新聞記事にあった、死傷者なし、とは事実無根で本当は火事によって心も体も変わってしまった可能性も考えた。そっと忍び寄り、彼女の財布から免許証を盗み見たこともあった。誕生日も住所も違う、ただ名前だけが同じの別人だった。
それでも最後まで不安は拭いきれなかった。
彼女が杏子なら……、俺は殺される。
そんな極限状態で『先に殺してしまおう』という動機が生まれるのは、自然な事じゃないだろうか。
つまり、『誰が』『どうやって』『なぜ』すべての条件が俺に当てはまる。
俺が、魔女を殺した容疑者として最も有力なのだ―――――。
「みんな気が動転してるんだよ。こういう時こそ冷静になろう」
唐沢が手を叩いて気持ちが浮き立つメンバーを宥めようとする。そして振り返り、もの思わし気な目で俺を見た。
「な……? 清川、やっぱり犯人捜しはやめよう……。これじゃただ皆を不安にさせるだけだ」
「いや、とことんやる。中途半端じゃ意味がねぇ」
俺を気遣う唐沢の目が今は疎ましく感じられた。
「続けるぞ、『なぜ』について何か意見のある奴はいるか?」
手を上げる者はいなかった。俺は一人一人に視線をやる。一様にその表情は暗い。しかし、それは話し合いに参加したくないという消極的な理由からではなく、答えが見つからないことに対する気まずさから来ているものだと気づいた。
予想はしていた。魔女は俺たちサクラにとっても素性の知れない人間だった。俺とて印象的な名前を記憶しているだけで、彼女の人となりというものを知らない。打ち合わせや練習が終わるとすぐさま荷物をまとめて帰り、飲み会にはただの一度も来なかった。
そんな彼女を殺そうとする動機は何だ。関わりを持たない人間に怨恨という感情は湧かないだろうし、痴情の縺れということもあるまい。他には、金の問題も絡むだろうか。しかし、どれをとっても魔女とは無縁のように思える。この数か月の間、近くで見てきた俺たちが揃って口を閉ざしていることが何よりその現状を物語っていた。
「心当たりはない、か。じゃあ、『誰が』『どうやって』の二つを考えると………、俺が一番怪しいってことになるな」
「おい清川、卑屈になるなよ。誰もお前がやったなんて思ってない」
「どうかな」
俺は徹田や長崎を横目で流し見る。徹田は細い目の奥からじっと俺を見つめ、長崎は口に出さずとも分かるだろうと言う風に口角を上げている。
このメンバーが発足して半年以上の月日が流れている。今まで築き上げた絆関係がこうも簡単に崩れるとやるせない気持ちになる。誰も、徹田や長崎を犯人だと疑ってはいない。しかし人は時に、自分を守るために他人の首に刃を突き立てることがある。今がその状態だ。誰が、なぜ、どうやったか分からない今、とりあえず俺を犯人に仕立て上げるのは理解できないではなかった。
「お前らの言う事は分かる。特に徹田と長崎さんの理屈は筋が通ってるしな。誰が犯人だと言われれば、俺が最も怪しい」
俺は息をついた。
「この中じゃあ、な」
メンバーの顔が一斉に上がる。
「俺にもお前らと同じように誰かを名指ししていいのなら俺にも考えがある」
「清さん……? でもさっき、一般参加者の中に犯人はおらへんって」
「誰が一般参加者だって言った?」
俺の眼光に徹田は怯む。
続いて長崎が口を挟む。
「待て、清川君。サクラと一般参加者の中に容疑者がいないのに、別に誰が候補に上がると言うんだね。あまり下手なことは口にしない方がいい。君自身の首を絞めることになるぞ」
「いや、長崎さんもアンタもそうだし、徹田もそうだし、皆もそうだ。俺たち以外に怪しい人物が一人いることを忘れてる」
この場にいないことで立場を危ぶまれる人物が一人いる。
俺はゆっくりとその名を口にした。
「白居美佳」
皆の顔に吃驚の相が現れる。
「―――――あの企画者が、最も怪しいと考えてる」
俺は三本の指を突き出し、一つずつ折っていく。
「一つ『誰が』……これは白居美佳。
二つ『どうやって』……長崎さんの見立て通り、暗闇の中で魔女に注射を刺すくらいなら造作もない。なぜなら誰も白居美佳のことなど気にも掛けていなかったからだ。俺たち以外の人間があの場にいたことを意識せず勘づくのは難しい。
最後に、三つ『なぜ』……思い出してほしい。俺たちは白居属するイー・トラベルに雇われたキャストだ。各々の所属は違えど、マジシャン、役者、お笑い芸人、それぞれの役割がはっきりしていながらこの場に集められた。初めての打ち合わせの日、俺たちは初めて白居の顔を目にし、お互いの事を知った。だが魔女はどうだった? 魔女の所属は結局分からずじまいだったが、少なくとも奴は白居美佳と旧知の仲だった。そのことは薄々分かってただろ?」
俺たちキャストが一同に会したあの日、魔女扮する桜見杏子だけは白居美佳と親し気に話していた。親し気というよりは、魔女が企画の内容を熟知していて二人で打ち合わせの内容について話し合っていた風だった。ともすれば、桜見杏子と白居美佳が俺たちを呼びつけたそんな雰囲気さえ漂っていた。
だから俺たちは最初魔女がイー・トラベルの職員だと勘違いもしていたし、それゆえ近づきがたい雰囲気もあった。同じキャストながら雇用主と被雇用者というある種の主従関係が両者を隔てていた。
「アイツらの間に何があったか分からねぇが、たかが半年毎日顔を合わせただけの俺らより白居の方が魔女を殺す動機は生まれやすいと思う」
俺は至って平板に述べた。
だが、それは功を奏した。誰もの目に確信が映っていた。まとまりのない話がいま俺の言葉によって形を成したのだ。
「……なるほど」
長崎が苦々しい顔で呟いた。
「……」
徹田は黙ってそれを肯定に代えていた。
「だからよ、皆はここを離れるな。白居美佳の目的は分からんが俺たちにいつ矛先が向けられるか分からねぇ」
俺は足の先を翻す。
「おい、清川。どこに行くつもりだよ」
唐沢の声が俺を止める。
「―――――マスタールームに行ってくる」
「何のために?」
「もう一度、白居美佳を探してくる」
一人分の隙間が開いて閉まる扉。
誰も俺の背中を掴む者はいなかった。
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