#50 Vanishing Lady

 清川はそれきり口を閉ざして多くを語ろうとはしなかった。ようやくメッキが剥がれてきたというのに、彼は沈黙を以てまた静かに殻に閉じこもろうとしていた。強引にその殻を破ろうという気概はないが、短い時間ながら感情をぶつけた仲なのだ。何が気に障ったのか分からないが、旅行が終わるまでこのままというのはあまりに寂しい。認めたくないが私はすでに彼の不思議な魅力に惹かれていた。どうにか彼が食いつきそうな話題を考え、ひとり悶々としていた、その時―――――。


「アンタ達ちょっといいかい」


 大きな三角帽子を被った魔女が幕を割って姿を現す。

 不機嫌な顔をしているのが遠巻きに見てもよく分かる。


「全く人間の世界ってのは面倒なことが多いもんだね。どうしてこう……、物事を簡単に考えないのかね。アタシには理解できないよ」


 バスが先ほどから停車と減速発進を繰り返していたことには気づいている。まさかこの展開は―――――。


「またジュウタイだ―――――飛んでくよ」


 車内に感嘆と不安の声が上がる。ある者は待ってましたと言うように魔女が告げるより先に杖を掲げ、ある者は眉を八の字に曲げてしぶしぶ杖を手に取る。

 私はさっきの衝撃が来た時に備えて身の回りを確認する。清川は肘掛に肘を乗せて頬に拳を押しやっている。その手にはすでに杖が握られていた。私は重心を低く、身構えながら、ゆっくりと杖の持ち手を握る。


「杖を掲げよ!!」


 合図に私たちは杖を頭上に掲げる。ぽうっと杖先に光が灯る。


「WAVE!!」


 恐ろしいまでに動きの揃った腕々がわっと波打つ。

 途端に座席が浮いたような感覚に襲われ、バスが左右に大きく揺れる。衝撃に合わせて車内灯が火花を散らせて消える。さっきより幾分か揺れが大きいように感じる。見るとさすがの清川もお得意の涼し気な顔が消え、必死の形相で手すりにしがみついている。

 私は照明が急に消えたことで一瞬悲鳴を上げそうになるが、隣に清川が座っていることを思い出し、小さなプライドからぐっとそれを飲み込んだ。

 

 車体はやがて傾き、前に向かって進み出す。落ち着きを取り戻した車内に安堵の溜息が零れる。

 窓の外からブーイングのようなクラクションが聞こえる。このバスに向かって浴びせられている『普通車』たちの驚きの声が聞こえているのだ。この様子だと明日の朝刊はこの飛行するバスが1面を飾るんだろう。




「あのー……、すいませーん……」


 か細い声と共に、細白い手が上がる。


「なんだい?」


 紺色のバケットハットに白いレースのショールを肩に掛けた三十代くらいの女性。先ほど車内を出入りする時に見かけた彼女が、弱弱しい声で魔女に呼び掛けている。

 

「はい……、申し訳ないのですが、どこか近くのコンビニに寄っていただけないでしょうか?」

「コンビニ?」

「はい。お手洗いに連れて行って欲しいのです」

「はあ? ワガママ言うんじゃないよ。さっき行ったばかりだろう? 次の場所まで我慢しな」

「いえ、私ではなく、この子が……」


 女性は窓側の席に座っているらしい子供に視線をやる。私の位置からは座席の影に隠れていて見えないが、子供は尿意を我慢しているのだろうか、つま先で座席の脚を小突く音が忙しなく聞こえてくる。

 威勢のよかった魔女も切迫した母子の状況を飲み込み、顎に手をやって考え込む素振りを見せる。


 魔女は、どうするつもりだろう。

 参加客の途中下車はプランにないはずだ。白居さんも言っていた通り、目的地が推測されてしまうため指定の休憩場以外ではバスを降りない方がいい。しかしこの状況ではそんな悠長なことも言っていられない。通常の旅行であれば(たとえミステリーツアーであったとしても)他の参加者に断りを入れ、近くのトイレに急いでバスを停めるだろう。しかし、これはマジカル・ジャーニーだ。


 何より今、私たちは空を飛んでいるのだ。

 正確には、空を飛んでいるかもしれないし、飛んでいないかもしれない状況だ。言われるがまま母子を降ろせば、その時点でこの旅行は終わりだ。バスは飛んでいなかった、という事実が重くのしかかる。魔女が頑張って作り上げたこの世界観は音もなく崩れ去り、参加者は残りの時間を白けたムードで過ごすほかなくなるのだ。


 さて、どうする……?


「はあ……、これだから人間は嫌いなんだよ。特にガキンチョはね。『我慢』ってものを知らないんだ。いいかい、坊主。いまこのバスは地面から二十メートル上空を飛んでんだ、飛び降りろったって無理な話さね。大人でもブルっちまう高さだ。でもね『我慢』ってもんを知るにはちょうどいい高さかもしんないね」


 魔女はオッドアイの瞳を妖しくきらめかせ、にたりと笑った。

 

「ちょっと! 何てことを言うんですか!」


 バケットハットの母親が子を庇い、魔女を睨みつける。


「じゃあアンタ、後ろの他の客に向かって同じことが言えんのかい?」

「?」

「坊主ひとりの為にこのバスを一度、下に降ろすことはできる。でも再び浮上する時、このバスは激しく揺れる。照明だって消える。エンジンを点けんのもままならないこのオンボロバスが次の飛行に耐えられるか……。もっとも、その恐怖にアンタら自身が耐えられるのかねえ」

「そんな……」


 確かに魔女の言うことも尤もだ。二度目の飛行は一度目の飛行と違って明らかな違和を感じさせた。ぎしぎしと音を立てる窓枠、空回りするタイヤの音、火花を散らせて消える車内灯。空中で大破するこのバスの未来が脳裏をよぎったのは事実だ。


「アンタ自身で、ソイツらに聞いてみるかい?」

 

 女性がひどく当惑している様子が、隙間に見える肩口からでも痛いほどに伝わってきた。私たちはどうしたらよいのかと困惑した顔を見せ、やるせなさに声が出ない。いちど降りてもいいですよ、と声を掛けるつもりはある。ただそれは彼女が後方こちらに振り向いて懇願されたら、だ。情けないが敢えて口を挟む勇気は私にはなかった。


「いちど降りましょう」


 沈黙を裂く声。

 自分の考えが見透かされたような言葉に私はハッとなる。


「お子さんが可愛そうじゃないですか。すぐにバスを降ろしましょう」


 声を聞いてその主はすぐに分かった。

 声量はそれほど大きくないが車内に確かに透き通る綺麗な声―――――椿さんの声だ。


「また飛べばいいんです。そうですよね、チェリーケさん」

「ほお……、言うじゃないか。言っとくけど、次、無事に飛行できる保証はないよ。アタシは自由に空を飛べるが、まだロクに魔法を扱えないアンタたちは確実に落下死するよ。その覚悟があって言ってんのかい?」

「覚悟を決める必要はありません。なぜなら私たちは何があっても死なないからです。当然このバスが空中分解することもありません」

「嫌に自信があるねえ。魔力も持ってない人間ごときが偉そうに言うもんじゃないよ。、アタシの一族に伝わる有難い訓戒だ。アンタにもそれを伝授してあげるよ」

「ありがとうございます。これで私も立派な魔法使いになれますね」

「……アンタ、どこまで肝が据わってんだい。……名前は?」


 ふふ、と上品な笑い声が聞こえて、その名をまた耳にする。


「椿です」

「ツバキ、ねえ……」


 アッハ、と対照的に下卑た笑い声を上げる魔女。


「ツバキ……、アンタに免じてこのガキを外に放り出すのはやめるよ。代わりに面白いものを見せてあげよう―――――、坊主、チャックを降ろす準備はできたかい?」


 口角を吊り上げて魔女は言う。

 大きな杖を頭上に掲げるとひと際大きなオレンジ色の光が灯る。


「WAVE!!」


 声とともに母子に向かって振り下ろした。

 

 母親の頭が背もたれの影に消える。

 同時に悲鳴が上がる。彼女の帽子しか見えなかった私は立ち上がり身を乗り出して、周囲が驚きを持って見つめる視線の先を確認する。少し背の高くなった位置から、母子が座っていた座席を確認する。


「嘘………」


 そこには、持ち主をなくしたバケットハットがあるだけだった。





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