#66 Precious
俺はまず街を出た。
一秒でもこの街にいたくなかった。身が朽ち果てる臭気に一秒でも身を置いていたくなかった。俺は周りに何も告げず、黙って家を出た。俺の背中を掴む者はいなかった。厄介払いが済んで親はホッとしたに違いない。
上京して二年。俺の生活はガラリと変わった。温室でぬくぬくと生活していた俺を待ち受けていたのは、『欠乏』という名の地獄だった。一つは金の欠乏。家賃、食費、電気・水道・ガス代、あらゆるものの支払期日がいつも目の前に迫っていた。二つは生活力の欠乏。掃除も洗濯もままならない俺の賃借り
欠乏だらけの二年間の間に、得たモノもあった。
それは、交友関係だった。とかくこの街には人間がたくさんいて、俺と同じような感性を持った人間が小石を投げれば当たるほどたくさんいた。居酒屋のバイトを始めたのをきっかけに、交友関係が広がり、同い年のダチが増えた。そいつらは大学生だったり、専門学校に通うフリーターだったりした。俺は大学生というだけで成人式に出席した同級生たちの顔を思い浮かべた。どいつもこいつも薄ら笑いを浮かべて汚れた俺を小馬鹿にした。だが、そいつらは違った。大学生とは名ばかりで
あらゆる賭け事が奴らの趣味だった。競馬、パチンコ、競艇、オートレース、賭け麻雀、三城では知ることのできなかったギャンブルの全てがこの街にはあった。俺たちは朝はパチンコ店に列を作り、昼は場外馬券を求めて、夜は雀荘でヤニ臭い大人たちからお金をせびり取った。誰かが大玉を当てれば、祝勝会と称して毎晩酒を飲みに出掛けた。終電を逃し―――そもそも終電など気にしても意味はないが―――路傍でまた安酒を煽ったこともしばしばあった。
そんな生活を続けながら、俺の元にまた巡り合わせがやってきた。
居酒屋で働いていた女性社員があろうことかバイトの身である俺に好色めいた言葉を掛けてくるようになった。いつの時間なら会える、どこへでも連れていく、何を食べたい、好物はないか、そんなことを日がな俺に訊ねてきた。俺は女のそういう怪電波を敏感に察知する能力があった。この女は俺に気があるとすぐに分かった。
女は名を〝蘭子〟と言った。名字は覚えてないが、平凡なものだったと記憶している。女は今年三十を越える、年増の女だった。来歴を遡れば九州の小さな田舎村から出てきたお上りさんで、アマチュアバンドを組み、プロを目指して活動していたが挫折。居酒屋を何店も経営する外食チェーンストアに就職し、武者修行のため店舗での店長経験を経て、現在はエリアマネージャーを務めていた。
女は社内で評判の有望株、同期の間で噂される出世頭だと当時の店長が嫌味のようにボヤいていた。俺は権力というものに興味はない。ましてや、近寄ってくる女の後ろ影に隠れて威張るなんて以ての外だった。だから女が俺に言い寄ってきた時も俺は頑なに無視を決め込んでいた。女は事あるごとに俺の顔を見て『君には何か秘めるものがある』と甘言を寄せた。俺を引き留めたい一心に、女はその度心をくすぐった。
バイト終わり、ある夜のこと。女がいつものように俺の側に寄ってきて、何かを言いやった。俺はそれをいつものように聞き流そうと思ったが、いつもとその言葉の雰囲気が違っていた。
―――――映画を見に行こう。
女はゆっくりと俺の手を取ると夜街の明るみに誘った。
映画を見るのは久しぶりだった。三城に住んでいた頃、確か中学の頃だったと思うが、地元の夏祭りに行こうとクラスの連中を集めたことがある。出店が夜にならないと開かないと言うので俺たちはショッピングモール内の映画館に行き、そこで当時流行っていた俳優のコメディ映画を見た。時間にして二時間。途中、ストーリーが間延びして退屈だったが、なんとか最後まで見ることが出来た。隣連中は何人か寝ていた。フカフカのシートに、眠気を誘ういい塩梅の暗がり、無理はなかった。
俺にとって映画とはそういう類のものだ。退屈、という言葉が似合ってしまう。だから女に誘われた時は是が非でも断ってやろうと思った。だが、女はそんな俺の気持ちを察してか、こう言葉を付け加えた。
―――――きっと君の思うより、ずっと面白いよ。
そう言われて俺も踵を返すわけにはいかなかった。俺の知らない間に映画という娯楽がとんでもなく面白いモノに変わっている可能性は皆無ではなかったし、何より、女の言葉に必ず俺を感動させてみせるという気迫があった。
手を引かれ、繁華街の中を練り歩いていくと、目当ての場所はそこにあった。雑居ビルの二階部分をスコンと空けたようなスペース。そこに女の言う映画館―――――〝ミニシアター〟があった。無人駅の車掌室のような小さな窓口でチケットを買うと俺たちはくたびれたシートに坐った。今まで見た中で最も小さいホワイトスクリーンが三脚のようなものに支えられ、壇上に鎮座していた。昔見た時はずっと大きくて、前の方の座席なら首が痛くなるくらい見上げたものだが、そのホワイトスクリーンはとても小ぢんまりとしていた。
映画が始まると、存外、小ささというものは気にならなくなった。画面の小ささはともかく室内自体も相当に小さく、暗闇の中では当然スクリーンが際立って見えるので、思っていたよりも苦なく観ることが出来た。
映画のストーリーは、母を亡くした父と子のロードムービーだった。全国各地を旅しながら、地元の人々の温かさに触れ、人と人との間に生まれる愛の尊さを、旅を通して子に伝える父の葛藤と苦悩が描かれていた。俺はちっとも感動なんかしなかった。俺には子がいる。父親としてこの映画に思い浸るシーンはいくつもあったように思う。ただ一つも響かなかった。いちいち父が思いに詰まって泣くシーンが耐えられなかった。その度、背もたれに背中をゆっくり預けて溜息をついた。
―――――どうだった?
女はエンドロールが流れる間に俺にそう訊ねた。
俺は短く「退屈だった」と正直に答えてやった。
―――――よね。
女の眼は優しく、微笑みかけていた。
その返答の意味を知ったのは、エンドロールが明けてからのことだった。
スクリーンが鎮座する壇上にフッと淡い光が差すと、ミニシアターの館主らしき人物が俺たち観客に向かってボソボソと説明を始めた。
―――――本日は三上監督作『宝』をご覧いただき、誠にありがとうございます。
館主は続いて舞台袖に向かって手招きをした。
―――――本作の監督兼主演を務めました三上修吾さんです。三上さん、ご登壇ください。
すると、袖から男性が出てくる。驚いた。それは映画の中で何度も子を抱きしめていた父親役の演者だった。男性は厳粛な面持ちで館主からマイクを受け取ると、大きく息を吸った。
―――――皆さん、この度は私の拙作のために足を運んでいただきありがとうございました。
深く、礼をした。
―――――先だって周知されておりますように、私はこの作品を以て映画界を引退します。
空気が重くなる。背後で誰かが鼻をすする音が聞こえた。
―――――構想十年、私の生涯を掛けたこの『宝』という作品は多くの方に支えられて今日最後の上映を迎えることが出来ました。関係者の皆様、そしてこの作品を見に来て下さった皆様に、この場をお借りしてお礼を申し上げたいと思います。
込み上げる涙音、必死に声を押し殺して、また深く礼をした。
―――――ありがとうっ……、ござい……、ましたっ……。
パチパチと細かい拍手が間を埋める。男は拍手が鳴りやむ前に顔を上げると、その涙でぐしゃぐしゃになった顔を露にした。
―――――私は今日、役者業を、監督業を辞めます……! 映画界に未練はありません。それでも忘れないでください。今日、銀幕に映っていた父親は紛れもない私自身で、わずか六歳ばかりの子供は亡くなった私の子だということを……! 『宝』はこの映画の世界に生き続ける! それだけで、もう……、私は……っ!
館主が男性の背中をさする。そしてそのまま二人は袖に消えていった。
まるでここまでが一つのストーリーだったように、室内が明転し、俺たちは現実に引き戻される。
女は誰もいなくなった壇上を見つめたまま、口を開いた。
―――――どうだった?
俺は、今度は、何も言わなかった。
―――――君なら、こんなラストで満足できる?
分かりきった回答をしてやるほど、つまらん男じゃない。
俺は右手の親指を強く握りしめた。
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