#74 Father

 足が小刻みに震える。俺は膝頭を抑えながら身を屈ませ、大きく息を吐いた。吸い込む。また吐く。そしてまた吸い込む―――も空気が上手く肺に入らない。不安と焦燥で一杯になった胸の中が異様に熱を帯びていた。

 陰鬱とした部屋の雰囲気を映し出したような曇り空。震える膝で立ち上がり、一面に広がる灰色の羊雲を窓辺から眺めた。ひと雨降りそうだな。思案しながら、窓の隙間からやってくる雨の匂いを感じた。

 

 俺は今日、罪を犯す。

 〝FIORE〟に忍び込み、叔父とヤクザが来る前に六百万を盗み出す。そのお金があれば、養育費を払える。


 盗みを働くのは初めての経験ではない。

 三城にいた頃はダチと一緒に近所のスーパーで何度も万引きをした。防犯センサーも付いていない田舎のスーパーだったから、店内から商品を持ち出すのは簡単な事だった。小さいガキの頃から親に手を引かれて通っていたスーパーだった。老いた店員達は息子同然の俺たちがよもや万引きをしているとは思いもしなかっただろう。


 幾分か慣れてきた頃に、つい他の客に万引きの現場を見られてしまった。優しい顔をしたおじいちゃん店長に事務室まで連れていかれ、長い説教を受けた。その時の店長は哀しそうな目をしていた。心底、俺たちを信頼しきっていたようだった。

 店長は二度と同じことをしない約束を条件に俺たちを警察には突き出さなかった。目に涙を浮かべ、俺たちを店の外に追い出し、「とっとと家に帰れ」と怒声を上げた。

 

 若さとは反骨心の原動力にある。

 俺たちは叱られた事へ怒りを覚え、その後も繰り返し、店で万引きを働いた。回数を重ねるごとに店の目は厳しくなった。立派な防犯センサーも付いて、私服警備員も配置したようだった。しかし、俺たちもあの手この手で対抗策を打った。商品を持ったまま堂々と関係者入り口を通り、通気窓から外にいる仲間に手渡したり、別の客のバッグに忍び込ませたりなんかもした。

 しばらくして、スーパーは潰れた。不況の煽りを受けたのか、近所に大型小売店が出店したからか。それとも、万引き対策に費やした金を回収できなくなったからか。定かではないが、とにかく、閉店した店の跡地を眺めて俺とダチの気持ちは晴れ晴れとしていた。


 あれから十年以上経った。今の俺が盗みを犯すのは若さゆえの反骨心などではない。当たり前だ。仮にも一児の父だ。その子を養うお金を盗もうというのだ。若さをいい訳にしていい筈がない。


 そうだ、これはケジメだ。

 寿々香蒼汰に見せてやれなかった、父親としての誠意を見せるためだ。

 過程などどうでもいい。社会が決めたルールから外れたっていい。俺が一人の人間らしく生きるためには、過去の過ちを清算する必要がある。そのために盗みを犯すなど簡単なことじゃないか。


 あの六百万だってどうせ汚い金だ。

 それを未来ある子の元に届けようというだけだ。


 俺はアイツらの父親なんだ。やることはやって諦めよう。たとえ、手放してしまった〝宝〟でも―――――。





『杏子、いま電話いいか?』


 俺は朝陽で薄ら白んだ曇り空を眺めながら、公衆電話の受話器を耳に当てていた。


『え、湊?』

『悪い。公衆電話から掛けてるんだ』

『どうしたの?』

『実は、昨日の夜、お店のトイレにスマホを忘れたみたいなんだよ』


 店に戻る口実を作るために、俺は昨夜店の化粧室に自分のスマホをわざと置いてきた。杏子の電話番号だけは控えておいて、公衆電話から彼女に電話を掛けていた。


『ええ? ウソ?』

『ああ、お店開いてないよな?』

『そうね。叔父さん、今日は昼前にお店開けると思うんだけど……、その時になら返せるかもしれない』

『そうか……』


 俺は口を濁して、杏子の反応を待った。


『えっと、すぐにでも欲しい?』

『ああ』

『……じゃあ、ちょっと、叔父さんに聞いてみる』

『どうするんだ?』

『鍵、借りてくるわよ。叔父さんが住んでる所そんなに遠くないから』

『悪いな。無理言って』

『気にしないで。適当にお昼でも奢ってよ』

『いくらでも言え。好きなもん食わしてやる』


 電話の向こうで杏子がクスリと笑った。




 じとじとと小雨が降る末広町、寂れたシャッター街。

 店の前で待っていた俺の元に杏子が傘を手に持って駆けつけてくる。


『悪いな、朝早くに』

『ええ、それはいいんだけど……、随分早かったのね』


 水滴の付いた傘を折りたたみながら、杏子が心配そうな表情で話し掛けてくる。


『何で分かる?』

『だって随分髪が濡れてるし、それに傘も持ってないみたいだし。家を出る時は雨降ってなかったんじゃない?』


 杏子は俺を上から下に眺めた後でそう答えた。


『天気予報見てきたんだけどな。こんなに早く降ると思ってなかったんだ』

『お店の中にお客さんが忘れていった傘があるから、それ持ってってよ。どうせもう持ち主なんて見つからないんだろうし』

『そうさせてもらう』

『それじゃあ……、叔父さんから鍵借りてきたから今開けるわね』


 そう言うとグッチのトートバッグから銀色のピンシリンダー錠を取り出し、扉の鍵穴に挿した。大きさに見合わない重厚な解錠音がした後、流れるように把手を引くとドアベルの音がした。

 開店前のお店はまたいつもと違う雰囲気があった。泥酔した客同士の喧しい言い合いが聞こえるテーブル席も、顔を紅潮させた客がくどくどと仕事の不満を垂れるカウンター席も、夜の賑わいを全く感じさせない静寂が店内を包んでいた。


『早く』


 杏子の声が俺の背中を押す。


『え?』

『早くトイレ探して来たら?』

『お、おう、そうだな……』


 俺はゆっくりとした足取りで店内奥へと歩いて行く。厨房横の角を右に曲がると、〝WC〟と印字された金属プレートが掛かっている。杏子の目を気にしながら俺はひとまずドアノブに手を掛け、中に入る。すると手前の引き戸に〝淑女〟の文字が見え、通路奥に〝紳士〟の文字が見える。

 すかさず紳士の引き戸を開くと、手洗い場の下で屈み、在庫のトイレットペーパーが収納されているプラスチック製のボックスから自分のスマホを取り出した。


 さて、ここからが本番だ。

 もちろん、スマホが無事に戻ってきたからと言って、馬鹿正直に杏子にそれを伝える訳がない。ひとまずは、様子見だ。



『―――――……ねえなあ』


 トイレから出てきた俺が渋い顔をしながら呟く。

 椅子に座っていた杏子は驚き、足組みを解いて立ち上がる。


『トイレに置き忘れたって言ってなかった?』

『そのはずなんだがな』

『どこか別の場所に置いてきたんじゃない?』

『昨日はこの店以外で外には出てない。可能性としてここ以外に無いんだよな』

『そう……、それじゃあ、もう少しこの辺り探してみようよ』


 杏子は長い脚を折り畳んでテーブルの下を覗く。

 俺も彼女に怪しまれないようカウンターの下を覗き込んだり、観葉植物のプランターを意味もなくずらしてみたりする。その都度『ここにもねえか……』などと呟きながら、俺は徐々に徐々に厨房の方へと移動していく。のれんの隙間からそおっと中を覗く。六百万が入ってる段ボール箱はどこだ―――――。


『ねえ、湊』


 飛び上がりそうな心臓の動きを抑えて、俺はゆっくりと杏子の方に顔をやる。


『どうした?』


 杏子は手に自分のスマホを持って指差した。


『湊のスマホに電話掛けてあげよっか』

『―――――あ、ああ、そうしてくれ』


 杏子は素早く画面をタップし、すかさずそれを耳に当てる。彼女の耳元から小さな呼び出し音が鳴っている。俺は息を飲んでポケットの中のスマホを握りしめた。


『………駄目ね。電波の届かない所にあるか、電源が切れています、だって』

『そ、そうか。充電が切れたのかもしれないな』


 俺は胸を撫で下ろす。……電源を切っておいて良かった。


『昨日の事、よおく思い出して? どこで、いつ、スマホ触ったのか覚えてない?』

『覚えてたら苦労はないさ。俺が一番知りたい』

『何か少しでも覚えてない?』

『この店で、っていうのは間違いないんだが』

『そうは言ってもねえ……』


 杏子が厨房の方に向かって目を反らした。……今だ。


『キッチンの方にはねえかな?』


 俺がそう言うと、杏子は怪訝な表情をした。一回、二回、とゆっくり瞬きをして、俺をじっと見つめた。マズイ……、焦ったか?

 

『ああ……、叔父さんが掃除中に見つけて保管しておいてくれたのかもね』


 杏子は手のひらにもう片方の拳をぶつけて「ひらめいた」という顔をした。


『……かもしれねえな』


 厨房に入る杏子の後ろをついて行き、のれんの下をくぐると、錆びたアルミ製の棚に所狭しと並ぶお徳用の調味料や酒瓶が眼前に広がった。視線を横にやると、光が剥げ落ちたシンクに、窮屈そうな調理スペース、天井から吊り下がっている物干しが見えた。干されたキッチンクロスがベッドメリーのようにクルクルと回っていた。


 六百万はどこだ? 

 俺は視線を巡らせ、それらしき段ボール箱を探す。


、こんなとこに他人のスマホなんて置いとくかな』

『やっさん?』

『あ、ごめん』


 杏子は恥ずかしそうに口元を押さえる。


『叔父さんの名前、康孝やすたかって言うんだけど、康孝おじさんって言いにくいから、小さい時から〝やっさん〟って呼んでたの。あんまり人前で呼ばないから、湊にもそうしてたんだけど。もういいよね?』

『好きにしろ』


 やっさん、か。ヤクザの隠語でそう言うこともある。奇遇にしても心臓に悪い。


『スマホなんて電子機器こんな水回りに置くなんて考えられないわね。そう思わない?』


 杏子は諦めたような口調で言った。 

 

『探してみる価値はあるだろ。お前がそう思うんなら他を当たれよ』

『ええ、そうさせてもらうわ……。機械音痴のやっさんの事だから、よく分かりもしない機械をこんなとこに置いたりしないと思うのよね……』

『……』


 俺は杏子の独り言を無視して捜索を再開する。

 一応は手乗りサイズのスマホを探している体だが、本当は六百万もの金が詰まった段ボール箱を探しているだけだ。そんな大金があればすぐに見つかる筈だが……。

 

 確か、杏子は六百万の在処が『酒屋の販促用のポスターが入った段ボール箱』にあると言った。そして、厨房に入ってすぐ叔父とその話をしたようだったから、あるとすればすぐ近くにあるはずなんだ。

 だが―――――、無い。さすがにこんな狭い厨房で大きな段ボール箱があれば、いの一番に気が付く。こうして手探りで探している段階で、ここにはもう無いんじゃないか? もしかして場所を移動させた?

 

 昨日の夜、杏子と帰った後、叔父はこの店でひとり閉店作業をしていた。

 彼女と叔父が話した後の現金の行方を俺は知らない。まさか、叔父が自宅に持ち帰ったなんてことも……。いや、それなら、既にそうしているはずだ。敢えて昨日杏子に話したということは、六百万は今日のために店で保管しておいたと考える方が自然だろう。


 しかし―――――、だとしたら、どこだ?



『ねえ、湊』


 杏子がのれんの隙間から首だけをぬっと出す。


『どうした、何だよ』


 俺は見つからない金の在処を思案しながら、つい語気に苛立ちを乗せてしまった。


『え? あ、その、やっさんに連絡してみようかと思って―――――』

『よせ』


 杏子は肩をビクッと震わせた。


『……すまん』

『いや、別にいいけど……、どうしたの?』

『叔父さんも大変な時期だろうから休ませてやった方がいいと思うんだ』

『ええ、まあ、確かに大変は大変だろうけど。でも時間的に今呼んでもそう大した差はないっていうか』


 そこで俺は腕時計をちらと見やった。時刻は十一時を回ろうかという所だった。


『叔父さん、何時に来るって?』

『分かんないけど、あの例の人達が来るから昼前には行くって行ってたけど』


 なんだ、くそ。時間もねえのかよ。


『他に叔父さんがスマホをしまいそうな場所は? 金庫とかねえのか?』

『ええ? 他に……? 確かレジの裏にお釣り用の現金を入れる小さい金庫があったと思う』

『そんなんじゃねえ、もっと大きいのだ』

『大きいの? そんなのウチでは扱ってないと思う。見たことないし』


 尤もそんな金庫があれば最初からその中に入れて大事に保管しているはずだ。

 杏子の言葉に疑いは向けるべきじゃない。焦って変なことを口走らないよう気を付けないとな。


『……ごめん、アタシ、ちょっとトイレ』

『おう』


 杏子が長い髪を靡かせながら、通路の角で姿を消した。


 落ち着け。六百万は必ずこの店のどこかにある。問題は……、見つけた後だ。六百万を見つけ、盗み出した後で俺はどうする? 計画では、杏子に気づかれないよう外に持ち出し、頃合いになったらスマホが見つかったと言って店に鍵を閉めてもらい、ひとまずその場を離れる。そして杏子と別れた後店に戻ってきて、ドアのステンドグラスを割り、鍵を開ける。警備会社が駆けつける前にその場を去り、外に置いておいた六百万を持ち帰る。

 これなら傍目には空き巣が押し入って六百万を盗んでいったように見える。事件扱いになれば、俺と杏子は警察に疑いの目を向けられるだろうが、確定的な証拠がない以上、言い逃れはできる。

 

 しかし、こうして捜索に手をこまねいている今、叔父がこの店に来る時間を考えれば、出戻りして空き巣を装う余裕はない。


 どうする……?



『わっ―――――』


 化粧室の扉の奥で短い悲鳴が聞こえた。


『もう……、ビックリした。こんなとこに置いてたの』


 杏子の独り言が扉越しに聞こえてくる。

 俺は淑女の扉の前から声を掛けた。


『どうした?』

『ごめん、変な声出しちゃった……。ドア開けてすぐ足元にあったから蹴っちゃって……』

『何の話だ』

よ。叔父さん、何でこんなとこに隠したんだろ?』


 杏子が内側から扉を開ける。彼女の足元にあったのは、〝酒の水田屋〟と書かれた膝下丈の段ボール箱だった。俺は想像より小さい箱のサイズにがっくしと肩を落とし、とりあえずそれを見つけられた事に胸を撫で下ろした。


『そりゃまあ、空き巣もこんな所にお金を置いてるなんて思わないだろうけど』


 確かにな。


『あ、もしかして、湊のスマホもここにあるのかな?』


 杏子は身を屈ませ、洗面台下の戸棚の中を確認する。


 彼女の背中を眺めて、俺はしばし考える。

 六百万は見つかった。ここから持ち去るのは簡単だが、杏子にはバレてしまう。少なくともこの場で彼女と六百万の在処を共有してはならなかった。警察に詰められた時、いい訳ができないからだ。俺は杏子に知られることなく、これを持ち出す必要があった。やはり空き巣を装う作戦は無理だ。


 どうする、どうする、どうする……。


 この場から六百万を持ち出して誰にも疑われない方法、そんな都合のいい方法が―――――。


 

『ねえ、湊? やっぱり、アンタのスマホ…………ってッ!!』


 俺は振り返る杏子の肩を弾くように強く押しのける。後ろにのけ反った彼女は慌ただしくその場に尻をついた。


『ちょっと……っ! 何すんのよ!』


 騒ぐ声を無視して俺は用具入れのロッカーから柄の長いモップを取り出す。片手で六百万の入った段ボール箱を拾い上げると、外から扉を閉め、扉と向かいの壁の間にモップを挟んだ。


『湊! 急に何? 何なの?! 出して!』


 ドンドン、と扉を叩く音。

 俺は黙って背を向け、手にした段ボールを店の外に置いた。



『これはケジメ……、これは父親の仕事だ……』



 再び店の中に入ると、カランコロンカラン……とドアベルが乾いた音を鳴らした。


 俺は厨房に入り、棚から一斗缶の食用油を下ろす。

 脇にぶら下がったオープナーを手に取り、枠に沿って角に切り口を開ける。

 それを腰から持ち上げ、床に撒いていく。少量を撒いた後、最後に床に放り投げた。凹んだ一斗缶からどくどくと油が流れてくる。


 その場を離れ、ポケットからライターを取り出す。


 杏子の叫ぶ声がする。ドンドン、ドンドン、と心臓を打つような音が激しさを増す。


 俺は無心でライターに火を灯し、それを厨房に向かって投げ込んだ。


 轟々とうねる火の手、耳をつんざく女の断末魔。

 俺は後ろを振り返ることなく、手にした六百万を腕の中に抱え、〝FIORE〟を去った。



 その後、〝清川湊〟は消息を絶つことになる―――――。



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