#72 Wife

 このまま帰るのも気が晴れない。

 そう思い立って、俺はある場所に足を運んでいた。

 

 顔をしかめながらスマホで撮った写真を眺める。そこには、しわくちゃになった紙に住所が書いてあった。


 それは、一年前に劇団を辞めた先輩が跡取りとして経営する豆腐屋の住所だった。

 国道沿い、海辺に繋がるアクアラインとの交差点に、白い真四角の建物がある。帆布で出来たオシャレなカッティングボードが目を引き、入り口には紺色ののれんがはためく。停まっている車はどれも外車か国産の高級車で、敷居の高さを感じさせる。父の代からやっていると聞いていたので古臭い店をイメージしていた俺は思わず面食らった。

 店の内観は白と黒を基調としたシックなデザインになっており、喪服で来てちょうどよいくらいだった。


『いらっしゃいませ』


 燕尾服を来た執事風の店員でも出てくるかと思ったが、白い衛生服に衛生キャップを被った色白の女性従業員が柔らかい口調で俺を迎え入れた。


『社長さんは?』

『裏の作業場におります。失礼ですが、どちらさまですか?』

『清川、と伝えてくれ』


 従業員は戸惑いながら裏にいる先輩の名前を呼んだ。

 話し声がややあって、白衣の人間が飛び出してきた。


『ミナト!』


 懐かしい先輩の姿がそこにあった。先輩もまた衛生キャップを被っていたので一瞬誰か分からなかったが、声を聞けばすぐに分かった。


『ちょっと用があって帰ってきてたんで』

『そうか。用って……、もしかして』


 先輩は俺の姿を一通り眺めて、眉を「ヘ」の字に曲げた。

 

『ええ。母の葬儀で』

『そうか、それは大変だったな……』

『突然だったんで、先輩にも連絡できず、すいません』

『いや、そんなことはどうでもいい。それより、俺もいちど線香を上げに行きたい』

『龍福寺の納骨堂で永代供養してもらうことにしたので、近くを立ち寄った時にでも挨拶してもらえればいいです』


 先輩は目を細めたまま口を堅く結んで頷いた。




『―――――いいお店ですね』


 俺は店を見回して言った。


『ああ、親がやってた店を取り壊して新しく建て直したんだ。今までにない豆腐屋を目指したくてな』

『なんか都会のスイーツ店みたいっすね。ガラスケースまでこだわってますし』

『いいだろ、特別に作らせたんだ。ガラスケースのある豆腐屋なんて聞いたことあるか? 面白そうだろ? そうだ、中で茶でも出すよ。入ってけ』


 先輩は親指で背中の扉を指差した。〝STAFF ONLY〟のプレートが貼ってある。


『いえ、顔を見に来ただけなので。今日の夜にはまた劇場に戻らないといけないんです』

『ああ……、そうか』


 こういう時、かつて同業だった先輩は理解が早くて助かる。稽古なんて早く切り上げて帰って来なさい、と怒鳴りつけた姉とはまるで違う。


『じゃあ、ウチの商品持ってってくれ』

『お代は?』

『宣伝費ってことにしとくよ。パックタイプで日持ちするやつもあるから、劇場に持ってって皆に配ってくれ』

『わざわざ俺が宣伝しなくても、先輩のだったら皆喜んで持って帰ります』

『それもそうか……!』


 先輩は俺の肩を大げさに叩いて豪快に笑った。

 

『どの商品がおススメなんすか?』

『おお、そうだったな。いま活きの良いのがあんのよ、ちょっと待ってな。裏に行って取ってくっから』


 そう言って先輩は上機嫌な足取りでのれんを掻き分けバックヤードに戻っていった。


 しばらくすると、先輩の大きな話し声が表側にも響いてやって来た。どうやら裏手の入り口から誰かが入って来たらしく、先輩はその来訪者に対して何かを話しているようだった。会話の内容は聞き取れないが、とても明るい声色をしている。相手の声は小さく更に聞き取りづらいが、他人という訳ではないようだ。元気な子供の声まで聞こえてくる。一言目は何か分からぬことを叫び、そして二言目は確かに『パパ』と言った。

 そこで俺は、先輩の家族が店に遊びに来たのだと理解した。小さい声は、奥さん。そして子供の声は、先輩の息子さんだ。先輩は劇団にいた時から遠距離恋愛をしていた女性がいた。詳しくは聞かなかったが、事実婚状態が長く続いていたらしい。特に知らせはなかったが、こっちに来て正式に籍を入れたのだろうか……?


『―――――るからよ!―――――っと待ってな!』


 先輩は奥にいる家族に言い残し、表に顔を見せた。


『おい、ミナト! 少し時間貰っていいか? ウチの女房と息子を紹介したいんだ!』


 先輩は顔を赤らませ、とても楽しそうに笑った。


『ええ、構いませんよ』


 俺もつられてそっと微笑む。久しぶりに顔が綻んだ気がした。


『ほら、コッチ来い』


 先輩が身を屈ませ、バックヤードに向かって手招きをする。

 すると『パパー!』と言いながら小学生ぐらいの男の子が彼の腕の中に飛び込む。その子を抱き寄せると、筋骨隆々とした腕をはだけさせて軽々と持ち上げた。


『お馬さんやってよ!』


 先輩は腕の中で暴れる我が子を制しながら、答えた。


『息子の蒼汰そうただ。今年、小学校に上がったばかりだな』

『…………』

『ミナト?』

『あ、いえ、元気なお子さんで。まだまだお父さんに甘えたい年頃なんすね』

『まあ、最近の子にしては珍しいと思うよ。この歳でもまだこんなに好いてくれるなんてな。家族サービスしてきた甲斐があったよ』

『…………』


 蒼汰くんとやらの笑窪えくぼを見ていると、心に妙なザワつきを覚えた。

 

『女房も来てるんだ。おい……、おい……!』


 先輩がまた手招きする。



『―――――おい、寿!』



 心根をキュッと掴まれた。

 息を飲んで女の顔を確認する。


 姿を現した女は、十九の時に離婚した元妻―――――寿々香だった。


『どうしたの、アナタ』

『劇団時代の後輩が遊びに来てくれてな。せっかくだから挨拶でもしてくれ』


 女は俺を一瞥して、無表情のまま固まった。

 俺を、自分と子を捨てた甲斐性なしの男……、清川湊だと認識したようだった。


『実はミナトも三城の出身でな。……ミナト、お前、高校は?』

『東です』

『そう言えば、寿々香、お前も東出身だったよな? もしかしたらどっかで会ったことあるんじゃないか?』


 女は黙ったまま何も答えなかった。


『寿々香?』

『アナタごめんなさい。アタシ……、先に家に戻ってる』


 そう言うと、女は髪を振り乱して足早に去っていった。抱きかかえられた子供が下に降ろすよう先輩にせがみ、急いで女の背中を追っていった。

 残された先輩は唖然とする。眉をひそめて俺の顔を窺う。


『なんか……、スマンな。普段はもっと社交的で愛想の良い奴なんだが』


 俺は心の動揺を悟られないように柔らかい笑みを浮かべた。


『東高だったら俺の嫌な噂も耳にしてるんじゃないですかね』

『噂?』

『俺、昔はすごいやんちゃしてて、高校も卒業してないんです。奥さんは俺のこと知ってたのかもしれないすね』

『高校ってもう十年も前の話だろ? アイツがそんなこと気にするか』

『俺としても昔のことは忘れたいので……、奥さんの前で俺の話はしないであげてください』


 先輩は気まずそうに頭を掻くと、溜息交じりに『分かったよ』と言った。








 俺の予感は的中していた。

 先輩が抱きかかえていた子は―――――俺の子だった。昔はまだ頬が熟れた桃のようにパンパンに膨らんでいて、泣くか笑うかしかできなかった乳臭いガキだった。それが今では顎のラインが引き締まって、膝頭にかさぶたを作る健康な男児に育っていた。ただ……、笑窪だけは変わらず当時のままだった。左の頬だけに現れる深い笑窪。それだけは俺の記憶の隅に残っていて、思い起こすのに時間は掛からなかった。


 寿々香に至っては、離婚を切り出したあの日のままこの場に現れたのではないかと疑ってしまうほど、変わり映えがしなかった。小動物のような幼気な体つき。涙を滲ませた瞳。そよ風の中に消え入りそうな声音。

 一見すれば、強い物に靡き、誰にでも従う、心の弱い女に見えるだろう。しかし、アイツを抱いた日から俺のアイツに対するイメージは変わった。『爪を隠し続ける女』……、強者の首根を引っ掻いてやるという闘志をアイツは一切表に出そうとしなかった。常に弱者を演じ、自分が矢面に立たされないように女の世界を生き抜いていた。後にも先にもそんな女に惹かれたのは初めてだが、唯一、爪を見せる瞬間が俺と話している時だけという特別感が俺の心身を一瞬でも支配したのなら仕方がないだろう。



『今更……、なんで帰ってきたの……?』


 帰り道。JR三城駅の改札口前。突然、喪服の袖を引っ張られて、そんな言葉を掛けられた。振り返ってみると、寿々香が下から俺を睨み上げていた。


『なんだ、お前。ビックリするだろうが。まさか尾けてきたのか』

『どういうつもりで帰ってきたの?』

『…………俺だって、意外だったよ。まさか先輩と結婚してたなんてな』


 俺が薄い笑みを浮かべると、寿々香は明らかな苛立ちを見せ、言葉を刺した。


『なんで帰ってきたのって聞いてんの』


 つい黙ってしまう。


『私がどう生きていようが貴方には関係ないでしょ。どうせ私たちの事なんか興味ないくせに。……それより、この街に何しに来たのよ』


 俺はこの姿を見て何も思わないのかという風に自分の喪服の襟を正して言った。


『葬式だよ。見りゃ分かんだろ。これでも血のつながった家族はまだこの街にいるんでな』

『誰の?』


 寿々香が一歩前に歩み出る。その口調は明らかに可笑しい。何かを急いでいた。少なくとも死者を悼む様子も、それを表現するための間もなかった。俺は寿々香の気負いに押されるように口をついた。


『母親のだよ』


 俺は周りにも聞こえる声量で答えた。

 しかし、寿々香は一瞬でも怯む様子を見せないまま、無表情のまま言葉を続けた。


『五百二十三万』


 俺は顔をしかめる。五百二十三万……? あまりに唐突な言葉に俺は戸惑う。まるで目の前にいる寿々香が話の通じないロボットのように見えてきて頭が痛くなる。


『五百二十三万、いますぐに払って』


 払って? つまり、五百二十三万……円、ということか?


『待て、何の話だ』

『何って下手な芝居はやめて。義母さんが亡くなったんなら話は聞いてるでしょ』


 遺産相続の話か? しかし、母に遺産と言える遺産はなく、0.2カラットばかりしかないダイヤの結婚指輪と、戦時中に亡くなった祖父が遺したという米粒ほどの地金、そして死亡事故による損害賠償金が入ってくるだけだ。ただそれはほとんど配偶者である父の財産になり、俺と姉の元には微々たる金額が入ってくるだけだった。それは他の親族にも相談していないし、他所に出るような話でもない。


『何の話をしてるのかさっぱり分からん』


 俺が嘘をついているように見えないと気づいたのか、寿々香はふてぶてしく溜息をついて、何から説明しようかと考えているようだった。


『―――――養育費』


 寿々香はそれだけ言って吐き捨てた。


『養育費?』

『まだ貰ってない養育費のことよ!』


 声を荒げて、目をひん剥いた。寿々香の必死な表情を見て、俺は全てを察した。

 そしてあとは事の次第を寿々香の怒号とともに追っていくだけだった。


『貴方と離婚する時、蒼汰が二十歳になるまで養育費を払うって約束したでしょ! 月に八万ずつ、払っていくって決めたでしょ!? あのお金のことよ!』

『いや、お前、それは……』

『そうよね! 貴方は全部お義母さんに任せて自分は遊び惚けてたんだもんね! そりゃ知らないわよ! あの後、お義父さんの病気が酷いことになって、お義母さんが介護に追われて、養育費どころじゃなくなったって……! 貴方は二人を捨てて出て行っただけだもんね!』


 親父の病気が酷くなり、母親が大変そうだという話は、上京してすぐに耳には届いていた。しかし俺は『養育費が支払えない』事態にまで悪化しているとは考えが及ばなかった。情けないことに、今の今までそんなことを思いつきもしなかった。姉と遺産の話をしていた時、通帳の預金残高がほとんどないと知らされた時に気づくべきだったか……? いや、問題はそんなことじゃない。


『お義母さんだって最初の内は頑張って払ってくれてたけど、お義父さんの病院が変わるたびに未払いの医療費がかさんで、すぐに養育費が払えなくなって……。それからお義母さんが私の所に来て頭をついて謝ってきたの……、お義母さんは何も悪くないじゃない! このぶつけようのない怒りが貴方に分かる?!』


 俺はどんな表情をして、どんな言葉を掛ければいいのか、そればかりが頭を巡ってついに何も言い返せないまま黙ってしまった。


『これだけは言っとく……、私はお金が欲しい訳じゃない。蒼汰もいて、優しい夫がいて、暖かい家庭がある。お金がない時期も、蒼汰がいるから乗り越えられた。俳優として生活できない夫を支えて来れたから、今の私がある。だから、今更、過去の傷を抉ってまでお金をせびり取ろうなんて気持ちは一つもない。それでも、私はお義母さんのためを思うとやらなきゃいけないって思うの……、貴方に人間らしい生き方をさせるために』


 寿々香は〝爪〟を立てたまま、俺を睨みつける。


『来週までよ。今月分までの残り五百二十三万円、今から言う口座に振り込んでおいて』

『……口約束で良いのか?』

『何言ってるの? 契約書なら離婚協議の時に書いたでしょ』

『……来週までに支払えなかったら?』

『私は最後まで戦うわよ。法廷でもどこでも行くわ』


 殊勝な態度に俺は苦笑するしかなかった。


『お前、ホント変わってねえな』


『その言い方やめて。私はもう貴方のモノじゃないの。私はの人間なの』


 〝花〟山先輩……、いい嫁を貰いましたね。

 また花か……なんて呑気なことを言ってられないが。

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