#67 Leading Role

 俺はその日から目標を持って毎日を生きるようになった。俳優になりたい―――――自分の中にたぎる熱い想いが隠されていたなんて知らなかった。腹の底から湧き起こる情熱。目標に向かってがむしゃらに走ることの苦労、そして、それを乗り越えた時の何にも代えがたい喜びを。俺はこの歳にしてようやく知ることができた。


 養成所に入ることは想像していたより簡単ではなかった。都内で最も競争率が高いとされる老舗の養成所、東明とうめい俳優養成所。演技の世界に飛び込み、その名を世に知らしめた名優たちがくぐってきた登竜門。定期的に開かれるオーディションには、明日のスターを目指す俳優の卵たちが一堂に会した。小さい頃から稽古に励み、幾つもの大舞台を経験してきた、そんな猛者たちが俺の前に立ちはだかった。

 八回目のオーディションにしてようやく養成所に入ることを許された。その時には、俺はもう立派な俳優戦士になっていた。どんな舞台に立っても自分の実力が発揮できた。あの養成所のオーディションに合格したという成功体験がいつでも俺の背中を押した。


 養成所が運営する劇場に頻繁に呼ばれるようになると、次第にバイトに顔を出せなくなった。立派に社会人をしているはずの悪友たちとは連絡を取らなくなり、社員の蘭子とも転勤を機に関係は解消された。結果的に、あの日、あの女が俺をミニシアターに誘ったことで今の自分がある。俺は奴さえその気ならこの先を添い遂げてやってもいいと考えていたが、奴にはその気がなかった。全ては巡り合わせ。運命を変える瞬間は慎重になるべきだ。今はその時じゃない。

 



『マジ!? お前、三城出身なの?』

『はい』


 俺は、大衆居酒屋の小さな角テーブルを挟んで、劇団の先輩と向かい合っていた。


『なんだよ。もっと早く言ってくれりゃ可愛がってあげたのによ!』


 酒で顔を赤らめた先輩が俺の肩を乱暴に叩く。


『痛っ、痛いスって、先輩』

『俺も三城から来たんだよ。もう十年も前になるけどな!』

『十年スか。長いスね』

『だろぉ? いやぁ、この十年色々あったよ……、東明とうめいに入れた時は嬉しかったな。俺もスター俳優の仲間入りだって本気で思ってた。三城の友達にも自慢しまくってたな』

『養成所のこと恨んでないスか?』


 先輩は充血した目で俺を睨んだ。虚ろ虚ろとした瞳が俺を見ていた。


『恨むことなんかねぇだろ。俺に良い夢見させてくれたのは、紛れもなく、東明の先生方と、劇団の先輩たち、そしてお前ら可愛い後輩たちだ。感謝こそすれ恨むなんて恩知らずなこと俺はしねえぞ。お前が俺のことどう見てるか知らねぇけどな、俺は悔いはない! もう演技の世界に未練はない!』

『そう……ッスか』


 二年の厳しい稽古に耐え、卒業と同時に、俺たちは選択を迫られる。映画やドラマの道に進むなら、映像制作会社である東明のタレント事務所に属し、あるいは同業の他事務所に属する。しかし、芸能界にはあらゆる思惑が渦巻き、すぐに陽の目を浴びるのはほんの一握りの人間だ。だから多くは、舞台の道を選ぶ。東明には演劇製作を主業とする子会社があった。俺と先輩は武者修行を兼ねて演劇の舞台に立つ、いわば同志だった。


『もう今年で八年だ。さすがにこれ以上は続けらんねえ。実家が豆腐屋をやっててな、もう親父が歳なんだよ。俺一人っ子だからさ、代替わりしたいってもう何年も前から言われてたんだよ……、いや、ぶっちゃけ嫌じゃないんだ。近所じゃ名の知れた豆腐屋だし、従業員も両手で数えるほどいる。今でも毎日ウチの豆腐を買い求めにやってくる人がいて、社内じゃ俺を跡取りとして扱ってくれる。待遇は悪くない。今より生活は潤うよ』

『いいッスね』

『だろ? あの俺が社長だぜ?』

『店どこっすか? 俺、買いに行きます』

『ああ、来てくれ来てくれ。ここだ、ここ』


 先輩はそう言って俺に紙切れをひとつよこした。そこには懐かしき三城の郵便番号と住所が汚い字で書き殴ってあった。


『ぜったい行きますよ。三城なんて電車で一時間くらいですし』

『そうだな。いつでも待ってる。ぜったい来いよ、約束だぞ』


 俺と先輩は拳を固く握り、再会を誓った。

 





 壇上で膝をつき天を仰ぐ男に、一本の光の筋が降り注ぐ。


『おお! レトリーヌよ! また、そなたに会えるとは! これがミハイル神の御加護か! そうだ、そうに違いない! 雨の日も、嵐の日も、この身が地から剥がされようとも、私はそなたの凱旋を心待ちにした! 私はまた一つ、この世に生きる意味を理解した! 聞いてくれ! レトリーヌ! そなたに―――――』

『―――――はい、ストップ!』


 俺は宙に掲げた腕を下ろして、監督の表情を確認した。とても苦々しい顔をしている。


『ミナト、今日、全然声通ってないぞ』

『すいません!』

『今のとこ、もう一回。そのままでいいから言ってみ』


 俺は監督の鋭い目つきに促されるまま、息を吸う。


『おお……、レトリーヌ……』

『お前なあ、真剣にやれ? 公演いつからだと思ってんだ?』

『もう一回やらせてください』

『いや、もういい。裏で、

『はい……!』


 俺は素早く舞台袖にはけると、髪をくしゃくしゃ掻き毟りながら、暗がりの中で地団太を踏んだ。監督の『聞こえてんぞー』という声はもう俺の耳に届いていなかった。


 あいうえ、えおあお。

 かきくけ、けこかこ。

 さしすせ、せそさそ。


 舞台裏の黒いカーテンに向かって俺は発声練習を始めた。劇場のカーテンは特殊な素材で出来た吸音カーテンになっており、どんな声でも、残響音が消えスッキリとした聞き心地になる。自分の声だけに集中して練習できるこの音環境は、今の俺にとっては有難かった。


 先輩がいなくなって半年が経とうとしている。

 劇団内では、彼が抜けた穴を埋めるための大幅な配置換えが行われ、次の舞台の主役に俺が抜擢された。次の舞台は『ミハイル』―――――時代は中世イギリス、平和に暮らしていたとある市民たちが突如戦禍に巻き込まれ、艱難辛苦かんなんしんくを乗り越えた先に本当の幸せとは何かを見つける……、そんな人間ドラマだ。

 今まで経験したことのない役回りに俺は混乱していた。先輩ならああしただろう、先輩ならこうしただろう。そればかりがチラつく。演技の神は先輩に微笑むことはなかったが、俺たちからすれば主役級を張っていた先輩は憧れの存在だった。その先輩の後釜となったのが俺だ。実際には使命を預かったわけじゃないが、顔立ちから身長までそっくりだった俺と先輩を重ね合わせて見ている劇団員は、一人や二人じゃないはずだ。

 目に見えないプレッシャーが日々、俺を圧殺しようとしていた。



『清川さん、こういう時こそパーッと飲みましょう』


 後輩の一人が俺を飲みに誘ってきた。、とは今朝また俺が監督にこってりと絞られたことを言っている。


『僕、最近イイ感じのバーを見つけたんですよ』

『バー?』

『はい。末広町にあるんですけど。バーテンダーがもう大人の魅力むんむんで』

『へえ』

『あれ、清川さん。前に大人っぽい女性が好きだって言ってませんでした?』

『誰も行かないなんて言ってねえだろ』

『清川さぁん、それじゃあ、もっとテンション上げていきましょうよ』


 後輩が肘で俺の脇腹を小突く。

 

『うっせ。このっ……、生意気言ってんじゃねえぞ』


 俺はすかさず後輩の首に腕を回し、首締めをする。後輩は『すいません、すいません』と俺の腕をバシバシと叩く。バカっぽい笑顔を浮かべながら、腕を離すよう懇願する後輩を見ているとスッと気持ちが落ち着いてきた。今日はもう酒を飲んで忘れてやろうと。そして、そのバーテンダーとやらにも会ってみたいと思っていた。

 



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