#68 Bartender

『ココっす』


 後輩に案内された店は繁華街から一足離れた寂しいシャッター街の中にあった。それでも、その店の原色豊かなネオンの看板だけは存在感を放っていて、濃淡のない水墨画の上に絵の具のたまりを作ったようだった。


『末広町、よく来るのか』


 俺は店構えを眺めながら後輩に訊ねた。


『ええ、よく来ます』

『何の用で』

『何の用って……、気になります?』

『いや、まあ、別に』


 改めて聞かれると確固たる意志があるわけじゃない。後輩がいつどこで遊んでいようと俺の知ったことじゃない。ただ一般的に、末広町と聞いて具体的な位置を思い浮かべる人間は少ない。そう思っただけだった。


『たぶん清川さんに言っても分かんないと思うんですよね。そういう世界のことは知らなさそうっていうか』

『どういう意味だ?』

『あ、いえ、変な意味じゃないですよ。ただ僕の趣味が少し変わっているというか、それだけの話です』

『なんだ、嫌に勿体ぶるな』

『いえいえ。勿体ぶってるつもりはないんですが、立話も何ですから中に入ってゆっくり話しましょうよ』


 あきとは言え、依然として残暑厳しい日が続いていた。『それもそうだな』と言って、俺はステンドグラスの扉に手を掛けた。


 いらっしゃい、と言ってまず俺たちを迎え入れてくれたのは頭を綺麗に丸めたスキンヘッドの大男だった。俺がたじろぎ、その場で足踏みをすると、後ろをついてきた後輩のつま先が踵にぶつかった。


『痛っ。ちょっと清川さん? 急に止まんないでくださいよ』

『悪い悪い。ちょっと想像してた大人の魅力と違ってな』

『何の話ですか?』


 後輩が俺の背中からひょこっと顔を出す。

 そして、喉の奥で押し殺すように笑った。


『違いますよ。あれは店主マスターです』

『なんだ、てっきりお前にそういう趣味があるのかと』

『そんなわけないじゃないですか。だったら、清川さんを誘ったのもそういう理由になっちゃうじゃないですか』

『いや、そうはならないだろ』

『そんなことないですよ。清川さん、美形だし。少なくとも劇団の女性スタッフの間では一番人気ですし』

『そうか。知らなかったな』

『ええ、ホントですか? 美術のアカネちゃんなんていっつも清川さんにベタベタしてるじゃないですか。さすがに何も気づかないってことはないですよね』

『まあ……、あれは、そうだな』

『ほらぁ、気づいてんじゃないっすかぁ』


 後輩は顔をくしゃりとさせてそう言い、そして俺たちに近寄ってくる影に気が付いて俺に目で合図を送る。振り返ると、そこには女性が立っていた。


『いらっしゃいませ。お客様、何名様ですか』


 桃色の頬に、柔白い肌、ぷっくりと膨らんだ涙袋。振り返りざま視界の残影に映った幼い顔立ちが刹那に消える。改めて見ると印象はむしろその真逆だった。瞼の奥に潜む茶褐色の瞳が妖艶な雰囲気を醸し出し、その落ち着いた佇まいは酒場のモダンな雰囲気に妙に馴染んでいた。


『二人です』

『お二人様ですか……』

『今、混んでますかね』


 見る限り席はどこも埋まっていて、店内は人数相当にかしましい。


『ええ、すみません。明日は皆さんお休みなものですから、珍しく賑やかなんですよ』

『それなら、またの機会にしましょうか。ねえ、清川さん?』


 後輩が不意に俺の顔を覗き込む。


『え? あ、ああ……』

『どうしたんですか? 何か気になることでも?』 

『いや、特に』

『あ……っ! もしかして清川さん……、キョウコさんに惚れちゃったんじゃないですか?』

『あ?』

『さすが清川さん! 僕が紹介したいって言ったバーテンってこの方なんですよ! ほら、すごくお綺麗でしょ!』


 後輩の浮ついた声が遠くに聞こえる。俺は、恥ずかしそうに顔を赤らめるその女をじっと見つめていた。


『お客さん、お世辞が上手いんだから』

『いや、ホント、これマジっすよ! 僕の仲間内でも、この店評判イイんですよ。美人過ぎるバーテンダーがいる酒場だって! できれば僕一人お忍びで来ても良かったんですけど、今日は先輩を元気づけようって決めてたんで連れてきちゃいました』

『へえ……、そうだったんですか』

『……って、本当は一人だと緊張しちゃうんで、先輩の力を借りようって魂胆なんですけど、アハハ』


 女も一緒に、口元に手をやって笑う。


『でも……、残念ですね。清川さんが元気取り戻してくれると思ったんですけど』

『何か辛い事でもあったんですか?』


 女の顔が俺に向く。


『特に』


 俺は反射的に目を反らし、唇だけを動かす返事をした。

 女が一瞬困った顔を見せると、後輩が溌剌として俺の背中を叩いた。


『なに言ってんすか! 稽古が上手くいかなくて落ち込んでたじゃないっすか! 今日もあんなに監督に怒られて、いつもの清川節が発揮できてなかったから辛そうにしてたじゃないですか! すいません、キョウコさん、先輩恥ずかしがっちゃって……!』

『おまえ、余計なことを……っ!』

『ちょっ、チョット待って! 首絞めるのだけはやめてください!』

『いい度胸してんじゃねぇか』


 俺は後輩ににじり寄り、奴の首根っこを掴んでやる。ふざけた調子で泣き笑う顔が妙に可笑しかった。

 女は怪訝な様子で俺の顔を伺い、そして、おずおずと口を開いた。


『あの、稽古って……、何をされてるんですか?』


 女が訊ねると同時に、店主の声が彼女を呼ぶ。

 見ると、カウンター席に座っていたサラリーマン二人が足元をフラつかせながら席を立つところだった。


『―――――あ、お帰りですか! ミネギシさん、大丈夫? 帰れそう? え? あ、はいはい。気持ちだけ受け取っておくわね。はい、それじゃあ。お気を付けて……!』


 女は慣れた様子でサラリーマンの口説き文句をいなし、千鳥足で店を出て行く男たちの後ろ姿を見送った。ステンドグラス越しに彼女が手を振っている様子が分かる。そして最後に、律義にお辞儀をしたようだった。

 扉が開いて、女が戻ってくる。夜更けにも関わらず疲れを感じさせないその艶のある表情に俺は感心した。


『お客さん、いま片付けますので少々お待ちくださいね』


 俺は女が飲みかけのグラスを片付け、カウンターを布巾で拭いている間、彼女の腰つきをしばらく眺めていた。それに気が付いた後輩が茶化して言った。


『どうです? 清川さん、ああいう女性ホントに好みでしょ』

『そういうお前もじゃないのか?』

『僕ですか? 勿論、綺麗な女性は好きですけどね。清川さんにはちゃんと言ってなかったと思うんですけど、僕、彼女いるんですよ。それも、とびきり美人の彼女が』


 そう言って、後輩は首からぶら下げたチェーンを外し、その先に付いていたリングを指にはめた。右手の薬指に、シンプルな銀色指輪が光る。


『ペアリングです。そろそろ婚約しようと思ってるので、もうすぐ付ける機会も無くなりますが』

『……そうか、幸せそうだな』

『幸せです』


 しばらくして、女がカウンターの向こうからやって来て、アジアンテイストの紙コースターを俺たちの前に二つ置いた。


『仲いいんですね、お二人』

『ええ、知り合って間もないんですけど、その割には上手くやってると思います。ねえ、清川さん』

『……まあ、そうかもな』


 女は微笑むと、メニューを差し出した。


『何、飲まれます?』

『僕、ギムレット。清川さんは?』

『俺も軽くでいい。シャンディガフは?』

『ご用意します。少々お待ちください』


 女がのれんを掻き分け、カウンター奥の調理場に消えていく。

 そして、後輩がポツリと呟いた。


『そう言えば、話が途中でしたね』

『話?』

 

 確か女から何の稽古をしているか聞かれていたな。


『僕が末広町に遊びに来てる理由です』

『なんだ、そっちかよ』

『そっち?』

『いや、いい。で? 末広町に来てる理由が何だって?』

『清川さんは末広町って元々どういう街だったか知ってます?』

『知らん』


 後輩は落ち着いた口調で話し始めた。


『古く江戸時代に遡れば、末広町は武器商で栄えた街だったそうです。長篠の戦いで有名な織田信長鉄砲隊の活躍も、この街なくして後世に語り継がれることはなかったとも言われているんです』

『悪いが難しい話はよく分からんぞ』

『難しくないですよ。ただの昔話です』

『昔話って……、まあいい、続けろ』

須衛廣すえひろは日本で鋳物技術が最初に伝えられた場所で、銅鐸や銅鏡、農機具とか仏像なんかがここで造られていたそうです。長い間、そうした職人たちによって街の隆盛が保たれていたみたいですね。―――――で、種子島から鉄砲技術が伝わると、末広は鉄砲の街に生まれ変わりました。鋳型さえあれば、仏像を作るのとそう大した差はなかったみたいですからね。職人たちを囲うように街にたくさんの商人が現れて、街中では毎日のように発砲音が響いていたって話です。職人たちは陽が昇ると作業を始めたので、末広の人間は〝寝坊などしたためしがない〟と笑い種にしていたほどです……って聞いてます、清川さん』


 俺はわざとらしく欠伸をする。


『お前よくそんな難しい話をペラペラと喋れるな』

『まあ、仕方ないですね。僕、筋金入りのオタクですし』

『オタク? 歴史オタクか?』

『いいえ、銃オタです』

『ジュウオタ?』

『銃ですよ、拳銃。拳銃のことです』

『あ、ああ……、だからお前さっきあんなことを』


 後輩は肩をすくめる。


『気づいてなかったんですか? 末広町は銃の街なんです。だからあちこちにガンショップがあって、僕たちみたいな銃オタとかミリオタとなんかがこぞってやってくるんです。それに、当時の職人街も残されていますからね。実は観光客もよく来るんですよ』

『ははあ……、物好きな奴らもいるもんだな』

『ただ好きなだけじゃないです。末広町はそういう歴史のバックボーンもあるから、僕らの心を掴んで離さないんですよ』

『へえ』

『だから清川さんには分からない世界だって、僕、言っておいたじゃないですか』

『……言ってたな』


 そう言ってカウンターに肘をつき手を組むと、ふと目の前に黄金色のグラスが差し出された。


『お待たせしました。ギムレットと……、シャンディガフです』


 女はゆっくりとコースターの上に置き、向かっておしとやかに会釈をした。


『桜見杏子と言います。よろしければ、ご一緒に』


 杏子は俺と同じ黄金色のカクテルを手にし、そっと微笑んだ。


 

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