#31 Burn

「そう、だったんですか……」


 僕の頭の中で『魔法使いボブミイちゃん』の顔がはっきりとしてゆく。虚ろだった夢の形が、縁どられていく。あれは僕の妄想が生み出した夢じゃなかった。記憶の隅に残る思い出だったんだ。

 美佳さんの心を強く動かすほどのアニメ。少年少女のハートを鷲掴みにした伝説のアニメ。僕は今更それを思い出して、夢に見たんだ。

 でも、なぜ?きっかけは何だ?美佳さんのマジカル・ジャーニーと関係はあるのか?


「そんなバカげた夢でも応援したいって思えるなら、まだアタシも若いってことなのかしら」


 言いながら杏子さんはグラスの縁に唇を付けた。


「美佳さんって昔からあんな感じなんですか?」

「あんな感じって……野心家みたいなこと?」

「そうですね」

「ああ、美佳はね……、昔からそうかな。ちょっと気分屋みたいなとこもあるけど。自分のやりたいことに真っ直ぐなのよ。学園祭を盛り上げたいからって実行委員長は進んで引き受けるけど、生徒会長は死んでもやりたくない、みたいな。要は自分のやりたいことはやるけど、それ以外はてんで興味なしって感じ」


 杏子さんの語気から、心底、美佳さんに呆れている様子が分かる。慕ってはいても彼女の無頓着な性格には辟易しているのだろう。


「別府君は美佳に憧れてるの?」

「え?」

「マジカル・ジャーニーの話を聞いてる時、別府君、イキイキした目をしてたわよ」

「そうですか?」

「ええ、目が輝いてたわ。アタシのマジックでも輝かせてやろうと思ったけど、なかなかどうして適わないわね。妬いちゃうわ」


 杏子さんは肩をすくめた。


「いや僕、本当に杏子さんのマジックすごいと思いましたよ」

「いいのよ。その言葉にウソはないと思ってるけど、やっぱりマジカル・ジャーニーのワクワク感に比べたら、ね」


 彼女の乾いた笑い。僕は口をつぐんでしまった。


「別府君、今日は美味しいお酒が飲めたわ。ありがとう」


 そう言い残して彼女は席を後にした。カウンターの奥に小さくなっていく背中。よれたローブのしわが、やけに目に焼き付いた。


 あのモスグリーンのローブを、僕は最近どこかで見た。そんな気がした。既視感というのは、こういうことを言うんだろう。





 あの日は酷くむさ苦しい、熱帯夜だった。むれたタオルケットを足で払いのけ、寝返りを打つ。汗で濡れた背中に、冷たい空気が通る。じっとしているとその感覚は一瞬で過ぎ去り、むんむんとした熱が込み上げてくる。そうしてまた寝返りを打って、一時的な爽冷感を得る。徐々に間隔が短くなってくると、体を動かす分だけ熱量が増え、効果がなくなる。ジッとしたまま我慢していよう、としたところでまた寝返りを繰り返してしまう。そして汗ばんだ僕を食い物にするのが、蚊だ。顔元に来た蚊をなんとか手で払いのける。しかし、彼らは刺しても刺してもその手を休めない。手足をばたつかせる僕を嘲り笑うかのように、不快な羽音を聞かせる。


 寝られるか。

 ただでさえ日中は、心と体を極限まですり減らしているのだ。夜くらい静かに寝かせてほしい。

 僕はリモコンを手にし、エアコンの電源ボタンに指を掛け、そこで手が止まる。

 ……いまエアコンは使えない。フィルター交換を示すオレンジ色の光が点滅している。今年の夏はずっとこうだ。中のフィルターがホコリまみれで、新しいものに買い替えるか、掃除をしなければ使えたもんじゃない。


 僕は湿ったTシャツを脱いで、ベランダに干してあったポロシャツに着替える。


 少し外を歩いてこよう。外はまだ暑いが、自分の部屋で熱気と蚊と闘い続けるよりは、夜風に当たっていた方がマシだ。僕はつっかけに足を通して、玄関を出た。


 ちちち、と音を立て街灯の周りを虫が忙しなく飛び回る。ここは閑静な住宅街、どこの家も電気が消え、ひっそりと静まっている。唯一僕の足音だけがその静寂を埋め、どうしたことか、いつもはウルさいセミの声も今夜は全く聞こえない。遠くに聞こえる鈴虫の声が段々と大きくなって、街灯の足元にある植え込みの横を歩くと、その声はしんと大人しくなった。

 背中にじんわりと浮かび上がる玉のような汗、それは僕の脚の動きと一緒に肌を伝って降りてゆく。お腹の辺りのしわを掴んで、パタパタとさせる。少しだけ、涼しくなる。


 将来が不安じゃないのか、そんな自問は何万回と繰り返してきた。でもいつになってもはっきりとした答えは分からない。将来が不安だから、就活をしている。そのために何社と面接を受ける。でも結果には結びつかない。就活が嫌になってくる。少しくらい手を抜いたっていいじゃないか。休ませてくれよ。―――将来が不安じゃないのか。ふざけるな。


 僕の意識はまたビル群の喧騒に戻されていく。

 眉根をひそめた大人たちがまるで肉牛の品評会みたいに、僕を舐めるように見つめる。何か芸をして見せろ、と平気な顔でのたまう。僕は何と分からぬ強迫観念に押しつぶされ、彼らの前で裸踊りをする。「私の長所は物事を深く考える思考力があることです」「私の短所は考え過ぎてしまうことです。しかし、それは長所であり……」「私が御社に採用されたなら……」、すべて詭弁だ。そんなことこれっぽっちも考えたことない。長所?短所?御社?そんなこと知るか。


 もう、限界だ。このまま時間だけが過ぎ去ってほしい。あのダストボックスに顔を突っ込んで、そうして一年二年と過ぎ去っていけばいい。誰も僕のことなんか認知しない、そんな世界が来ればいい。絶対、と言っていい。僕は絶対に今生きるこの世界をこいねがうことはない。だから……。



 歩く先、歪む闇夜に人影が見えた。


 目を凝らす。


 それはテルテル坊主のようなシルエットをしていて、コンクリートの歩道の上でゆらゆらと揺れていた。目は見えないが、こちらを向いていることは分かった。影が少しずつ大きくなってくるからだ。

 左右に揺れながら、ゆっくりと迫ってくる。

 近くに来て見ると、それは合羽のようなものを羽織った人間だということが分かった。顔は、見えない。背筋に悪寒が走る。背骨に沿って冷たい虫が這って行くような感覚。僕は迫ってくるその人影を前に、後ろ足を踏み出せずにいた。


 こんな夜更けだ。陽の出ている間は外を出歩けないような変わった人間もいる。この人はそういう人だ。合羽を羽織って顔を隠さなければ、緊張して外を出歩けない、そういう人だ。何事もないように通り過ぎるだけ。何事もないように。


 右に左にフラつきながら、しかし動線は真っ直ぐに歩いてくる。


 僕はそれを避けようと、右に反れる。

 目線を歩く先に、意識の先はに。僕は息を呑んで横を過ぎ去った。多少、合羽の裾を掠めたが気にしなかった。僕は視界の外に消えたを気に留めず、そのまま歩みを止めなかった。


 ピンと布地が張った。Tシャツの背中が何かにつままれた。

 僕は瞬時に振り返り、背中を確認する。


 何もない。

 

 意識が過敏になっているのかもしれない。何かされるかもしれないという恐怖心が、僕の意識の中で暴走している。気のせいだ。何も感じず、この場を立ち去ろう。


 …………何もない?


 僕は振り返った視線の先をもう一度確認する。たった数秒前、僕の横を通り過ぎたアレはどこに行った?

 

 僕が歩道の先に、目の焦点を絞ったその時だった。


「ワタシ、ボブミイチャン」

 

 心臓が跳ねる。喉輪を閉めて「ひっ」と短く息を呑んだ。


「ワタシ、ボブミイチャン」


 突然視界に飛び込んできた、女の子。綺麗に揃った前髪で目元は隠れ、小ぶりな唇が微かに動く。身を包んでいる衣装は合羽ではない。洋画で見たことがある。確かこれは、ローブと言ったか。


 息を止めたまま後ろにのけ反る。


「ワタシ―――ボブミイチャン」


 僕は何と声を掛けてよいか分からず、そのまま息を殺して、ようやく動いたかかとを地面にこすりながら、ゆっくりと後ろに退いてゆく。


「ド、ロンビー」


 ドロンビー?僕は脳内で彼女の言葉を繰り返す。


「コラ、シメナキャ」


 そう言って彼女は僕の右腕を指差した。何も言わぬまま、ただひたすら指を差し続けた。

 それまで声が出なかった僕もさすがに気味が悪くなって、不安に押し出されるように、喉元から声が漏れた。


「な、なんのつもりですか」

「ニガ、サナイ」


 彼女は指を鳴らすと、また黙ってしまう。

 

「なに?」


 初めにあった恐怖は段々と薄れていき、代わりにやってきたのは、苛立ちだった。僕はもしかして、ただの不審者の遊びに付き合わされているだけではないか。彼女は、実は腰の折れ曲がった浮浪者の老婆で、夜更けの暇つぶしに僕をからかっているんじゃないかという疑心が湧いてきた。


「……ケロ」

「は?」

「ヤケロ」


 低くドスの利いた声。

 やっぱり、そうだ。体の大きさから子供かと思っていたが、違う。彼女はこの近くの公園を根城にしている、浮浪者の老婆だ。朝帰りの明け方、いつもダストボックスを漁っているあの老婆だ。そのローブもどこかから拾ってきたのだろう。


「僕もう行きますから」


 踵を返して、また歩道を歩き出す。

 歩幅を大きくとって一刻も早く彼女から離れたいという気持ちが、僕を前方に押しやる。後ろに、気配は感じない。

 

 まったくこんな暑い日に、イライラさせてくれる。涼みに来たのにこれでは逆効果だ。ああ、もう。頭がカッカとする。熱い。体が熱い。なんだ、僕はこんなに苛立っていたのか。無理もないな。日々、人格を否定されるようなことを言われて苛立たないわけがない。情緒が不安定になっているんだ。これはもう、病気だな。落ち着いたら、実家に帰ってゆっくり休もう。その方がいい。それにしても、随分と熱いな。さっきはこんなに熱くなかったはずなのに。熱い熱い熱い……?なんだ?……右腕が熱い。


「あ……、あああああああああ!!」


 右腕が焼けるように熱い。違う。これは熱じゃない、痛みだ。

 

 右腕が、焼けている……!


 肩口から手首に掛けて、腕がただれている。

 暗闇でよく見えないが、確かに燃えるような痛みがある。


「くぅっ……!!」


 熱い。痛い。熱い。痛い。

 僕は余った片手で右腕を押さえる。


 その時感じた妙な違和感を僕はきっともう思い出せない。激しい痛みと、たぎるような熱さに僕の気力は限界に達していたからだ。


 そのまま植え込みに倒れ込んで、意識はぷっつりと消えた。


 曖昧になった記憶の出口は、病院の白い天井だった。





 


 


 



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る