#73 Chance
五百二十三万なんて大金すぐに用意できるはずがない。バイトもそこそこに劇団の稽古ばかりに励んできた俺の手元には、貯金どころか、明日の生活だってままならない金しか残っていなかった。身の回りの家財を売り払っても到底足りない。一週間で用意するにはあまりに大きすぎる金額だ。
事故で亡くなった母親に払われる賠償金も少しは俺の元に入ることを期待した。しかし、親父が生きている今、多くは親父の懐に入り、余りを姉と分け合うことになるのだろう。世帯を持ち、地元に暮らしながら父の面倒を見る姉。東京で独身を謳歌し、悠々自適とした生活を送る俺。どちらが多く相続するべきかは明らかだった。
月に八万ずつ、俺はあの親子に養育費を振り込まなければならなかった。今の自分の生活ぶりを考えれば決して払っていけないような金額だ。それでもあの頃は親がいて、支払能力のない俺に代わって親が払ってくれるのが当たり前だと思っていた。あの時、適当に契約書に署名をすれば、それで仕舞いだと思っていた。八万なんて数字、見たかどうかさえ記憶がない。そんなことにはまるで興味がなかった。親同士が話し合ってそれで穏便に済むのなら、それでいいと軽い気持ちでペンを走らせた。
五百二十三万ということは単純計算でも六十七カ月分、ちょうど俺が上京してから払われていない計算になる。親からはそんな相談を一つもされなかった。親父が病院に運ばれたという電話を受けた時も、金の工面については問題ないと母は言っていた。養育費のことなど一つも心配していなかった。そりゃそうだ。俺の中ではもう済んだ話だったのだから。
アパートに戻って冷静になり、改めてその金額の大きさにビビった俺は、教えてもらっていた寿々香の電話番号に電話を掛け、「もし期日を過ぎたら?」とつい泣き言を言ってしまった。寿々香は意外にも平然とした声で「別に構わないわよ」と言った。しかし、「別にいいけど、当然、裁判で争うことになるし、もしこの先アンタが役者として成功したら、マスコミにこの事をリークするつもりでいるから」と釘を刺された。アイツにこの話を持ち掛けられた時点で既に退路を断たれていたことに俺はようやく気が付いた。
『ほら、一番上のカードを捲って』
俺は言われるがまま、トランプを一枚捲る。
それは、俺が引いて、杏子が破り捨てたはずの〝♦3〟だった。
『ふっ、上手いもんだな』
『でしょでしょ? これやると大概のお客さんビックリするんだよね』
『もっと驚いた方が良かったか?』
『いいえ? アンタはお世辞でもそんなことする性格じゃないでしょ?』
杏子は俺の肩にコテンと頭を預けると、淫靡な溜息をついた。
客がいなくなったバーカウンターに俺と杏子は身を寄せ合う。店を閉めるために店内の音楽は消え、厨房の奥でマスターが明日の仕込みをしているが、俺の耳には彼女の吐息だけがやけにはっきりと聞こえていた。
『次の公演いつ?』
『来月の頭だ』
『分かった、見に行くわ』
『仕事は? 土曜の夜だぞ』
『休みにしてもらう』
俺はのれんの隙間から見える店主の背中を確認する。
『マスター、許してくれんのかよ』
杏子は長いまつげを伏せて呟く。
『……どうだろ』
『おいおい。俺は何も無理にとは言ってな』
『無理にでも誘ってくれたらOK出してくれるかも』
杏子はそう言って、俺の首元に頭を預けたまま上目遣いをする。
『……よせよ』
彼女と出会って半年が経とうとしている今、俺はまだ決断できずにいることがあった。それは、彼女との関係。今後彼女とどうなりたいのかという決断ができずにいた。
杏子は間違いなく俺のことを好いていた。こうして毎晩のように閉店後のお店で仲睦まじく男女の会話を交わす。それは叔父である店主の目も憚らず、だ。普通なら知り合いにこんな場面を見られて恥ずかしいと思うだろう。しかし、相手が店主なら話は違う。杏子にすり寄る男をとことん害悪とみなし、唾を付けて帰そうとする人間だ。そんな店主の前で臆面もなく戯れるのは相当の意気込みがなければ出来ないことだ。本来ならお店を飛び出してホテルにでも行くところだが、杏子はそれを望まなかった。敢えて店主に見せつけることで、俺との関係を許してもらおうという腹積もりのようだった。
『叔父さん、最近忙しいみたいだから、もう私に気を掛けてないのかも』
『どういうことだ?』
『実は新店舗を建てるって話が挙がってて、その資金繰りで色々参っちゃってるみたい』
杏子は寂しそうに視線を泳がせた。
『新しい店舗建てるってんならお金に余裕があるんじゃないのか?』
『ええ。たぶん開業資金については問題ないんだと思う』
『資金繰りに困ってんだろ? 他にどんな問題があるんだ』
俺がそう言うと、杏子は頭を起こして、周囲を気にするような素振りを見せてから小さな声で囁いた。
『お店の入る建物が、ヤクザの所有してる物件なの』
俺は眉をひそめる。
『地代に加えて、その……、いわゆるみかじめ料的な話が出てるらしいのよ』
『だったら、そんなとこ出店しなきゃいいだろ』
『それが、お世話になってる自治会長さんに、どうかそこに出店してほしいって言われてるらしいの』
『……何のために?』
『さあ、詳しいことは』
俺のない脳みそを使って想像できることがあるとすれば、その自治会長とやらも出店者を募って暴力団の資金回収の為に一枚噛んでる……とか簡単なシナリオなら組める。ただ問題はそう簡単ではないだろう。様々な思惑が渦巻く両者の関係に、店主の立場が複雑に絡み合う。ただ店主が自治会長に新店舗開業の話をした時点で歯車は動き出していて、結果的に彼は金を支払うことになる。杏子の諦めたような口ぶりからして話はそこまで進んでいるように思われた。
『おい、杏子!』
店主の呼びかけに咄嗟に体が動く。
この距離で話の内容を聞かれていた訳はないが、彼の鋭い眼光には嫌でも体が強張ってしまう。
『ちょっと、いいか……?』
店主は杏子を厨房に来るよう手招きする。
『え、ええ……』
杏子は怪訝な顔をして、のれんの奥に消えていった。
囁き声がややあって杏子はものの数分で戻ってきた。
その顔には戸惑いと驚きの両方がある。
『どうした? 何かあったのか?』
杏子はちらと背後を振り返り、店主の姿を確認する。彼はまた明日の開店準備に取り掛かっていたようだった。
『さっきの……、みかじめ料、払うんだって』
『へえ、腹括ったのか』
『明日の昼、直接ココに担当者が来るらしいの』
『直接? 現ナマか?』
聞いたことがある。ヤクザや裏稼業の人間は金に痕がつかないように現金取引を好むらしい。取引相手には必ず現金を用意させる。それも、銀行から一気に引き出せば不審に思われるため、生活費の出金に紛れさせながら巧みに現金を集めるのだという。
『アタシ、ビックリしちゃった。叔父さん、もうずいぶん前から準備してたみたい』
『もう用意があんのか』
『さっき、そこで見せてもらった。酒屋の販促パンフが入ってる段ボールに入れて……、こんなにたくさんの万札』
杏子は腕を伸ばして、声を上気させる。
『いったいいくらあんだよ』
そう言われて杏子はゆっくりと胸元に手をやって、指で数字を作った。
『六百万』
俺の人生と全く関係のない話だ。
知らないおっさんが知らないヤクザに金を払う。
社会ではありふれた出来事だろう。
俺には関係ない。
本来なら、そうだ。
でも、今だけは無関係に思えない。
これは……、偶然拾い上げた好機と見るんだ。
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