#40 Heart

「……文乃、食べる?」


 バスが動き出して間もなく、千紗はからお菓子を取り出した。

 つんと酢の匂いが鼻をつく。三杯酢に漬けた、いかと魚肉の練り物。イカの頭を被るお馴染みのキャラクターが描かれた懐かしの駄菓子。千紗は封を開けて私の前にそれを突きだした。狭い車内でその匂いはじゅうぶん生物兵器になり得る。私は中から刺激臭が漏れないようそれをゆっくりとつまみ、素早く口に運ぶ。


「ありがとう」


 咽頭を滑り落ちていく練り物を喉の奥で感じながら、私は千紗に礼を言った。


「たまに食べたくなるんだよネ、『酢っちゃん』」

「千紗ってそういうの昔から好きだね」

「そういうのって?」

「酢の物とか、漬物とか」

「ええ……? そうカナ? 意識したことないケド」


 千紗は見上げて小首を傾げた。


「昔よく食べてたじゃん。ウチの浅漬け」

「ええ? なにその話」

「ウソ、忘れたの? ウチの家でかくれんぼした時にさ、私がオニで千紗が隠れてて。なんかキッチンの方からポリポリ聞こえるなあと思ったら、千紗……、冷蔵庫の浅漬け漁って食べてるの。もう私可笑しくって―――」

「もうっ!そんな恥ずかしい話、今しないでヨ!」

「アレって小学校の時だったかな。あの時からかくれんぼする時は必ずキッチンに漬物がないか調べてた……っ」

「ねえ、もうヤメて……っ!恥ずかしすぎて死にそうだヨ」


 千紗が私に肩を寄せる。私は周囲を気にして必死に笑いをこらえる。


「代わりに文乃の恥ずかしい話してあげよっか?」


 私は眼をカッと開いて彼女に振り向く。


「やめて」

「最初にイジワルしてきたのは文乃の方でしょ?」

「分かった。何か一つ願いを聞いてあげる」

「ええ? ホントに?」

「ホントに」

「分かった、悪くない条件だネ。潔くて文乃らしい。それじゃあネ……、文乃の恥ずかしい話がしたい」

「千ぃ紗ぁ……!!」


 目を細めて彼女を睨む。


「小二の時にさ、紀平くんのお別れ会でやッ!!………んむむむむむ!!」


 彼女の口をふさぐ。千紗は私の手を引きはがしてなおも語り続けた。

 

 『紀平きひらくん』というのは小学二年生の時、私たちのクラスメートだった男の子だ。とても大人しい子で、いつもクラスの隅で本を読んでいた。友達を作るのが苦手なのか、見たことのない一年生と一緒に下校しているのを見かける以外は、彼が誰かと仲良く話しているのを見たことがなかった。

 その紀平くんが夏休みに入る前に、転校することが決まった。行き先は長野県の奥地。母から聞いた話によると、紀平くんのお父さんは国交省の出先機関で働いており、山間のダムで大掛かりな建設が始まるというので一家で移住することに決めたらしい。また井戸端会議で仕入れたという下世話な噂によれば、紀平くんのお母さんは以前からメンタルクリニックに通う姿を目撃されており、「うつ病」を患っているのではないかという噂が立っていた。長野に移住するのはその療養のためだ、と。うつ病は今では「こころの風邪」と呼ばれるほどヒトにとって身近な病気と認識されている。しかし、当時はまだそういった理解が進んでいなかった。みなが腫れものを触るように彼女と接していたに違いない。そういえば紀平ママ、最近すごく目がくぼんで、頬がこけたもの……、全く同情しているように聞こえない母の言葉を私は無感情に黙って聞いていた。


『それ、なに読んでるの?』


 休み時間。賑やかな教室の隅で、私は紀平くんに声を掛けていた。

 担任のヨーコ先生から紀平くんが来月転校すると聞いてちょうど一週間。当時クラス委員長をしていた私は、彼の送別会の出し物を何にしようか悩んでいた。どうせなら紀平くんの喜ぶものがいい。思い切って彼に接触しようと思いついたのは、昨夜、布団の中での出来事。


『え、うん……』


 紀平くんは不審げに私を見て、読んでいた本を脇に隠した。


『いつも読んでる。なに読んでるの』

『なんでも』

『なんでもじゃ分かんない。文乃に教えて』

『たぶん分かんないと思う』


 彼より頭一つ図体の大きかった私は、覆いかぶさって彼の腕から無理矢理それを奪い取った。


―――――”からだとこころのひみつ(児童社刊)”


『なにこれ? 面白い?』


 それは擦れて禿げたハードカバーの単行本だった。栞紐しおりひもが馬のしっぽみたいにほつれて、とても年季の入った本に見えた。


『面白い、とかじゃない』

『私、もっと面白い本知ってるよ。チサが教えてくれたの。あのね、あどれーほぷきんっていうね……』

『そんなの、読まない』


 私はムッとして、彼の胸にその本を押し付けた。彼はそれを素早く引き取り、ランドセルの中に仕舞い込んだ。


『ボクはお母さんのことが知りたいんだ』


 この時、私が男の子でなくて本当に良かったと思う。気づけばクラスの男子は少しずつ自立心が芽生えていて、母親と距離を置きたがる年頃になっていた。上級生の間で『マザコン』という虐め文句が流行っていたことも彼らの純粋な幼心に煽りをかけていた。今の紀平くんの言葉は、イジメを誘発させる可能性がある。だから私がクラスの男子でなくて本当によかったと思う。

 

 私は彼の言葉を純粋に受け止める。

 

『お母さんのことが知りたい?』

『ボクのお母さんいつも苦しそうなんだ。どうしたの?って聞いても、なんにも答えない。よく見ても、キズがあるわけじゃないし、チも出てない。そしたらこないだ家の近所で誰かのお母さんが話してたんだ、”それ、ココロの病気だ”って。ボク、ココロが何か知らないから調べようと思って図書室に行ったらコレがあった。でも、やっぱりまだ分かんない。ねえ、委員長いいんちょはココロってなんだと思う?』


 突然尋ねられ、私の思考は停止した。『心』はこの間、漢字ドリルで予習したばかりだ。しかし、紀平くんの質問がそういう意図でないことくらい幼い私にも分かっていた。彼は母の身を案じているのだ。見えない心の病に心身を喰い潰される母を見て苦しんでいるのだ。『心』の定義など分からない。大人になっても理解できるビジョンが全くない。この時の私には到底わかり得ぬ答え。そして当時私が下した決断も、大人になった私には到底分かり得ぬ答えだった。


『あなたのココロ、丸見えデスっ!!』


 恥ずかしげもなく足を蟹股に開いて、人差し指と親指で作った両手の輪っかで眼鏡を作る。輪の中で目をむんぐりとひん剥いて、元気に叫ぶのだ。


『あなたのココロ、丸見えデスっ!!』


 私の奇行に紀平くんは呆然としていた。


『え……、なんて?』

『え? 知らない? 昨日の "仰天マジックポン!!" 見てない?』

『あの水曜の七時にやってる……?』

『そうそう! ホントにスゴいんだよ! 昨日出てきた "チョーノーリョクシャ"がね、目の前の人が考えてることを当てちゃって、最後に言うの、こうやって……、あなたのココロ、丸見えデスっ!!』


 私の全力の『丸見えポーズ』に、紀平くんはとうとう噴き出す。初めて見た彼の笑顔は、可愛かった。


『ほら、やってみて』

『いや、ボクは……』

『もしかしたらお母さんが考えてること分かっちゃうかもよ』

『え……』


 彼の表情が一変した。何かを決意し、ぎゅっと唇を噛む。


『やってみるよ』

『よし、そう来なくちゃ。あっちの体育館の方で練習してみよっ!!』


 私は彼の手を取り、体育館裏で彼に『丸見えポーズ』を指南した。画面の向こうで、お茶の間に笑いを届けるため全力でそのポーズをとる、あのテレビタレントを思い出しながら、私は彼の前で輪っかをつくって蟹股になった。

 

 明日から夏休みを迎えるこの日、紀平くんの最後の登校日ということで、クラスのみんなでお別れ会をすることになった。フルーツバスケットやハンカチ落とし、伝言ゲーム、インドアな紀平くんが希望したレクリエーションを一通りこなし、担任のヨーコ先生が「他のクラスに内緒ね」と買ってきたお菓子とジュースでお腹を満たし、最後はクラス代表である私から挨拶となった。この時、何を話したかよく覚えていない。先生に頼まれたものの心配になって母に助けを求めると、ほとんど中身の変わった内容になっていたので、ここに私の意志はなく記憶にも残っていない。

 

 そして本当に最後の最後。紀平くんが私たちにお別れの挨拶をする番になった。ヨーコ先生が紀平くんを壇上に上げ、彼は一枚の紙を前に広げると、小さな口ですうっと息を吸う。


 ―――パチンっ!


 破裂音。手を叩いたのはヨーコ先生だった。


『その前に! 紀平くん! 実は今日お母さんが来てくれてるんですよ! お母さん、どうぞ!』


 そう言うと一人の女性が教室のドアを開けてやってくる。


 ―――そういえば紀平ママ、最近すごく目がくぼんで、頬がこけたもの……。


 突如、母の声が脳内をよぎる。

 目の前の女性、紀平くんのお母さんと思しき女性は確かに元気がなかった。子供にも分かる。圧倒的な負のオーラ。目のくまが濃く、唇は紫色だ。力みなぎる子供たちの空間には不釣り合いが過ぎていた。


『お母さんもお隣にどうぞ』


 ヨーコ先生は紀平くんのお母さんを壇上に上がるよう促す。しかし、紀平くんのお母さんは精一杯の苦笑いをして「私はここで……」と教室の隅に小さくまとまる。

 実は紀平くんも、そして私も、彼のお母さんがこの場にやってくることを知っていた。今日の夜にも長野に向かうということで、彼のお母さんが彼を迎えに来る手はずになっていたのだ。私も彼から聞かされて知っていたので、ヨーコ先生がサプライズという体をとろうとしていたのは少し滑稽に映った。息子さんの晴れ舞台をお母様に見せてあげます、と言わんばかりおあつらえ向きに用意したイベント。ヨーコ先生のことは嫌いじゃないが、これでは紀平くんも彼のお母さんも少し可哀そうだ。


『ぼ、ぼくは、このクラスのみんなに会えて、う、うれしかったです……』


 緊張しているのが痛いほど分かった。それでも紀平くんは用意していた台詞を言い終え、胸を撫で下ろした。


『紀平くん、ありがとう。頑張って言えたね。みんなも紀平くんのことを忘れないでね。お母様もありがとうございました。紀平くん、今日のためにすっごく練習してて、こんなに堂々と人前で話せるようになったんです。お家の方でも褒めてあげてください』


 紀平くんの震える背中をさするヨーコ先生。彼女のに彼は戸惑いを覚えつつもその優しさにホッとしているようだった。


『ではお母様、今日はこれでお別れということで―――。みんな、"さようなら"は?』


 紀平くんの背中を押し、母親に差し出す。ヨーコ先生は、サッカー選手がファンにチャントを煽るように、私たちに笑顔を向けた。するとクラスメートたちが次々に『さようなら』『さようなら』『さようなら』と、いつも行う儀礼的な帰りの挨拶を彼の背中にぶつけた。悪意はない。ただ、それは非情だ。


 紀平くんが母親の前でピタリと止まって俯く。


『紀平くん? どうしたの?』


 ヨーコ先生の問い掛けを無視して、紀平くんは母の顔を見上げた。母は瞳にわずかに涙を滲ませるも、しかし、その顔は笑っていなかった。夜な夜な涙する不気味な日本人形のようだった。彼女は感情を失ってしまっているのだ。こういう時、どういう顔をすればいいのか彼女自身分からずにいたのだ。


 そんな様子を感じ取った紀平くんは、唇を噛んで拳を握り、口を開いた。


『………さようなら』


 紀平くんの死んだ目を見て、私の心で何かが爆ぜた。



『あなたのココロ、丸見えデスっ!!』



 私は渾身の『丸見えポーズ』をした。最初は『さようなら』と唱える群衆の中で、そして今度は壇上に立って……。


『あなたのココロ、丸見えデスっ!!』


 皆のあっけらかんとした顔が私を見つめる。

 私は向きを変え、紀平親子の前で喉が張り裂けんばかりに吠えた。


『あなたのココロッ!!丸見えデスっ!!』


 クラスメートたちがドッと笑い出す。はしたなく股を開き、指の輪っかで眼鏡をつくる。そのおとぼけた台詞に、クラスメートたちは私を笑い飛ばした。耳が死ぬほど熱い。茹で上がりそうなほど、羞恥心にのぼせた。


 それでもじっとまっすぐに紀平くんの眼を見つめる。……安心した。


 彼の眼に決意が現れていた。


 ゆっくりと母の顔を見上げながら、彼は叫んだ。



『あなたのココロ、丸見えデス――――――っ!!』



 その時目頭を熱く抑える母の姿を、彼はいまも忘れずにいるだろうか。


 私は、忘れていない。


 








 

 

 

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る